説    教    創世記5章21〜24節  ヨハネ福音書12章25〜26節

「われに従い来たれ」

2009・09・27(説教09391291)  今朝の御言葉、ヨハネによる福音書12章25,26節で、主イエス・キリストは私た ちにこう告げておられます。「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を 憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人が あれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わた しに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その 人を父は重んじて下さるであろう」。  よくこの御言葉は“難しい”と言われます。特に最初の25節に私たちは素朴な疑 問を抱きます。主イエスは「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を 憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」と言われます。しかし「自分の命」 を愛さない人間がはたしているでしょうか。同じように「自分の命を憎む」人間が、 はたして存在するのでしょうか。  もし仮に「自分の命」に執着することを「自分の命への愛」と言い換えるなら「自 分の命を愛する」ことは人間にとって最も根源的かつ必然なことだと言えるでしょう。 “本能”とさえ呼べるかもしれません。すると今朝の25節は「あなたは生きること を捨てなさい」ということなのでしょうか。人生を達観し本能を超越した特殊な人に だけ可能な“狭き道”を行くことなのでしょうか。そのような無理難題を克服した人 だけが「永遠の命に至る」ことができる、ということなのでしょうか。  そうではありません。ここで主イエスが言われることは「生への執着を断ち切れ」 とか「本能を超越せよ」ということではないのです。そうではなく、この25節の御 言葉を解く鍵は次の26節の中にあります。25節と26節は切離して読むことができ ない車軸の両輪のようなものなのです。すなわち26節に主はこう言われます「もし わたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれ ば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕え ようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」。  ここで大切なことは「わたしに従って来るがよい」(われに従い来たれ)と主が私た ちをあるがままに招いていて下さることです。それこそ私たちの信仰生活の中心なの ではないでしょうか。私たちの日々の生活はいつどこにあっても“われに従い来たれ” と招きたもう主に従う生活なのです。キリストを「主」と告白し教会(聖徒の交わり) に連なり、福音の御言葉によって生かされる生活です。教会に連なる私たちにとって “われに従い来たれ”との御言葉こそ生活の中心軸なのです。  そこから私たちは「仕える」ということの意味をも知ることができます。「仕える」 とは元々のギリシヤ語では“ディアコノイ”という言葉です。これは後の時代には教 会の「執事の務め」をあらわす言葉になったものですが、その本来の意味は「神に仕 える」ということです。だからこの「仕える」という言葉は主の教会に連なる私たち 全体への招きであり大切な務めを意味します。教会の務めに連なりキリストに仕える 新しい歩みです。それが“ディアコノイ”という言葉の本来の意味なのです。  そうしますと、そのすぐあとで主が語っておられる言葉が非常に大切な意味を持つ ことがわかります。それは「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわた しに従って来るがよい」と主が語っておられることです。ここには何の隔ての壁もな いのです。ただ「主に従おう」とする思いがあるだけで良いのだと主は言われるので す。「(誰でも)わたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るが よい」と招いていて下さるのです。この「従って来るがよい」とは「恐れず、躊躇わ ず、あなたのあるがままに従って来なさい」という意味です。あとのことは全て私に 任せなさい。あなたはただ従って来るだけで良いのだと主は言われるのです。  これを言い換えるなら、主はこのように告げておられるのです。「私に仕えることは、 私に従って来ることである」と。つまり“キリストに仕える”ことは“キリストの御 招きにあるがままに従う”ことなのです。そのとき私たちの人生に本当の生命(永遠 の生命)が与えられるのです。不思議なことですが、私たちは自分の生命を人生の最 終目的とする限りは、決して本当の生命を持つことができないのです。そうではなく、 私たちの人生は人生より尊いかたによって支えられ、意味づけられ、導かれているこ とを知り、そのかたを信仰をもって「主」と仰ぐことによってのみ、はじめて私たち は神との永遠の交わり(永遠の生命)に生きる者とされるのです。  生まれながらに丈夫な身体を持ち、スポーツをこよなく愛した一人の青年がいまし た。彼はやがてある中学校の体育の教師になり、情熱を持って生徒たちの指導にあた りました。ところがある日、信じられない事故によって全身の運動機能を失い、首か ら下が完全に麻痺したいわゆる“植物状態”になってしまいます。絶望したこの青年 は病床の上で何度も自殺を考えるのです。生きている意味も価値もないと思い詰める のです。絶望的な思いは彼から生きる希望を完全に奪い、粗暴な言葉だけが口から出 るようになりました。そのような日々の中でこの青年は、星野富弘という人ですが、 キリスト教に出会います。聖書の御言葉に出会い、イエス・キリストを「救い主」と 信じ、ベッドの上で洗礼を受け、聖なる公同の教会の交わりの中に新しい歩みをはじ めるのです。  この星野富弘氏がこういう詩を書いています。「命がいちばん、大切だと思っていた ころ、/生きているのが辛かった。/命よりも大切なものが、あると知った日、/生 かされていることが喜びになった」。この詩の中には私たち人間にとって最も大切な人 生の奥義が示されていると思います。私たちも日頃なにげなく「命がいちばん大切だ」 と思っています。しかし自分の生命を人生の最終目的(最大の価値)とする人生は決 して私たちを生かしえないのです。そこに人間の尊さと不思議さがあります。それは 言い換えるなら、私たちの生命と私たちの人生はいかなる意味においても私たちの 「主」とはなりえないということなのです。そうではなく、私たちの生命また人生は、 私たちの生命よりも尊いかたによって与えられ、祝福され、支えられ、導かれている ものだということ。そこに私たちの本当の人生の基盤があるのです。星野氏が言うよ うに、まことに「命よりも大切なものが、あると知った日」にこそ「生かされている ことが、喜びに」変るのです。「自分の生命を愛する」だけでは本当の人生にはならず、 「自分の生命を目的とする」だけでは人生の本当の意味を見失うのです。  この星野富弘氏のみならず、私たち一人びとりにとって「命よりも大切なものがあ ると知った日」こそ、ほかならぬまさに“キリストの御招きにあるがままに従う”歩 み、すなわち“われに従い来たれ”と招きたもう主に従う新たな人生を見いだすこと ではないでしょうか。キリストを「救い主」と信じ、まことの神の愛を知り、教会に 連なって御言葉に養われつつ、キリストに従う歩みをなすことです。それこそが人間 にとって唯一の「命より大切なもの」を知ることなのです。私たちを極みまでも愛し、 私たちの罪のために十字架にかかって下さったかたを「わが主・救い主」と信じ告白 することなのです。  主は私たちに、及びがたく険しい道を歩むことを求めたまいません。むしろ逆に、 主イエスみずからがまず私たちの罪の贖いとして呪いの十字架を担われ、何人も歩み えないあのゴルゴタへの苦難の道を最後まで歩みとおして下さったのです。ただその 主の十字架の恵みによってのみ、私たちはいまあるがままに主イエスに従う者とされ ているのです。人生のまことの「主」を知る者とされているのです。主は、あなたは ただ私に従って来るだけでよい。あとのことはいっさい私に任せよと仰せになってお られるのです。「われに従い来たれ」とはそのような御言葉です。ルター訳のドイツ語 の聖書では“Nachforge”(ナファフォルゲ)という訳になっています。それは「その かたに向かって身を投げ出す」という意味です。私たちは招きたもうキリストに向か って身を投げ出せばよいのです。その私たちの全存在を(その罪の重みもことごとく) 主が確かに受け止め支えて下さるのです。信仰とはキリストに向かって身を投げ出し て生きることです。パウロの言うように「後ろのものを忘れ、前のものに向かって身 を伸ばしつつ」招きたもう主に従うのです。  私たちがそのように生きるとき、主はさらに大いなる御業を私たちに現わして下さ います。それは「そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるで あろう」という約束です。私たちは目標のない旅路を歩むのではありません。主イエ スがいつも共におられる所に私たちの歩みがあるのです。私たちがどこでどのような 歩みをなそうとも、私たちがそこで主に身を投げ出すとき、主はかならず私たちと共 にいて下さいます。主みずから私たちがいつもどこでも、決して主の御声を聴き失う ことがないようにして下さるのです。「キリストに仕えること」は「キリストと共に歩 むこと」です。「キリストと共に歩む」とは、キリストがおられる所に私たちの日々の 生活があることです。それならば、これ以上の幸いはないのです。あの星野富弘氏が 見出した新しい喜びの人生もまさにキリストの御手の内にあったのです。それは神の 栄光のために生きる新しい生活です。神の祝福と愛を讃美する生活です。神の恵みの 豊かさを喜び、物語る生活です。神の慈しみの真実に支えられ、導かれた者の歩みで す。主は言われました「視よ、われは世の終りまで、常に汝らと共にあるなり」。  しかも、それで終わりではないのです。更にまた大いなる約束を、主は私たちに語 り告げていて下さいます。それは26節の最後の御言葉です。「もしわたしに仕えよう とする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」とあることです。この「重 んじて下さる」とは元々のギリシヤ語で“ティメー”という言葉ですが、その本来の 意味は「価値」ということです。ですから「重んじて下さる」とは「かけがえのない 価値を持つものにして下さる」という意味なのです。  私たちは主なる神の御前に「価値」などある存在でしょうか。答えは“否”であり ましょう。私たちは罪人のかしらなる存在でした。御言葉に叛き、神の愛に応えず、 おのれの欲する事のみをなそうとする存在でした。「自分の生命を愛する」ことが人生 の目的でさえある者でした。この世界はそのような私たち人間の罪の結果で満ち溢れ ているのです。毎朝新聞を読んで人間の「ただおのれのみを愛する」罪の結果が現れ ていない日が一日でもあるでしょうか。まさしく「自分の命を愛する」ゆえに「それ を失う」歩みを今日もなお人類は続けているのではないでしょうか。  主イエスは全く逆の歩みをなさいました。主イエスは御自分の生命を私たち全ての 者のために献げたもうために世に来られたかたなのです。主が願われたことは、御自 分が犠牲となり贖いとなって全ての人が救われることです。全ての人が罪の足枷から 解放され、自由な神の子の喜びに立ち帰ることです。全ての人が教会に連なり、復活 の生命にあずかる者とされ、本当の人生の喜び、人生の目的を知る者となることです。 そのキリストの十字架の贖いの上に、私たち一人びとりの人生が「かけがえのない価 値あるもの」として与えられているのです。神の愛は値なき者に永遠の絶対の価値を 与える愛なのです。私たちはいま神により、御子イエスの十字架の贖いのゆえに、か けがえのない価値あるものとならせて戴いているのです。そこに私たちの変らぬ幸い と喜びがあるのです。  キリストに仕えるとは、キリストに従うことです。キリストに従うとは、キリスト の恵みの招きに私たち自身を投げ出すことです。そのとき、その私たちの全存在・全 生活を、父なる神みずから「かけがえのない価値ある存在」愛する子として「重んじ て下さる」のです。求められていることはただ一つだけです。キリストを信じ、主の 教会に連なり、礼拝者として生きることです。御言葉に養われつつ、キリストの愛と 真実に向かって、私たちの身を投げ出すことです。ただそこから真の生命の歩みが始 まってゆくのです。