説    教    ゼカリヤ書9章9節  ヨハネ福音書12章14〜16節

「キリストの柔和」

2009・09・06(説教09361288)  旧約聖書のゼカリヤ書9章9節にこのようにあります。「シオンの娘よ、大いに喜 べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義な る者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬 に乗る」。 預言者ゼカリヤは紀元前6世紀前半に活躍した人です。その時代イスラエルに“バ ビロン捕囚”という苦難の出来事がありました。ダビデ王朝以来繁栄を謳歌していた イスラエルが新興国バビロニアによって滅ぼされ、国中の人々が奴隷としてバビロン に連れ去られ50年もの苦役を強いられたのです。  やがて、その苦しみに満ちた50年の歳月ののち、廃墟となった故国イスラエルへ の帰還を許された人々は、エルサレム神殿の再建という未曾有の大事業に取り組むの です。それは単なる建物の再建ではなく、まことの礼拝と信仰生活の再建でした。そ の困難な事業のさなか、預言者ゼカリヤはひとつの幻をイスラエルの民に告げ知らせ ます。それこそ9節の「あなたの王が来られる」という喜びの音信(おとずれ)でし た。地上のあらゆる圧制と暴虐から人々を解放し、真の自由と平和を与える救い主な る「王」が来られる。しかもその救い主なる「王」は「義なる者であって勝利を得、 柔和であって、ろばに乗る」かたとして、再建されたエルサレム神殿に入城されると 告げられているのです。  この世の常識で言うなら「王」が「ろば」に乗って入城するなど、とても考えられ ないことなのです。「ろば」は家畜の中でも最も卑しい動物として蔑まれていたからで す。しかもこのまことの「王」(キリスト)は「ろばの子」に乗って来られるというの です。それが“このかたがキリストであられる徴である”と言うのです。  かつて“イエス・キリストの生涯”というアメリカ映画を観ました。その中で「ろ ばの子」に乗られてエルサレムに入られた主イエスを、祭司長やパリサイ人らが嘲り 笑うシーンがありました。「あの哀れな姿を見ろ、あれがイスラエルの王だと言うの か?」彼らはそう言って子ロバに乗った主イエスの姿を嘲ったのです。おそらく事実 そのとおりであったでしょう。群衆もみな驚いたに違いないのです。「新しいイスラエ ルの王」が来ると聞いて棕櫚の枝を持って待ち受けました。ところがやって来られた 主イエスはなんと「ろばの子」に乗っている。「王」と「ろばの子」という途方もない ミスマッチに人々は驚き呆れ果てたのです。「ろばの子」を蔑んだのと同じように主イ エスをも蔑んだのです。  そのとき彼らは預言者ゼカリヤの示した「キリストの徴」を見事に忘れていました。 この神殿の本当の完成は神から遣わされた唯一のまことの「王」の到来によってのみ 成し遂げられる。そのまことの「王」は「ろばの子」に乗って来られる。その「しる し」をみな忘れていたのです。神の御言葉を忘れて自分たちの判断だけを“正しい” としたのです。眼に見える見すぼらしさを蔑み、見えない御言葉を忘れていたのです。  エルサレムの神殿はピラミッドにも比すべき壮麗な大建築物でした。ヨセフスとい う歴史家は当時のエルサレム神殿について「それが朝日を受けて輝く姿は、さながら もうひとつの太陽が地上に現れたかのようであった」と記しています。しかし主イエ スはパリサイ人らに「この神殿を壊したならば、わたしは三日のうちに、それを建て 直すであろう」と言われました。人々はやはりそこでも驚き呆れて言うのです。「この 神殿を建てるのには四十八年もかかっている。それなのにあなたは、それを三日で建 てると言うのか」。そこでこそ福音書はこう語っています。主イエスが語られたのは、 御自分の十字架と復活によって建てられる神の家(教会)についてであったのである が、彼らはそれを悟っていなかった。  主イエスはパリサイ人らに言われました「あなたがたは、この建物をしか見ていな いのか。この建物の石ひとつでさえも、他の石の上に残らないようになる日が来るで あろう」。事実西暦90年ローマ軍による徹底的な神殿破壊によってその御言葉のとお りになりました。今日もなおエルサレムを訪ねる人々は、その徹底的な破壊の痕跡を 見ることができます。ローマ軍は神殿の土台の石までも掘り返して粉々に打ち砕いた のです。今では“嘆きの壁”と呼ばれる神殿西側の壁の一部分のみが僅かに残されて いるだけなのです。  これは、エルサレム神殿だけではありません。すべて目に見えるもので形を永遠に 留めうるものはこの地上には何一つ存在しないのです。教会も同じです。ただ建物だ けをもって“教会”と呼ぶのならそれは空しいのです。教会の本質は目に見えないキ リストの御身体(キリストの恵みの主権)にあります。キリストが私たちの罪のため に十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目に復活されたことによって、そこにキリ ストの御身体である教会が、聖霊なる神によって建てられたのです。それを信じるこ とが「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみ がえり、永遠の生命を信ず」ということです。だから教会の真の礎は信仰告白にある のです。キリストを正しく信じる信仰(そして真の礼拝)によって、教会ははじめて 真の教会たりうるのです。だから教会の制度・組織はいつでもキリストの主権のみを 現すものであらねばなりません。  私たちはこの新しい礼拝堂を献堂してちょうど10年経ちました。この礼拝堂を建 てるにあたり設計者に願ったことは「百年もつ建物を建てて欲しい」ということでし た。その願いは見事に適えられたと思います。しかし主なる神の御前に、そして百年 後の人々に対して私たちが負うている責任は、ただそれだけのことではないはずです。 なによりも私たちは神の御前に、いま目に見える建物を百年後に残す以上に、眼には 見えないキリストの御身体としての教会を、今ここで正しく形成しているか否かを問 われているのです。「百年前の葉山教会の人々は、この建物を残したけれども、信仰を 残さなかった」と言われてはならないのです。そうではなく「百年前の信徒たちは、 この立派な礼拝堂以上に、立派な信仰を遺産として遺してくれた」そう言われるキリ スト者へと成長することが、教会のかしらなるキリストに対する私たちのいまの責任 なのです。  さて、祭司長やパリサイ人たちのみならず、主イエスと寝食を共にしていた弟子た ちでさえ「ろばの子」にお乗りになったキリストの「しるし」を理解していなかった という事実を、私たちは今朝の御言葉の16節を通してはっきりと示されます。「弟子 たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このこ とがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたの だということを、思い起こした」とあることです。  この最後に「人々がイエスに対してした」とある「人々」とは文字どおり全ての人々 であり、私たちをも含んでいます。彼らは最初は棕櫚の枝を振り歓呼の声を上げて主 イエスを迎えました。しかし主イエスが自分たちの願っていた“この世の王”ではな いと知ったとき、掌を返すように主イエスに対し「十字架につけよ」と絶叫するよう になったのです。それこそ私たちの罪なのです。  しかしそこでも大切なことは「弟子たち(でさえも)初めはこのことを悟らなかっ たが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてある」こ とを「悟った」とあることです。この「悟った」とは「信じる者になった」という意 味です。聖書の御言葉を(キリストの御業を)自分への救いの福音として信じる者に なったということです。言い換えるなら、自分の義や自分の利益や自分の清さのみを 求めていた弟子たちが、主イエスを信じる信仰によって新たにされ、キリストの愛の 内を歩む新しい人生を生きる者になったということです。測り知れない罪人をさえ赦 し極みまでも愛して、その救いのために生命を献げて下さったキリストの御業によっ て、立ちえざるものが立ち上がり、歩みえない者が歩み、神の子でありえない者が神 の子とされて新しい生命に満たされ、平安と慰めと限りない勇気を与えられたのです。  そこでこそ預言者ゼカリヤは語るのです「シオンの娘よ、恐れるな」と…。ゼカリ ヤ書の原文では「大いに喜べ」となっています。恐れを駆逐する大いなる喜びが今あ なたのために神から来た。神の大いなる救いの御業があなたの上に輝いた。だからも はやあなたは何も恐れる必要はない。あなたに重くのしかかる不安や苦しみ、数々の 悩みや試練の中で、否、その悩みや試練あればこそ、あなたは神の民として永遠の御 国の民とされている。だから恐れるな。慄くな。「今こそあなたの王が、ろばの子に乗 っておいでになる」からだ。そのようにゼカリヤは宣べ伝えているのです。  主イエスは「限りなき柔和の主」として私たちのただ中に来られました。その確か な「しるし」こそ「ろばの子」なのです。それはあのベツレヘムの馬小屋の飼葉桶と 同じです。私たちは「ろばの子」や「飼葉桶」のような粗末な価値なきものでしかあ りえません。使徒パウロが言うところの「土の器」こそ私たちの偽らざる姿なのです。 しかしその「ろばの子」は主イエスをお乗せしています。あの「飼葉桶」は主イエス をお迎えした飼葉桶です。あの「土の器」は福音という「絶大な宝」が盛られた土の 器です。そのときロバの子は、飼葉桶は、土の器は、そのあるがままに主の尊い御用 のために用いられているのです。主がお用い下さっておられるのです。  そこに、私たちの本当に変わらぬ喜びがあり幸いがあるのです。それこそが私たち の教会のあるべき姿なのです。私たちはここに集うて自分の義を誇るのではない。自 分の正しさや清さを求めるのでもない。ただひたすらに「キリストの義」のみを身に 纏うことを願い、キリストの生命に与かることのみを喜びとし、キリストの清さに洗 われることのみを幸いとするのです。それが私たちの献げる礼拝であり、私たちの形 成する真の教会の姿です。今朝の御言葉の14節に「主イエスは、ろばの子を見つけ て、その上に乗られた」とありますが、この「見つけて」とは「お選びになって」と いう意味です。主は「ろばの子」をお選びになったのです。私たちをお選びになった のです。誰もが蔑んで顧みないいと小さなもの、脆く、弱い者を、主はそのあるがま まにお選び下さったのです。  そこにこそ、私たちの本当の喜びと幸いがあるのです。「ろばの子」をお選び下さっ た「限りなき柔和の主」こそ、私たちの真実かつ唯一の救い主です。そこに全ての人 の救いと自由があるのです。私たち人間はこの主の御心とは正反対の道を歩んできま した。「罪人のかしら」「滅びの子」でしかありえないのに、神の御子を十字架にかけ てまでも自分をこの世界の「主」となし自分を義とする歩みを人類は重ねてきたので す。主イエスは違います。否、主イエスのみが違います。主は永遠の聖なる神の御子 であられるにもかかわらず、御自分が神と等しくあることを固守なしたまわず、むし ろ御自分を空しくされて人となられ、十字架の死に至るまであらゆる御苦難をお受け になり、父なる神の御心に従順であられたのです。  無に等しい私たちが自分を「神」とする罪のただ中に、永遠なる神の御子みずから その私たちの救いのために人となられ、無に等しくなって来て下さいました。それこ そ「ろばの子」にお乗りになった姿なのです。私たちはこの「ろばの子」とならせて 戴いているのです。嬉しくて、喜ばしくて、躍り上がるのです。「ろばの子」であるこ の私たちを主イエスがお選び下さり、主をお乗せする幸いを与えて下さった。全てに まさる喜びがそこにあります。私たちはいま、主イエスに選んで戴き、主イエスをお 乗せする喜びに生き、主イエスに贖われた「ろばの子」とされているのです。それこ そが私たちの教会なのです。