説    教    申命記15章7〜11節  ヨハネ福音書12章4〜8節

「わが葬りの日のため」

2009・08・16(説教09331285)  「弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていた、イスカリオテのユダが言った、 『なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか』」。  その声が響いたのは、ベタニヤの村のマルタとマリアの家で、主イエスを囲んで喜 びの食卓についていた時のことでした。主イエスによって墓から甦らせて戴いたラザ ロもその食卓に連なっていました。そのおりマリアは「高価で純粋なナルドの香油一 斤」を主イエスの御足に注ぎ、自分の髪の毛でそれを拭ったのです。たちまち家中に 馨しい香油の香りが満ち溢れました。  その様子を見て我慢ができぬとばかりに、イスカリオテのユダの声が響いたのです。 それは自らの正しさを確信する人間の声です。私たちもそのような声を出すのです。 「どうしてそんな勿体ないことをするのか」とユダはマリアを咎めるのです。私たち もいつでも簡単にそういうことを言うのです。しかもそれは、自分の意見に大勢の人 たちが賛同してくれると見越しての発言なのです。  「このナルドの香油は三百デナリもする非常に高価なものだ。それをぜんぶ主の御 足に注いでしまうなんて、あなたはなんて無駄なことをするのか。それよりその香油 を三百デナリにも売って、貧しい人々に施すべきだ。それがあなたのなすべきことで はないか」。ユダは憤慨してそのように語ったのでした。  その発言こそわかりやすく、明確だと言えるでしょう。むしろそれこそ人間の“正 しい考え”だという説得力があるのです。だからユダは発言したのです。他の弟子た ちも同じように思ったに違いありません。もし私たちがその場に居合わせたなら、や はり同じように感じたことでしょう。世間の常識から言うなら、マリアのしたことは “思慮のない行為”と受け取られても仕方がないことでした。  今から350年ほど前、京都の万福寺という寺院に鉄眼道光という和尚がおりました。 大蔵経という経典を出版することを願い、民衆からお布施を募りました。幸いにして 多くの人たちの賛同を得られ、出版に必要な金額が集まりました。するとちょうどそ の地方に飢饉が起こりました。そこで鉄眼和尚は考えました。自分は衆生を救うため に大蔵経を出版しようとしている。しかしいま現に目の前で苦しんでいる人たちを救 わないで何のための仏の道であろう。鉄眼和尚はせっかく貯まったお金を全て貧しい 人々に献げてしまった。それと同じことが2度あって、ようやく3度目に念願の大蔵 経を出版できたというのです。この鉄眼和尚の遺徳を称える人がこういう意味のこと を申しています。「鉄眼和尚は実は大蔵経を三度出版したのだ。二度は文字によらず行 いによって、そして三度目は文字によって」。  私たちはこういう話に弱いのです。「信仰者(宗教者)とはこうあるべきだ」と感じ てしまうのです。それこそ信仰の本当の姿ではないかと思う私たちなのです。その意 味ではユダの判断と発言は少しも間違っていないどころか、むしろそこにこそキリス ト教の本質があるのだと言うことさえできるのです。「なぜこの香油を三百デナリに 売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」これこそ主イエスの御教えではないか とも言えるのです。  ところがヨハネ伝は、このユダの発言の奥底にある隠れた思いを鋭く見抜いていま す。それは続く6節に「彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあっ たからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしてい たからであった」とあることです。ヒューマニズムを隠れ蓑にすることは昔も今も、 金品を横領した者が罪の隠蔽のために取る常套手段です。政治の世界に幾らでも見ら れることです。ユダは実は私腹を肥やすために「貧しい人たち」を隠れ蓑にしていた だけだと言うのです。  そこで私たちは、今朝の6節の御言葉からどのようなメッセージを受け止めるので しょうか。「いっけん善意に見える人間の発言の中にさえ、自己中心の罪が隠されてい る」というメッセージでしょうか。それとも「この隠れた悪い思いを知りたればこそ、 主イエスはユダの発言を無視なさったのだ」というメッセージでしょうか。じじつ多 くの人がそういう読みかたをします。主イエスはユダの言葉の背後にある大きな罪を 見抜いておられた。だからこそ7節に「この女のするままにさせておきなさい」と言 われてユダを譴責なさったのだと。  たしかにそう理解することが、物語の筋からしていちばん自然なようにも見えます。 しかしそのとき実は私たちは、自分自身の「罪」を度外視して、ただユダの「罪」を 他人事のように見ているだけなのではないでしょうか。救いの福音としてではなく、 ただ昔の偉人の物語として御言葉を聴いているにすぎないのです。  「彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自 分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった」。ヨ ハネがこう語っているのは、イスカリオテのユダだけの「罪」なのでしょうか。私た ちは当然のように思うかもしれない「少なくとも自分は他人の金を盗んだことなどな いし、金品を横領したこともない」と。するとどういうことになるのでしょう。5節 のユダの発言は、彼が「財布の中身をごまかしていた」から意味がなかったのであっ て、もし彼がそういうことをしない“正しい人間”(あの鉄眼和尚のような)であった なら必ず祝福されたにちがいない。そういうことなのでしょうか?。私たちは何気な くそのように今朝の御言葉を読んでいないでしょうか。そのときこの御言葉はもはや 人を救う「福音」ではなく“中身の伴わない行いは祝福されない”という道徳の教え にすぎなくなります。私たちが持っている従来の価値観や人生観にプラスアルファを 加える一種の教養(カルチャー)にすぎなくなるのです。  教会は、自分の道徳的な正しさを誇る場でもなければ、新しい教養を身につけるカ ルチャーセンターでもありません。教会は、主イエス・キリストの救いの御業を宣べ 伝える群れであり、礼拝の民として主の御前に招かれた“主に贖われた者の集い”で す。私たちは、イスカリオテのユダのような汚れを持たない、清く正しい人間だから 教会に招かれているのでしょうか。そうではありません。主は言われました「丈夫な 人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが世に来たのは、義人を招くた めではなく、罪人を招いて救うためである」。むしろ私たちは「罪人」であるゆえにこ そ率先して主が招いて下さったのです。汚れたる存在であればこそ率先して主が訪ね て下さったのです。  私たちもまた、否、私たちこそあのユダと同じように「貧しい人たちに対する思い やり」がないまま、おのれの正義を伝家の宝刀のごとくに振りかざし、主が私たちに 「預けて」下さった賜物を「ごまかして」自分自身を富ませようとする人生を歩んで いるのではないでしょうか。ユダの罪は同時に私たちの「罪」でもあるのではないで しょうか。  昨日、新聞に興味ぶかい記事が載っていました。ドイツのボン大学の女子学生が、 ドイツ国内の女子トイレの700箇所の落書きを分析した結果を論文にして発表し、そ れが高い評価を受けたというのです。その論文によると「トイレの落書きこそ人間の 本音の本音が現れる場所である」とし「人間はけっきょく2種類だけなのかもしれな い」と結論づけています。その2種類とは「思いこみで自己主張する人」と「自分の ことは棚に上げて他人を攻撃する人」なのだそうです。いずれにしても自分の「罪」 は見えていないのです。  「義人はいない、一人もいない」とパウロは語りました。人間の前に相対的(倫理 的)に正しい人はいたとしても、神の前に絶対的(宗教的)に正しい人は存在しない のです。一昨日の祈祷会でも旧約・伝道の書7章20節に「善を行い、罪を犯さない 正しい人は世にいない」とありました。またモーセの十戒に「汝、隣人の家をむさぼ るなかれ」とありますが、この「むさぼり」とは単に“搾取する”ということではな く“自分の利益だけを求める”という意味です。ですから「隣人の家を貪るなかれ」 とは「他者を自分の利益のための手段としてはならない」という戒めなのです。人間 (人格)はいかなる場合でも目的であって、手段ではあってはならないということで す。そういうことを思うとき、神の前には本当に「善を行い、罪を犯さない正しい人 は一人もいない」ことがわかるのです。ユダの「罪」それは私たち自身の「罪」にほ かならないのです。  だからこそ主イエスはユダに、否、私たち一人びとりにお告げになったのです。「こ の女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておい たのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にい るわけではない」。  ここで主が言われた「するままにさせておきなさい」とは“勝手にさせなさい”と か“抛っておきなさい”という意味ではありません。そうではなく「彼女の献げもの をして、真の献げものたらしめよ」という意味です。マリアの献げものをあなたは妨 げてはならない、それは“かけがえのないもの”なのだと主は言われるのです。なぜ ならマリアは「わたしの(キリストの)葬りの日(十字架)のために、それをとって おいたのだから」と主は言われる。私たちはこの「わたしの葬りの日のために」とい う言葉を心に刻むべきです。ユダも他の弟子たちも誰ひとりとして“十字架の主イエ ス・キリスト”を見つめてはいませんでした。彼らが見つめていたのは自分自身であ り、この世の王たるべきナザレ人イエスだけでした。  だから弟子たちはこぞって「誰がいちばん偉いか」を競い合い、あるいは主イエス に向かって密かに自分の栄誉出世を約束してくれるように懇願しました。そして自分 たちが勝手に描いたその計画が十字架という最悪の事態によって頓挫したと知るや否 や、彼らは一転掌を反したように主イエスを拒み離れていったのです。ペテロなどは 三度も主の御名を拒んだのです。主がゴルゴタの丘で、十字架にかかって下さったと き、生命の危険をもかえりみず最後まで十字架のもとから離れなかったのは4人の女 性たちだけでした。そしてその4人の中に今朝のマリアも含まれていたのです。  実にマリアは全世界の民に先駆けて、主イエスが十字架の主(キリスト)であられ ることをナルドの献げものをもって証し、信じ、告白した女性でした。彼女は世のあ らゆる事柄にまさって主の十字架の御傷にまなざしを留めたのです。この世界の中心 が(世界の救いが)キリストの十字架にあることを信じ、主のもとから片時も離れな かったのです。「御使いらをも打ち伏す」までに輝く主の御傷に世界のまことの救いと 贖いがあること、全ての人が待ち望んでいる本当の救いと喜びと生命は十字架の主よ り「神からの義」を賜わることによって実現することを、マリアはナルドの香油を全 て主の御足に注ぐことによって証したのです。  私たちはここで、最後の疑問を持つかもしれない。マリアはなぜナルドの香油を主 の頭にではなく御足に注いだのでしょうか。そしてなぜ「自分の髪の毛」で主の御足 を拭ったのでしょうか。その理由は「洗足の行い」にありました。主がまず十字架を 目前にされて弟子たち一人びとりの足を洗って下さったことです。それは十字架によ る罪の赦しと贖いを与えるものでした。この測り知れぬ恵みに応えるため、マリアは 水ではなく一斤で三百デナリもする純粋なナルドの香油で主イエスの御足を洗ったの です。マリアにすれば当然の献げものだったのです。  それこそ裸足でゴルゴタへと続く「十字架への道」を歩みたもう主イエスに対する マリアの溢れるばかりの感謝と礼拝の行為でした。ナルドの香油は“最愛の者の葬り のとき”に用いるものです。主はそれを知って下さいました。「わたしの葬りの日のた めに、それをとっておいたのだから」と言って下さいました。マリアが自分の髪の毛 で主の御足を拭ったのは深い悔改めのしるしです。彼女の涙もそこに注がれていたこ とでした。マリアにしてみればナルドの香油でもなお足らぬ想いだったでしょう。主 イエスの十字架による罪の贖い、全世界に対する限りない愛と慈しみに応える献身の 歩みこそ信仰生活です。「ナルドの香油」はマリア自身の心と主の御業のために献げら れた彼女の全生涯を現わすものなのです。  私たちはどうでしょうか。私たちは自分自身を主の御前に献げる歩みをしているで しょうか。それとも、どうでも良いものを献げているだけでしょうか。真の礼拝者の 生活をしているでしょうか。使徒パウロはローマ書第12章1節以下にこう語ってい ます「兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あ なたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。そ れが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。私たちは「まず神の国と神の義とを 求める」生活へと召されているのです。  主は「貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいる」と言われました。この「貧し い人たち」とは「神の救いを必要としている全ての人々」という意味です。私たちは いつも私たちと「共にいる」「神の救いを必要としている全ての人々」の存在に心をと めているでしょうか。「神の国(キリストの慈しみと真実)と神の義(罪の赦しと贖い)」 なくして人間は人間たりえないことを知る者として歩んでいるでしょうか。それとも 私たちはキリスト以外のもので既に満腹しており、救いを必要としている人の傍らを 見て見ぬふりをして通り過ぎるあの祭司やレビ人のようになってはいないでしょうか。  キリストはすでに、私たちのもとに来られたのです。私たちの罪を担って十字架に おかかり下さったのです。そこで救いの御業を完成して下さったのです。私たちはい まマリアと共にキリストの愛の内を歩む一人びとりとされているのです。礼拝の民と ならせて戴いているのです。キリストの生命に連なる者とされているのです。主がま ず率先して私たちのもとを訪ねて下さった、その測り知れない恵みを知る者として、 私たちもまた私たちと「いつも共にいる」「神の救いを必要としている全ての人々」の もとに、キリストの主権において遣わされてゆく生活を続けて参りたいのです。私た ちの教会は、そのようなまことの礼拝(純粋なナルドの香油)をいつも主に献げる群 れでありましょう。