説    教     詩篇63篇7〜8節   ヨハネ福音書12章9〜11節

「主に贖われしラザロ」

2009・08・23(説教09341286)  「大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。 それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザ ロを見るためでもあった」。今朝の御言葉、ヨハネ伝12章9節にはこのように記されて いるのです。  いつの時代にも人間は物見だかく口さがないものです。ここに記された「大ぜいのユ ダヤ人たち」とは同時に、私たち自身の姿でもあるのはないでしょうか。人々がベタニ ヤの村に「押しよせてきた」のは、主イエスが「死んでから四日」も経っていたラザロ を墓の中から甦らせられたという噂を聞いたからです。この奇跡の噂はたちまち拡がり、 静かなベタニヤの村におびただしい群衆が押し寄せたのでした。主イエスは一躍にして 「時の人」となられたのです。  しかし群衆の本当の目的は「主イエスに会うため」というよりは、墓から甦らされた ラザロを見ることにありました。死んで墓に葬られた人間が再び甦ったという出来事は 人類の歴史はじまって以来一度もなかったことです。葬りは死の完成であり、墓は人生 の終着点であり、死者は永遠に死者であるはずです。それなのにその厳然たる常識が見 事に覆されたのです。このビッグニュースに群衆は目を瞠ったのです。彼らは自分の目 で甦らされたラザロを見たかったのです。確認したかったのです。それは本当に事実な のか。甦らされたラザロはどんな人なのか。どんな生活をしているのか。人々の興味と 関心は尽きませんでした。現代ならばマスコミとテレビカメラがしつこく付き纏うよう なものです。人々は主イエスとラザロに付き纏って離れようとしなかったのです。  さて、この事態を苦々しく思っている人々がいました。それはエルサレムの祭司長た ち、いわゆるサドカイ派のグループです。今朝の御言葉の10節を見ますと「そこで祭 司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が 彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである」と記されています。先に臨時 七十人議会を召集して、日頃は犬猿の仲であったパリサイ派の議員と主イエス殺害計画 において手を結びました。彼らは今度は主イエスのみならず、ラザロをも殺害しようと 画策したのです。  コリント人への第一の手紙1章22節に「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知 恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」とあり ます。使徒パウロの言葉です。ここからもわかるように、ユダヤ人にとって大切なのは 「しるし」でした。わが国でも昔から「論より証拠」あるいは「百聞は一見に如かず」 と申します。ユダヤ人にとっても「しるし」すなわち“証拠”のないものは信ずるに価 しないものでした。逆に申しますなら確固とした「しるし」があるのならそれは“信ず べきものだ”(信じなけれはならない)という理屈になります。祭司長たちが警戒したの はこの点でした。  死んで墓に葬られた人間をその墓の中から甦らせるということは、ただ神から遣わさ れたキリストのみがなしうることです。それならば甦らされたラザロの存在は主イエス がまぎれもなく“神の子・キリスト”であることの確固とした「しるし」であります。 祭司長たちは群衆がこの「しるし」を見ることによって、自分たちを「離れ去って」主 イエスを信じるようになるのを恐れたのです。事実、エルサレムでは主イエスを新しい 「王」に祭り上げようとする不穏な動きさえありました。これを権力者たちが容認する はずはないのです。祭司長たちにとって甦ったラザロの存在は、自らの権威を失墜させ る脅威の「しるし」にほかなりませんでした。そこでその「しるし」を隠滅するためラ ザロをも殺害しようと決意したのです。「しるし」を消してしまえば自分たちの権威は安 泰だと考えたのです。  もし私たちが真のキリスト者(キリストの僕)として信仰に生きるなら、そこには必 ず数々の困難や試練が生ずるのです。世に受け入れられない部分があるのです。なぜな ら私たちキリスト者はラザロと同じように「罪と死」という墓の中から主イエスの御力 によって甦らせて戴いた存在だからです。それならキリスト者の存在そのものが世の権 威・権力を揺るがす脅威の「しるし」なのです。そこで私たちに問われていることは、 私たちは本当にキリストの恵みの「しるし」を受けた存在として生きているかというこ とです。パウロの言う「キリストの焼印」をいつも身に帯びているだろうかということ です。「しるし」が「しるし」であることを失うなら、それはもはや「塩の役をなさぬ塩」 として、神の御役に立たぬばかりではなく、世にさえも捨てられるしかないのです。  ラザロは、自分が主イエスによって「墓」から甦らせて戴いた存在であることを、人々 の前に少しも隠そうとしませんでした。「キリストの焼印」を身に帯びた生活(主を中心 とする教会生活)に勤しんだのです。自分がキリストの愛と恵みの「しるし」とされた ことを本当の喜びとしたのです。だからこそベタニヤの村に最初は野次馬根性で「押し よせてきた」人々さえ、そのようなラザロの姿を見て主イエスをキリスト(救い主)と 信じ告白する者になりました。今朝の11節の御言葉そのままのことが起こったのです。 それは「ラザロのことで、多くのユダヤ人らが彼ら(祭司長たち)を離れ去って、イエ スを信じるに至った」ということです。  私たちはどうでしょうか。私たちはラザロのようなキリストの恵みの「しるし」を喜 んで身に帯びて、それを隠さない者になっているでしょうか。むしろ私たちはキリスト の恵みの「しるし」を隠していることはないでしょうか。ある兄弟の入院先の病院をお 訪ねした時のことです。お別れする時に二人で祈りました。私が先に祈ったのですが、 他に大勢の入院患者がおられますから、私は小さな声で祈ったのです。ところがその兄 弟はびっくりするような大きな声で、それこそ病室の外にまで聞こえるような声で祈り を献げられた。これも立派な信仰の姿勢です。私たちは必ずしも大きな声で祈る必要は ないでしょう。大切なことは、自分がいつもキリストの愛と恵みの「しるし」を受けた 者だということを感謝し自覚して教会生活をしているか否かということです。私たちは 自分が死んだ時のお葬式で「あの人がクリスチャンだったなんて初めて知った」と列席 者に言われるような生活をしてはなりません。主イエス・キリストによって「墓」から 甦らせて戴いた私たちはその恵みを世に現す「しるし」とされているのです。 ラザロはこの世的には“生きづらい人生”を歩んだに違いありません。どこに行って も人々が自分を注目している。今でいえばテレビカメラが付き纏うようなものです。し かしそうした“生きづらい人生”を彼は感謝し、自分がキリストの証人であることを喜 びとしたのです。ラザロという人は聖書を見るといつも“受け身”の姿でいます。おそ らく性格的にも慎ましく大人しい人だったのでしょう。このヨハネ福音書でもラザロは 一人の病人として登場してきます。その次にはマルタとマリアの看病のかいもなく死ん で「墓」に葬られた死人として描かれています。いわばラザロ自身の言葉というものは 聖書の中には示されていません。その意味では影の薄い人物です。主イエスによって「ラ ザロよ、出てきなさい」と呼ばれて「墓」から出てきた時にも、ラザロは手足を布でま かれ、顔も覆いで包まれたまま、死装束で出て来たと記されています。12章の2節にお いても復活後の喜びの食卓において、ナルドの香油を注いだマリア、給仕をしていたマ ルタに較べると、ラザロはその席に「加わっていた」と記されているのみです。  しかしまさにこのことから、私たちはまことに慰めに満ちた福音の音信を読み取るの ではないでしょうか。それは、キリストの愛と恵みの「しるし」とされることは決して 私たち自身の知恵や力によるのではなく、ただキリストの御力によるのだという音信で す。譬えて言うなら月のようなものです。月は自分では決して輝きません。太陽の光を 受けてはじめて輝くのです。同じように私たちも自分の力では決して神の栄光を現すこ とはできませんが、キリストの限りない愛と恵みに生かされるとき、輝きえぬはずの私 たちが輝きはじめるのです。あるがままに「光の子」とされるのです。それこそパウロ がピリピ書3章9節に語る「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰によ る義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだす」 新しい生活です。  それは、キリストの贖いの恵みのもとを生きる“贖われた者”の新しい生活です。パ ウロも同じでした。パウロという人もある意味で徹底的に受け身であり続けた人です。 キリストの愛と恵みをひたすらに戴くことにおいてのみ、使徒として立ち続けた人なの です。第一コリント書15章9節以下でパウロはこう語っています「実際わたしは、神 の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼 ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得てい るのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼 らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共 にあった神の恵みである」。パウロは自分を「罪人のかしら」と呼んでいます。「神の救 いから最も遠く離れていた者」という意味です。それなら主イエス・キリストはまさに その「救いから最も遠くはなれていた者」のために世に来て十字架の道を歩んで下さっ たのです。どん底にいた私たちを救うために、どん底にまで降りて来て下さったのです。 それがあの十字架の出来事なのです。  キリストの十字架とは、これ以上の“どん底”はないという深みにまで降って下さっ た神の恵みの「しるし」です。神の御子みずから私たちのその罪と死の底辺の底辺にま で身を低くして降りて来て下さった。その究極の罪のどん底において私たちの罪の重み を愛の御手にしっかりと受け止めて下さった。罪の重みによってどこまても落ちて行く ほかない私たちの存在を、主がそのどん底にお立ちになって受け止め贖って下さった。 それがあの十字架の出来事なのです。私たちの罪のために神の御子みずから死んで葬ら れたもうたのです。そのようにして「死」に定められていた私たちに復活の生命を与え て下さいました。  それならば、福音に生きる生活、キリストをかしらとする教会生活とは、ラザロのよ うに徹頭徹尾“受け身”であり続ける生活だと言えます。私たちは神の前でこそ“受け 身”に徹して良いのです。キリストの愛の光に照らされてキリストの恵みの「しるし」 とならせて戴けるのです。世の人々が、私たちの愛する同胞が、まことに欠けが多く脆 く弱い私たちのあるがままの姿を通して、そこに輝くキリストの愛に触れてキリスとへ と導かれることが起こるのです。そこにも「墓からの復活」の奇跡が起こります。私た ちがあるがままに、ただキリストの限りない愛の光を受けることによってキリストの御 業の「しるし」とならせて戴ける。それこそまことに驚くべき恵みにほかなりません。  私たちは他人から受けた親切に対して、すぐに“お返し”することを考えます。良し 悪しは別として特に日本人はそういうことに敏感です。しかし物で示される人の好意は 物でお返しできるかもしれませんが、物で返すことができないもの、それこそ私たちが “受け身”でしかありえないものが、私たちを本当に生かすのではないでしょうか。そ ういうことを考えますとき、まして私たちに対する神の愛・キリストの恵みは、いかな るものをもってしても決してお返しできない、限りない恵みそのものなのです。私たち はそれをただひたすら感謝をもって受ける以外にない。ラザロはそのような信仰に生き た人でした。だからこそ彼の言葉は記されていないにもかかわらず、誰よりも雄弁にキ リストの恵みの「しるし」を物語る人になりえたのです。時の権力者に憎まれる存在に さえなりえたのです。それでもラザロはキリストの愛に生かされる喜び、キリストのも のとされた幸いから、片時も離れようとはしなかったのです。教会生活を貫いたのです。 自分の弱さと破れを通して十字架のキリストを証しし、キリストの内に自分を見いだす 者とされたのです。  私たちも同じです。キリストの絶大な極みまでの十字架の愛にどうして“お返し”な どできましょう。ただひたすらに主の恵みを受けるだけで良い。主に連なっているだけ で良い。そのように主みずから私たちに語っていて下さるのです。主は「なきにひとし い者をあえて」お選びになったのです。この大いなる恵みを知る私たちはどうか、この キリストの恵みの豊かさに生かされ、主の御栄えを小さな土の器を通して大胆に喜びを もって現わす者になりたいと思います。