説    教    詩篇118篇22〜29節  ヨハネ福音書12章12〜13節

「十字架の道」

2009・08・30(説教09351287)  いわゆる「教会暦」と呼ばれる教会の暦の中に「棕櫚の主日」と呼ばれる日曜日が あります。イースター(復活節)直前の日曜日のことです。いささか季節はずれです が、今朝の御言葉ヨハネ伝12章12節と13節は、その「棕櫚の主日」によく読まれ るものです。  主イエス・キリストがエルサレムに入城された時、おびただしい群衆が手に棕櫚の 枝を携えて主イエスを喜び迎えたのでした。今朝の13節の最初には「そして(人々 は)叫んだ」と記されています。何を「叫んだ」のでしょうか。それは「ホサナ、主 の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」という旧約・詩篇118篇25 節に基づく当時の讃美歌の歌詞でした。つまり群衆は讃美を歌いつつ主イエスを喜び 迎えたのです。  そこで「ホサナ」とは「今こそわれらを救いたまえ」という意味のヘブライ語です。 詩篇118篇25節には「主よ、どうぞわれらをお救いください」と訳されています。「ア ーメン」や「ハレルヤ」あるいは「マラナ・タ」や「インマヌエル」などと共に「ホ サナ」は今日までヘブライ語のまま伝えられている讃美の言葉です。それならばエル サレムの群衆は主イエスに向かって「われらを救いたまえ」と願ったのです。「今こそ われらを救いたまえ」と祈ったのです。  大切なことは、この祈りはいま礼拝に集まっている私たち自身の「祈り」にもなっ ているか否かです。この「今」の時が、私たちにとって確かな「救い」の時であるこ とを知る者として、私たちはこの「礼拝」に出席しているでしょうか。礼拝を中心と する生活はいつも私たちの存在と生活のただ中に主イエスを「救い主」としてお迎え する生活です。だとすれば私たちこそ「ホサナ」と讃美するほかはないのです。この 「祈り」なくして真の礼拝は献げえないのです。なぜなら「礼拝」とは私たちみずか らを主イエスの御前に明け渡すことだからです。  そこで今朝の12章12節の御言葉を、もう少し詳しく顧みて参りましょう。まず「そ の翌日」とあります。これはあのベタニヤの村で、ラザロの姉妹マリアによって「ナ ルドの香油」が主イエスの御足に注がれた日の「翌日」という意味です。主イエスは このマリアの行為を「わたしの葬りの日のため」の「備え」であると言われました。 それならば、主イエスがエルサレムの都に入城されたのは、まさにその「葬り」のた めなのです。御自分が十字架にかけられ、御苦しみを受け、死んで、葬られることに よって、全ての人の「罪」の「贖い」をなし遂げられるために、主はエルサレムに来 られたのです。  しかし、もしそうならば、この「大ぜいの群衆」が取った態度はあまりに不思議だ と言わねばなりません。「その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレ ムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ」 とあります。これは喜びの表現です。「しゅろの枝」は“喜びのしるし”です。これか ら十字架にかかられて苦しみを受け、死んで葬られようとしている主イエスに対して、 このような喜びの表現をもって棕櫚の枝を振りかざしつつ出迎えたというのはいかに も不自然な感じがします。むしろ蕭然粛々として葬列を迎えるがごとき態度であるべ きではなかったか。そのようにも思うのです。  では、なぜ人々はこんなに大きな喜びをもって主イエスを迎えたのでしょうか。理 由はある意味で簡単明瞭です。人々は主イエスが“十字架の主”(キリスト)であられ ることを認めていなかったからです。むしろ人々にとって主イエスはイスラエルの新 しい「王」となるべき存在でした。ローマの圧制と支配を打ち破り、ダビデの時代の 繁栄を再現してくれる新しい「王」が現われた。そう思えばこそ人々は棕櫚の枝を振 りかざして主イエスを喜び迎えたのです。  この思いは主イエスの弟子たちも同じでした。主イエスと寝食を共にしていた弟子 たちでさえ、エルサレムで先生はいよいよ旗揚げなさるのだ。「王」になられるのだ。 そうすれば自分たちは重臣に取り立てられるだろう。新国家の中心閣僚に抜擢される だろう。そうした政治的な期待と野望に胸膨らませつつ意気揚揚とエルサレム入りを 果たしたのです。そこに待ち構えていたかのごとき群衆の大歓迎。おびただしい棕櫚 の枝と天に届くばかりの歓呼の声。弟子たちは感激したのです。ああこの日のこの瞬 間を自分たちは待っていたのだ。「イエスさまにお従いして来て本当に良かった」と弟 子たちの誰もが思ったのです。  実はこうした思いを、私たちキリスト者も持ってはいないでしょうか。日本の教会 は社会全体から見れば本当に小さな群れにすぎません。プロテスタント開教150年を 迎えますがクリスチャン人口は総人口の約1パーセントを超えません。私の神学校時 代の同級生たちを見ても、赴任先の教会で爆発的に教勢を伸ばしたという人はいませ ん。みな本当に一所懸命に伝道に励んでいるのですが、どの教会も十年一日のごとく 教勢は平行線(もしくは下降線)を辿っています。そうした現状の中で私たちは時に 思うのです。飛躍的に教勢が伸びる“画期的な方法”がどこかにないものか。教会は 売れない在庫を大量に抱えた販売店のようなものだ。今は売行きが伸び悩んでいても、 いつかきっと品物の良さがみんなにわかって爆発的に売れる日が来る。在庫が底を尽 きて嬉しい悲鳴をあげる日が来るはずだ。そんなことを私たちも実は心のどこかで期 待しているのではないでしょうか。  その期待が間違っているわけではありません。伝道のための方策を練ることも大切 でしょう。問題はそのことと“主の教会形成”とを同一視することです。「教勢が伸び ないのは教会形成が間違っているからだ」。そういう考えかたに捕らわれたら本末転倒 なのです。真理は常に万人に受け容れられるものとは限りません。また受け容れかた は人によって異なるものなのです。大勢の人が群れているところに必ずしも真の教会 があるわけではありません。むしろ教会が“主キリストの御身体”としてしっかり立 てられてゆくとき、教勢は逆に伸び悩むことがあるのです。大切なことは私たちがい つもキリストの御身体(真の教会)をここに建てているか否かということです。  棕櫚の枝を打ち振り歓呼の声を上げて主イエスを迎えた大勢の人々は、主イエスを “十字架の主”(キリスト)と信じていたわけではなく、むしろキリストと信じていな かったからこそ夥しい群衆が群れ集うたのです。その証拠にもうその数日後には同じ 人々があのゴルゴタへと続く道(ヴィア・ドロローサ)で主イエスを声の限りに罵り 「十字架につけよ」と絶叫したのです。これもまた私たちの姿なのです。主イエスに 自分に都合の良い「王」を期待し、その自分の期待が裏切られたと知るや否や掌を返 すように主イエスのもとから離れてゆくのです。キリストを「主」としているのでは なく自分自身を「主」とし、神の御旨の実現ではなく自分の願いの実現を目的として いるのです。  主は言われました。マルコ伝の10章42節です「そこで、イエスは彼ら(弟子たち) を呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られて いる人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間 でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきた のも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、 自分の命を与えるためである』」。  この「多くの人のあがないとして」と言うのは「全ての人の罪の贖いのために」と いう意味です。主の弟子たちでさえ「誰がいちばん偉いか」を競い合い、主イエスが 「王」になった暁には自分が総理大臣に任命されることを求めました。しかしそこで 主が明らかにされたことは「人の子」(キリスト)が世に来たのは「全ての人の罪の贖 いのため」に十字架にかかるため(自分の生命を与えるため)だということでした。 その私の弟子であるあなたがたは全ての人に祝福を告げる“神の僕”(御国の民)とさ れているではないか。あなたはそのような者として“私が選んだ人”なのだからと主 は言われるのです。  そうすると実は今朝の御言葉ヨハネ伝12章12,13節にも新しい光が与えられてい るのではないでしょうか。私たちはここを読む場合、主イエスを十字架の主(キリス ト)と信じていなかった人々の声として読みます。それは事実ですけれとも、しかし 同時に私たちは先ほどもこれは私たち自身の礼拝のあるべき姿だと学びました。まさ にこの群衆の「ホサナ」という祈りを私たち自身の心からの讃美とすることが求めら れているのです。それはどういうことなのでしょうか。不信仰な群衆の「祈り」だけ れども、それを私たちが敢えて真似しているということなのでしょうか。  そうではありません。今朝の御言葉である「ホサナ、主の御名によってきたる者に 祝福あれ、イスラエルの王に」という「祈り」は、十字架への道を歩みたもう“十字 架の主イエス・キリスト”のみを信じる信仰によって、まさしく私たち自身の心から の「讃美」となり「祈り」となっているのです。「主の御名によってきたる者、イスラ エルの王にホサナ」とエルサレムの群衆は歌いました。彼らはその言葉の正しい意味 を理解していませんでした。だから同じ群衆がわずか数日後に主イエスを「十字架に つけよ」と罵ったのです。しかし主イエス・キリストは、まさにその群衆(全ての人々) のために十字架を担われたのです。  私たちはいま、その主の十字架の恵みを信じ告白する者とされています。まさしく この自分をも含めて「全ての人の罪の贖いのために」主が十字架を担って下さったこ とを信じる群れとされています。私たちはこの世のいかなる「王」も決してなしえな かった最も偉大な「救い」をなし遂げて下さったかたとして、十字架の主イエス・キ リストを信ずる者たちなのです。それは罪と死に対する永遠の勝利という救いの御業 です。たとえ全世界の支配者も罪と死の支配を逃れえず、死んで歴史の彼方に忘れら れてゆきます。しかし十字架の主なるイエス・キリストを信じるたった一人の幼子に さえ神は、罪と死に打ち勝つ“永遠の新たな生命”を与えて下さいます。教会によっ て私たちをその「永遠の生命」に豊かにあずからせ、キリストに贖われた者として、 キリストの極みなき愛の内を歩む僕として下さるのです。  主イエスは御自分を歓呼の声をもって迎え、しかも僅か数日ののちに「十字架につ けよ」と絶叫するようになった人々、まさしく私たちの「罪」のために十字架への道 を歩んで下さいました。「ホサナ」(今こそわれらを救いたまえ)という人々の祈りを、 主は最も深いところで、最もたしかな仕方で、しかも人々のあらゆる罪と混乱のただ 中で実現して下さったのです。「今こそわれらを救いたまえ」の「今」とはキリストが 現臨しておられるこの「礼拝」です。この「今」とは過ぎ去ってしまう一時的な「今」 などではなく、主がいつも変ることなく私たちと共にいて下さる、キリストにおける 永遠の「今」が私たちの生活のただ中にあり続けるのです。キリストが変ることなく “十字架の主”として私たちと共にいて下さるのです。  だからこそ、私たちは心から今朝の御言葉の13節の「祈り」を私たち自身の讃美 の歌声とすることができるのです。主が私たちの全ての者の「罪」のために十字架へ の道を歩んで下さったからです。主が全ての人のために御自身を献げて下さったから です。この言い尽くせぬ恵みを知る者として、またその恵みにいつも生かされている 民として、私たちは心を高く上げて、礼拝者の歩み、信仰者の歩み、キリストに結ば れた僕の歩みを続けて参りたいのです。そして主が私たちのこのまことに小さな群れ をも御自身の栄光の器として用いて下さり、救われる者をまし加えて下さることを信 じるものです。