説    教     詩篇89篇1〜2節  ヨハネ福音書12章17〜19節

「十字架の主の歩み」

2009・09・13(説教09371289)  それは主イエスが十字架にかかられる5日前の日曜日のことです。主イエスは民衆の 熱狂的な歓呼に迎えられてエルサレムに入城されたのでした。人々は手に棕櫚の枝をた ずさえ、それを打ち振りながら主イエスを迎えました。棕櫚の枝はほんらい神殿奉献日 の記念礼拝に用いられるものでしたが、主イエスの時代には勝利者としての新しい「王」 の即位式に用いられる徴とされていました。つまり群衆は主イエスをこの世の新しい 「王」として歓迎したのです。「ホサナ」とはヘブライ語で「今こそわれらを救いたまえ」 という意味の詩篇118篇25節の御言葉です。  これは神に対する祈りの言葉です。だからこの世の「王」に献げる言葉ではありませ ん。しかし群衆は新しいこの世の「王」への歓迎の言葉と理解し、ローマの圧制からユ ダヤを解放してくれる新しい「王」として主イエスを歓迎したのです。主イエスはこれ までもご自分が民衆の期待している政治的な「王」などではなく、キリストであること を明らかにして来られました。しかしその言葉は自分たちの描いた「王」のイメージに 酔いしれた群衆の耳には届かなかったのです。  まして人々は、主イエスがゼカリヤ書の9章9節に記されているように「ろばの子」 に乗ってエルサレムに入城されたことの意味を理解しようとしませんでした。主イエス の十二弟子たちも同じでした。もしこの世の「王」であれば蔑まれていた「ろばの子」 などに乗って来られるはずはありません。しかし預言者ゼカリヤは、神の御子キリスト は「ろばの子」に乗ってエルサレムに入城なさるとはっきり告げています。それがキリ スト来臨の“しるし”だからです。  そこで、同じヨハネ伝の12章16節を見ますと「弟子たちは初めにはこのことを悟ら なかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、 またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起こした」と記 されています。主イエスの十字架と復活ののち、教会に連なってはじめて弟子たちはこ れらの“しるし”が旧約聖書の成就であったことを悟ったのです。この「悟った」とは 「福音を聴いて信じた」ということです。キリストを「わが主・救い主」と告白し教会 に連なって生きる者になったのです。  さて、エルサレムの群衆はベタニヤの村から来た人々と出会って、ラザロの復活の様 子を詳しく聞きました。それが今朝の御言葉の17節に「また、イエスがラザロを墓か ら呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあ かしをした」とあることです。そのことによってエルサレムの群衆の熱狂ぶりは頂点に 達しました。18節には「群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを 行われたことを、聞いていたからである」と記されています。  死んで墓に葬られた人間を甦らせるということは、ただ神にのみなしうる真の救いの 御業です。それなら群衆はこの出来事を聴いて、主イエスを「キリスト」(神の独り子) と信じなければなりませんでした。しかしそうではなく却って人々は、そんなに偉大な 力を持っているかたなら、必ず強い国家を建設してくれるだろうと政治的な期待のみを 膨らませていったのです。群衆は神の言葉に支配されことよりも、自分たちが神の言葉 を支配することを喜んだのでした。  これと同じことが、私たちにも起こらないでしょうか。神の言葉(福音)を耳では聞 いています。しかしそれはただ「聞いている」というだけで、心では少しも聴いてはお らず、古き自分は少しも砕かれず、悔改めもない。新しい生命の恵みを戴こうともしな い。却って自分の期待と関心だけを膨らませている。そういう御言葉の聞きかた(教会 生活)を私たちもしてはいないでしょうか。二千年前のエルサレムの群衆の姿はここに 集う私たち自身の姿でもあります。私たちは御言葉を支配する罪をおかしてはいないで しょうか。「悟り」のない者になってはいないでしょうか。いつも健やかな信仰の歩みを しているでしょうか。肉体の病気は目に見えますが、魂の病気は目には見えず自覚症状 もありません。だからまことの医師であられる主イエスの御手に委ねることが大切です。 主イエスの診断に従うことが信仰生活の要です。  この“御言葉への不従順”は、神の言葉に仕える務めにあったパリサイ人らも同じで した。19節にはこう記されています「そこで、パリサイ人たちは互に言った。『何をし てもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか』」。この言葉にはパリ サイ人らが表向きは“神に仕える”と言いながら、実は民衆の人気だけを気にしていた ことをはっきり現わしています。「パリサイ」という言葉は「分離された者」という意味 のヘブライ語です。“神に仕えるために選ばれた者”という意味です。しかし現実には彼 らは神にではなく、ただ人に仕えていただけでした。だから群衆が主イエスを熱狂的に 歓迎し主イエスに従って行ったことを苦々しく思ったのです。「これはいったいどうい うことだ。民衆はみな我々にではなく、世をあげてあの男(イエス)について行ってし まったではないか」と苦りきった表情で「互に言った」のです。  これは現代の教会も気をつけねばならないことです。教勢の拡大(数字に表れること) だけを伝道の成果だと理解するとき、私たちも簡単に世に追従するだけの群れ(人間中 心の群れ)になってしまうからです。先日、私の友人がある東京の大きな教会の前を通 りかかったとき、そこに「落語公演会」と大きな看板が出ていてがっかりしたと言って いました。落語家を呼べば教会に人が集まると思ったのでしょうか。しかしそれでは本 当の伝道などとうていできません。  主イエスはいつも群衆と共におられます。しかし群衆はいつも主イエスと共にいるわ けではありません。同じように、主イエスはいつも私たちと共におられます。しかし私 たちはいつも主イエスと共にいるわけではないのです。たとえ私たちがみな「世をあげ て(主イエスを)追って行った」としても、そこに「信仰」がなければ、それは単なる 烏合の衆であり「主の教会」とは呼べないのです。主イエスは「もし二人または三人が、 わたしの名によって集うなら、わたしもそこにいるのである」と言われました。大切な のは「わたしの名によって」という言葉です。キリスト・イエスの御名を信じ告白する 者が集うなら、たとえそこに「二人または三人」しかいなくても、私はかならずその群 れと共にあると、主ははっきりと約束して下さったのです。人の目にはどんなに小さな 群れであっても、キリストの臨在によってのみそれは「唯一の聖なる公同の使徒的な教 会」として主の救いの御業を世に現わす器とされるのです。  では私たちは今ここに、そのような教会(真の礼拝の群れ)を造っているでしょうか。 現臨したもうキリストによって問われています。棕櫚の枝を振り歓呼の声をもって主を 迎えた群衆は、主イエスが自分たちの期待していた「王」ではないと知ったとたん掌を 返したように主に背を向け、最後にはあのゴルゴタへと続くヴィア・ドロローサ(悲し みの道)で十字架を担われる主に罵詈雑言を投げつけ「十字架につけよ」と絶叫するに 至ったのです。そこにはパリサイ人らの巧みな民衆扇動(プロパガンダ)があったこと でしょう。ならばなおのこと、神の言葉ではなくパリサイ人の言葉に人々は従ってキリ ストを罵ったのです。神の言葉に打ち砕かれなければ、私たちはおのれを義とし神を偽 りとするほかはないからです。  私たちは信仰生活を続けてゆく中で様々な困難に出遭います。キリストの道をキリス トと共に歩もうとすればするほど、いろいろな悩みや難しさや労苦が私たちの生活に伴 うのです。私たちが信仰の節操を曲げて人間を「主」にしたくなるのはそのような時で す。信仰のゆえの苦労に嫌気がさし、あるいは疲れて、私たちはいつしかキリストと共 に歩むことよりも、自分の願いや経験や知識を「主」とする道を選んでしまうのです。 しかし主なる神が真に私たちの「主」であることは、私たちが健康に次ぐ健康、安逸に 次ぐ安逸、幸いに次ぐ幸い、成功に次ぐ成功、無病息災と家内安全とを与えられること で示されるのではありません。むしろ私たちの思いに反して苦しみがあり、私たちの願 いに反して挫折があり、私たちの思惑に反して悩みが起こる、それだからこそ神はいっ そう頼もしい「主」であられる。我らの父なる真の救い主であられる。そのような信仰 生活へと、私たちはイエス・キリストによって導かれているのではないでしょうか。  父なる神の思いは私たちの思いに遥かにまさって高く、神の御計画は私たちの計画を 常に超えており、神の祝福は私たちの願うものよりずっと大きなものなのです。神は私 たちの心が最大限に願い求める極限のさらに上にある崇高なもの、尊いもの、限りない 祝福と幸いと喜びと自由とを、私たちに授けようとしておられます。そのために私たち を絶えず養い育て導き、あらゆる経験を通して私たちの信仰を強めて下います。もしこ の世界が、そして私たちの人生が、私たちの願うまま欲するままに動くものであるなら、 そのような世界や人生は意味のないものにすぎません。そうではなく、この世界そして 私たちの人生は、私たちの思いを超えたて真の神の支配したもう世界であり、神の愛の 御業の現れる人生であるゆえにこそ、そこには私たちの思いに反する様々な出来事が起 こるのです。使徒パウロは「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信ずることだけ ではなく、彼のために苦しむことをも、恵みとして賜わっている」(ピリピ書1:29)と 言いました。そして同時にローマ書8章28節でこう語っています「神は、神を愛する 者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるよう にして下さることを、わたしたちは知っている」。キリストの教会に連なり、礼拝者とし て歩む人生、それはキリストの愛と恵みの主権の内を歩む人生です。その人生において は、私たちが幸い、成功、健康と見る事柄のみならず、その逆に見える事柄を通してさ え、神は「ご計画に従って召されたものたちと共に」働きたもうて「万事を益となるよ うにして下さることを」私たちは知る者とされているのです。  だから私たちキリスト者に、成功した人生、失敗した人生、幸福な人生、不幸な人生 という区別はないのです。全ての事柄が、喜びも悲しみも、順境も逆境も、みな全てが 私たちの祝福となり導きとなって、私たちを最も確かに神の民・祝福の担い手・希望の 伝達者・喜びの生命の証人とならせて下さる。その恵みを私たちはキリストの十字架と 復活の御身体なるこの教会において知る者とされています。そのとき私たちの歩みは、 もはや今朝の御言葉の群衆やパリサイ人の歩みではなくなるのです。たとえ私たちがど んなに不確かで不真実であっても、キリストは確かに真実に私たちと共にいて下さり、 私たちを贖い、私たちを極みまでも愛し、祝福して下さるのです。 このキリストの愛を知り、この愛に活かされた私たちは、あの群衆と同じ場所に立っ ていても、違うところに進んでゆくのです。それは主イエスの十字架のみもとにです。 私たちはどんな時にも、私たちと共にいて下さる救い主イエス・キリストと共に、主の 御名によって贖われた者として歩んでゆきます。主が私たちという群衆の全ての罪を担 われ、独り十字架への道を歩んで下さった恵みを知る者として、永遠の贖いの恵みを知 る者として、私たちは十字架の主のもとに歩み寄り、主の教会に連なり、主の導きと主 権のもとを生きてゆくのです。そこに私たちの変らぬ喜びがあり、幸いがあり、尽きぬ 慰めがあるのです。  「何をしてもむだだった。世をあげて彼(キリスト)のあとを追って行ったではない か」と、パリサイ人らは言いました。このパリサイ人らの嘆息の声は、いま私たちの内 に実現しているキリストの救い(信仰の歩み)の確かさを示すものです。今すでに私た ちは十字架の主を仰ぐ幸いに生きる者とされているのです。世の力や富がいかに私たち を捕らえようとしてもそれは「むだ」に終わるのです。十字架のキリストの愛にこそ全 てにまさる宝があり誉れがあります。全ての人を愛して生命を献げて下さったキリスト の御業こそ世のいかなる富にもまさる輝きを持ちます。私たちの喜び、私たちの幸い、 私たちの誉れは、永遠に十字架のキリストにあります。朽つべき私たちを極みまでも愛 し、御自分を十字架にかけた全ての人のために祝福と赦しを祈られたキリストの愛にこ そ、本当の唯一の救いがあるのです。それを知りその福音に生きる群れとして、どうか 私たちは「世をあげて(キリスト)を追って行く」者であり続けたい。いつも共におら れるキリストと、いつも共に生きる者であり続けたいと思います。