説    教    雅歌1章12節   ヨハネ福音書12章1〜3節

「ナルドの香油を献ぐ」

2009・08・09(説教09321284)  今朝の御言葉は新約聖書の中でも特に有名な場面ですが、出来事自体として見た場合 にはありふれた光景のようにも思われるのです。「ベタニヤ」という村にマルタとマリア という姉妹が住んでいました。妹のマリアは主イエスが食事をされているとき、その御 足にナルドの香油を注ぎ自分の髪の毛でそれを拭いた。もし出来事として見るならばた だそれだけの事柄なのです。  大切な客人をもてなすときに香油を注ぐということは、ユダヤ人の家庭なら何処でも していたことでした。髪の毛で拭いたということがいささか奇異に感じられますが、そ れもただタオルがなかったからなのかもしれません。いったんは墓に葬られた兄弟ラザ ロを主に甦らせて戴いたのですから、マリアにしてみれば自分の髪の毛で主の御足を拭 うくらいのことは当然であったかもしれないのです。  つまり、これをひとつの出来事として見た場合、そこに特筆すべきものはなかったと 言ってよいのです。目覚しい奇跡が行なわれたわけでもなく、神の言葉が語られたわけ でもない。そこにあったのは、どこにでもある平凡な食卓の光景と、そこで行なわれた “感謝の儀式”にすぎないのです。給仕をしていたマルタも、香油を注いだマリアも、 共に食卓についていたラザロも、そして十二人の弟子たちも、みなこの普通の光景の中 の一人物にすぎないのです。  そもそも“福音書”とは「主イエス・キリストの御業を記した書物」のはずです。私 たちの常識です。しかしここに記されていることは主イエスの御業ではなくマリアがし た“感謝の行為”だけなのです。実はこのことも私たちを混乱させずにはおかないので す。ヨハネ福音書を一節ずつ丁寧に読んで参りまして、この12章1節に至ってはじめ て出会う新しい場面に私たちは当惑するのです。それは、ここでは主イエスは“何もな さっておられない”ことです。“何かをしている”のはマリアであって、主イエスはただ 食卓についておられるだけです。主に香油を注いだマリアの行為だけがここには記され ているのです。  さて、まなざしを首都エルサレムに転ずるならば、そこでは多勢の民衆が主イエスを この世の「王」に祭り上げん不穏な動きを見せていました。それは主イエスによるラザ ロの甦りの奇跡の噂がエルサレム中に知れ渡ったことによります。この民衆の異常な熱 気を警戒して七十人議会が臨時召集され、パリサイ派とサドカイ派の議員たちは主イエ スを殺害する決議を下しました。こうしたただならぬ雰囲気の中で“過越の祭”が行な われようとしていました。そこに渦巻いていたものは、主イエスを政治的な解放者(こ の世の王)に祭り上げんとするユダヤの民衆と、その動きを実力で阻止せんとするパリ サイ派とサドカイ派の策略でした。出エジプトによる救いを記念する過越の祭はいまや 完全に政争の巷と化していたのです。  そのことを思えば、今朝の御言葉に描かれている場面は驚くほど牧歌的な平和な光景 に見えます。主イエスの弟子たちは「先生のんびり食事などしている場合ではありませ んよ」と叫びたかったことでしょう。いつも大勢の人が関心を持つこと、声が大きなほ うに私たちの注意は向きがちなのです。この世の価値観からすれば、マリアが示した“ナ ルドの香油の注ぎ”など取るに足らぬ「愚かなこと」にすぎないと弟子たちが判断した としても不思議ではないのです。  事実この後の5節を見ますと、イスカリオテのユダが「なぜこの香油を三百デナリに 売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」と語ってマリアを非難しています。これ はユダのみならずモノの価値を数字で評価する私たち人間の本音を現わしています。 「ナルドの香油」は非常に貴重なもので「一斤」(約300グラム)で「三百デナリ」も しました。今日の金額に換算するならおよそ3百万円です。「ナルド」とはヒマラヤ山脈 の標高5000メートルもの高地にだけ生息するオミナエシ科の植物で、その根の部分か らごく僅かだけ採れる希少な香油が「ナルドの香油」でした。  それならば、この「ナルドの香油」こそは貧しいマリアの家庭にとって唯一の財産と 言うべきものでした。それはアラバスター(雪花石膏)で出来た小さな壺に入っていま した。それを一滴のこらず全部、主イエスの御足に注いだのです。そして「自分の髪の 毛でそれをふいた」のです。かくして「香油のかおりが家にいっぱいになった」と記さ れています。家中に、否、家の外にまで、ナルドのかぐわしい香りが満ちあふれたので す。近隣の人々はみな何事が起こったかと驚いたことでしょう。  その驚きには実は理由がありました。「ナルドの香油」というのは人が亡くなったとき (葬りの時)にしか用いない貴重なものだったからです。私たちはたとえお金に困って も「葬式の費用ぐらいは残したいものだ」と半ば冗談のように言うことがあります。貧 乏はしてもせめて自分の葬式で人の迷惑にはなりたくない。そういう思いをあんがい多 くの日本人が抱いています。単純な比較はできませんが、マリアはこのナルドの香油を 愛する者の葬儀のために大切に残しておいたのです。兄弟ラザロの葬儀にさえ敢えて用 いなかったその大切な香油を一滴のこらず、彼女は主イエスの御足に注ぎかけた。この 並はずれた行為に人々は一様に驚いたのです。  つまり、マリアはまだ生きておられる主イエス、共に食卓について食事をしておられ る主イエスに対して「葬りの儀式」を行ったのです。主イエスの恵みに応えるもっとも 相応しいことは「ナルドの香油」を全部ささげることだと判断したのです。そこにマリ アの信仰告白が現れています。つまりマリアにとって主イエスというかたは、単なるこ の世の「王」(支配者)として世に来られたのではなく、私たちのために十字架を負いた もう救い主(贖い主・キリスト)として世に来られたかたなのです。マリアは主イエス のエルサレム行きが、すなわち十字架への道行き(ヴィア・ドロローサ・全人類の罪の ための贖い)であることを信じました。だから主イエスのために「葬りの備え」をした のです。ナルドの香油を一滴のこらず主の御足に注いだのです。 それこそ彼女の信仰告白であり感謝の証しでした。そして「自分の髪の毛でそれをふ いた」のは深い“悔改めのしるし”です。このかたはまことにこの私の罪の贖いのため に十字架への道を歩んで下さるキリストである。マリアは信仰をもって心から罪を主の 御前に言いあらわし、主の御手に全てを委ねたのでした。言い換えるなら「ナルドの香 油」を全て献げることによって、マリアは自分自身を主に献げたのです。その香りは彼 女の信仰と悔改めの香りです。しかしそれだけではありません。何よりも大切なことは 主イエス御自身が、そのマリアの献げものを心からお喜びになり、お受けになって下さ ったことです。  今朝あわせて拝読した旧約聖書・雅歌1章12節にこうありました。「王がその席に着 かれたとき、わたしのナルドはそのかおりを放った」。これこそマリアの心にあった信仰 告白そのものではなかったでしょうか。この「王」とは私たち全ての者の“罪の贖い主” (キリスト)という意味です。ヘンデルのオラトリオ“メサイア”に歌われる「王の王、 主の主」なるキリストのことです。そのキリストが今こそ栄光の御座にお着きになる。 その栄光の御座とは十字架による全世界の罪の贖いです。 主イエスは御自分の十字架をさして、それを「わたしの受ける栄光」また「栄光の時」 とお呼びになりました。つまり、この「栄光」こそ私たち全ての者のために主が十字架 において成し遂げて下さった罪と死に対する永遠の勝利です。神から離れ滅びの内にあ った私たちのために、キリストがその全ての罪の重みを担われ、贖いとしての唯一の死 を死なれた出来事です。まさにそのような真の救いをなされる真の「王」として主は私 たちのもとに来られたのです。  もともと「キリスト」とは「油注がれた者」という意味の「メシア」というヘブライ 語のギリシヤ語訳です。その「油」とは王の任職式に際して大祭司によって頭に注がれ る祝福の油でした。だからそれは本来「ナルドの香油」ではないのです。しかしマリア は主イエス・キリストは人を支配するこの世の「王」ではなく、愛と恵みをもって永遠 に世界を統治したもうまことの「王」すなわち「十字架の主」であられると告白し「ナ ルドの香油」こそまことに相応しいと信じたのです。彼女はこの行為によって主イエス が救い主(キリスト)であることを最初に言い表したのです。「王がその席に着かれたと き、わたしのナルドはその香りを放った」。  まさにこの献げもの、この香りをこそ、主は喜び受け容れて下さいました。私たちは このような献げものをいつも主の御前に献げているでしょうか。私たちの持つ最も尊い もの、かけがえのないもの、大切なものを、主にお献げしているでしょうか。むしろ私 たちは、どうでもよいもの、替わりがあるものを、主に献げていることはないでしょう か。ある教会で信徒の人たちが、自分の家で要らなくなったもの、壊れたものを教会に 献げていたという話を聞いたことがあります。それでは本当の礼拝、本当の伝道は成り 立ちません。モノが粗末であること以上に、不要だから主に献げるという心では真の教 会形成はできないからです。私たちの葉山教会はどうでしょうか。不要になったから献 げる。そんなことを私たちもしてはいないでしょうか。  不要になったから献げるのではなく、最も大切なもの、主が必要としておられるもの を喜んで主に献げる信仰に、私たちもまた生きたいものです。今朝のマリアの行為を私 たち自身のものとしたいのです。「ナルドの香油」はマリアのいちばん大切な宝でした。 彼女はそれを主に献げしたのです。要らないから、不必要になったから、献げたのでは ありません。大切なかけがえのないものだからこそ、マリアはそれを主の御業のために お献げしたのです。それが信仰によるまことの献げものです。  マリアがなした献げものは家の内外にその芳しい香りを放ちました。私たちもまた、 十字架の主のみを「救い主・キリスト」と告白する真の信仰に生き、まことの献げもの をするとき、私たちのこの群れから使徒パウロの語る「キリストの香り」が世界へと拡 がってゆくのです。私たちのこの群れが「キリストを知る知識の香り」を放つとき、そ の香りは必ず真の救いと幸いと自由を求める多くの人々に伝わるのです。逆に言うなら 「教会にキリストの香りがしない」ことにまさる矛盾はありません。何よりも私たちは すでに「キリストに献げられたかんばしい香り」とされた群れなのです。それは私たち 自身の芳しさではなく、私たちを極みまでも愛し贖って下さったキリストの御業の芳し さなのです。だから聖書は「キリストの香り」を語ります。その香りを私たちは世に伝 える使徒とされているのです。  このことをパウロはエペソ書5章1節にこう語っています。「こうして、あなたがた は、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また、愛のうちを歩き なさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神 へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」と述 べています。またピリピ書4章18節にはこうも記されています。「わたしは、すべての 物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、 飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供えもの である」。また第二コリント書2章14節以下をも心にとめましょう。「しかるに、神は 感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをと おしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、 救われる者にとっても滅びるものにとっても、神に対するキリストのかおりである」。 使徒パウロは、私たちはキリストに贖われた恵みによって、すでに「神に対するキリ ストのかおり」とされていると言うのです。私たちは主の教会に連なることにより、キ リストに堅く結ばれ、自らの人生の全体を通して「キリストを知る知識の香り」キリス トを知り、キリストに贖われ、キリストの愛に活かされる喜びの香りを放つ幸いを与え られているのです。私たちもまた謹んで「ナルドの香油」を献げる群れへと、いよいよ 成長して参りたいと思います。