説    教  イザヤ書45章4〜5節  ヨハネ福音書12章20〜24節

「一粒の麦」

2009・09・20(説教09381290)  ヨハネによる福音書には他の3つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にはない重要な 記事が数多くあります。その中でも今朝お読みした12章20節以下は特に有名な御言葉 です。特に24節「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。 しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」これはキリスト者ではない人々 にも広く知られている聖書の言葉ではないでしょうか。フランス実存主義の作家アンド レ・ジイドはこの聖句を有名な作品の題に用いています。  さてこの24節の御言葉は、文語の聖書ではこのように訳されます「一粒の麦、地に 落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」。特に気をつけ たいのは、最後の「多くの果を結ぶべし」という言葉です。この「結ぶべし」と「結ぶ ようになる」という口語の訳とは少し違うと思います。「結ぶべし」とは「かならず果を 結ぶ」という意味だからです。自然の出来事ではなく神の恵みの成就なのです。 畑に蒔かれた麦の種はどの一粒も必ず実を結ぶとは限りません。それならここに「多 くの果を結ぶべし」とあることは単なる自然の出来事や言葉の比喩を超えて、神の恵み による大いなる祝福の出来事であり主の御約束にほかならないのです。そして何よりも、 ここに記されている「一粒の麦」とはいったい何を(誰のことを)さしているのか。そ れをまず私たちはしっかりと読み取って参らねばなりません。  主イエス・キリストが「ろばの子」に乗ってエルサレムに入城されたのは、ユダヤの 三大節の一つである“過越の祭”の五日前のことでした。ユダヤ全土はもちろん遠く外 国からもおびただしい人々が礼拝のため神殿に集まって来ていたのです。“異邦人の中 庭”と呼ばれる神殿の中庭には巡礼者たちがひしめいていました。そしてそれらの人々 の中に、いわゆる“異邦人”と言われる「ギリシヤ人」が数人いたのでした。  20節を見ますと「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人が いた」とあります。驚くべきことでした。彼らは異国の祭を見物するために物見遊山で 来た人々ではなく、神殿において真の神を礼拝するために信仰をもって来た人たちです。 彼らは異邦人であるにもかかわらず、真の神を信じ真の礼拝を願う人たちでした。その 目的は主イエスにお目にかかることでした。彼らは主イエスに会うために遠く千数百キ ロもの旅をして来たのです。彼らは美しく飾られた神殿の建物にも、威儀を正した律法 学者や祭司らの姿にも、心を奪われませんでした。彼らはエルサレムに着くなりまず主 イエスに会うことを願ったのです。主イエスを「まことの神の御子・救い主キリスト」 と信ずる人たちであったのです。  そこで、私たちに求められていることも、このギリシヤ人らのようなキリスト中心の 信仰生活ではないでしょうか。遠くてもキリスト中心の礼拝生活に生きる私たちに主は 必ず会って下さいます。御言葉を正しく聴く者、主の御旨に従う者となることが大切で す。かつて内村鑑三は「夏過ぎてカントヘーゲルいかにあらむ登るは古き十字架の道」 と歌いました。私たちもまた「登るは古き十字架の道」との志を新たにこのピスガ台に 集うているのです。主の御前にみずからを明け渡す信仰の歩みをしたいのです。  あるとき主は「あなたがたは何を見に出て来たのか」と私たちに問われました。マタ イ伝11章7節です。「風にそよぐ葦であるか。それとも、着飾った人々であるか」。い ま私たちのまなざしは“十字架の主”にのみ注がれているでしょうか。いま私たちは本 当に「預言者以上の者」(贖い主なるキリスト)を見つめているでしょうか。エルサレム を埋め尽くした数十万人の群衆の中に一人も“十字架の主”を信ずる者はいなかったの です。いちばん遠くから来た数人のギリシヤ人が“十字架の主”を信じ告白したのです。  さて、彼らは主イエスに直接面会しようとせず、まず弟子の一人であるピリポに紹介 を頼みました。21節には「彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、 『君よ、イエスにお目にかかりたいのですが』と言って頼んだ」とあります。これは高 貴な人に面会を求める方法であり、彼らの主イエスに対する限りない尊敬を示していま す。おそらく十二弟子の中でピリポだけがギリシヤ語を話せたので、彼らはピリポに仲 介を願ったのでありましょう。そこで22節を見ると、ピリポは早速そのことを兄弟弟 子のアンデレに伝え、2人は連れ立って主イエスにそのことを話したと記されています。 「ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスの もとに行って伝えた」。ここに異邦人であるギリシヤ人がキリストを訪ねて来るという前 代未聞の出来事が実現したのです。それはクリスマスの日の東方の3博士の来訪にも比 すべき出来事でした。  この来訪を受けた主イエスの反応は、弟子たちも思いもかけぬまことに厳粛なもので した。すなわち主は23節以下にこう言われたのです。「すると、イエスは答えて言われ た、『人の子が栄光を受ける時がきた。よく、よく、あなたがたに言っておく。一粒の麦 が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、 豊かに実を結ぶようになる』」。文語訳ではこうです「人の子の栄光を受くべき時きたれ り。誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。も し死なば、多くの果を結ぶべし」。  そもそも「数人のギリシヤ人」の来訪とは何を意味したのでしょうか。彼らは何のた めに主イエスを訪ねて来たのでしょうか。それは礼拝のためです。主にのみ栄光と讃美 を献げるためです。しかしそれと同時に彼らには別の意図があったのではないかと思わ れるのです。それは何かと言いますと、主イエスの御言葉と御業の素晴らしさを伝え聞 いた彼らは、律法学者や祭司らの陰謀から主イエスを救うためにエルサレムに来たので はないでしょうか。祖国ユダヤに受け入れられず十字架の苦難の道を歩みつつあるキリ スト(神の御子)を、自分たちの故国ギリシヤに迎えて自由に活躍して戴こうではない か。そのような願いと計画があったのではないでしょうか。かくして主イエスに、昔の 哲学者ゼノンやエピクロスのような安らかな余生を送らしめようとしたのではないかと 想像されるのです。  もしそうならば、主イエスはその申し出をはっきりと拒絶なさったのです。ユダヤに 留まる道を(十字架への道を)お選びになったのです。もし彼らの勧めを受けてギリシ ヤに行ったら、十字架の苦難と死を免れることができたでしょう。安楽な余生を送るこ ともできたかもしれない。しかしそれは要するに明哲保身の術であり、自分を救う道で あって人を救う道ではありません。主は御自分の全てを献げて私たちを罪と死の支配か ら解放し、神の民の自由と喜びに甦らせるために世に来られたかたです。安逸な生活を 享受し聖賢の教えを垂れて人々を教化育成する哲学者ではなく「古き十字架の道」を歩 まれる唯一の神の子キリストであられるのです。  譬えて言うなら主イエスは、泥沼にはまって沈んでゆく私たちを救うために、みずか らその泥沼の中に飛びこんできて下さり、ご自分は泥の中に沈んで、私たちを下から持 ち上げて救って下さり、ご自分は死んで下さったかたなのです。十字架とはそのような 贖いの御業なのです。自分は安全な岸にいて「ああせよ、こうせよ」と指示するだけの かたではないのです。まずご自分がどん底にまで降りて行かれ、そのことによって私た ちを救い、ご自分は身代わりになって死んで下さったのです。  だからこそ主は弟子たちに、またギリシヤ人らに告げて言われました。「誠にまことに 汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの 果を結ぶべし」。この「一粒の麦」とは主イエスご自身のことです。それが「死ぬ」とは 十字架の出来事をさしています。それなら「数人のギリシヤ人」が主イエスを礼拝する ために来たことは、神から最も遠く離れていた人に福音が(救いが)来たという「徴」 です。神から最も遠く離れていた私たちが、キリストの十字架によって最も近い者とさ れたのです。私たち全ての者の救いの「時」がいま来ているのです。それを主イエスは ご自分が「栄光」を受けたもう「時」が来たと言われたのです。  「桐一葉落ちて天下の秋を知る」(高浜虚子)。一枚の桐の葉が地球の公転の事実、秋 が到来したことを告げる徴になるように、この数名のギリシヤ人の来訪は福音が神から 最も遠い異邦人(私たち全ての者)に及び、全世界に宣べ伝えられる確かな「徴」なの です。主は神からいちばん遠く離れていた私たちを救うために、私たちの罪のどん底に まで降って来て下さいました。まさにその救いがいま私たちのもとに来ているのです。 すなわちここにキリストの御身体である教会が建てられ、御言葉と聖霊によって真の礼 拝が献げられていることです。そこに全ての人への救いの出来事が起こります。主の御 業が世界に現れているのです。  私はかつて農学校で学びました。演習農場という広い農場に麦の種を蒔く経験をしま した。畑に播かれた麦の種は畑の土の色と完全に同化してしまいます。あとから探そう としても見つからないのです。それは本当に不思議なほどです。そこで、今朝の御言葉 に告げられた「一粒の麦」と「土」との関係は、主イエスとこの世界(私たち)との関 係なのです。主イエスみずから「土」である私たち(世界)と同化して下さった恵みで す。主は十字架によって私たち滅ぶべき罪人と徹底的に連帯して下さったのです。私た ちの負うべき滅びをご自分のものとして下さり、私たちの罪の重みを徹底的に御自分の ものとして担い取って下さったのです。  それが「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ということです。それはさらにキリストの「葬 り」を意味しています。「土に落ちる」とは「墓に葬られること」です。キリストは私た ちの「罪」のために十字架に死んで墓に「葬られ」たまいました。つまりキリストはご 自身の死によって永遠の死(罪)を打ち滅ぼして下さったのです。そして御自身の復活 の御身体なる教会によって、私たちを永遠の生命に連なる者として下さったのです。  それゆえ「もし死なば、多くの果を結ぶべし」とは、まさに主の御身体なる教会にお いていま私たちに起こっている救いの出来事なのです。「多くの果」とはキリストの生命 に連なり、生かしめられ、主に結ばれている私たち一人びとりです。この「一粒の麦」 はかならず「多くの果(救われた群れ)」を生むのです。逆に言うならこういうことです。 私たちは弱く脆いものですが、教会によって復活のキリストに連なるとき、かならず永 遠の生命(まことの神との永遠の交わり)の内を歩む者とされるのです。そのとき私た ち一人びとりがこの世界と隣人に対して、主が蒔いて下さった「一粒の麦」とならせて 戴けるのです。その麦は小さな「一粒の麦」にすぎません。しかしそれは主が蒔きたも うたその地において「多くの果を結ぶ」ものとされているのです。  その約束が、祝福が、いま私たち一人びとりに与えられています。私たち全てのもの を主は「多くの果を結ぶ」ものとして世に遣わして下さいます。神の祝福を告げる器と して下さるのです。それがこの教会(礼拝)において起こっている祝福です。主がまず 私たちを御自分の生命を献げて祝福して下さいました。主がまず私たちを極みまでも愛 し、私たちを死から甦らせて下さいました。私たちの存在、私たちの生活、私たちの日々 の歩みは、このキリストの十字架の恵みにいつも満たされ支えられているのです。神の 祝福の上に建てられているのです。いついかなるときにも、主は「一粒の麦」として私 たちの贖い主であられ、変ることなく私たちと共にいて下さるのです。