説    教   イザヤ書49章5〜6節  ヨハネ福音書11章49〜54節

「全ての人のために」

2009・07・26(説教09301282)  主イエス・キリストがベタニヤの村で、ラザロを墓から甦らせられた奇跡の出来事 はたちまちユダヤ全土に伝わりました。この報せを受けて急遽「祭司長たち」や「パ リサイ人」たちが臨時議会(七十人議会)を召集しました。わが国のいわば国会にあ たるこの“七十人議会”は「パリサイ派」と「サドカイ派」という二つの政党から成 り立っていました。 パリサイ派というのは律法学者のグループです。政治的な事柄よりもむしろ律法の 定めをいかに守るかが関心事であり、ローマの支配に対しては否定的な、愛国主義・ 民族主義的な政党でした。これに対してサドカイ派の人々は神殿に仕える祭司階級か らなっており、非常に政治的な立場でした。彼らは貴族や特権階級と結びつきローマ 政府に対しても協力的だったため、愛国主義者であったパリサイ派とは絶えず敵対関 係にあったのです。興味ぶかいことには、この議員構成は今日のイスラエル国会にお いても、ほとんどそのまま当てはめることができるのです。 さて、このように「パリサイ人」と「サドカイ人」とは事ごとに対立し敵意を顕わに していましたが、このヨハネ伝11章45節以下を見るかぎり、両者の間に奇妙な一致 が現れていることに気がつくのです。それは主イエス・キリストをめぐる意見の一致 でした。結論から申しますと、今朝の御言葉の53節に「彼らはこの日からイエスを 殺そうと相談した」と記されています。つまりキリスト殺害計画を実行することにお いては「パリサイ人」と「サドカイ人」は手を結んだのです。それはちょうどキリス トの十字架を前にして、それまで犬猿の仲であったポンテオ・ピラトとヘロデ王が急 に仲良くなったのと同じことです。  人間とはなんと浅ましく醜い存在なのでしょうか。犬猿の仲であった者どうしが、 共通の敵を葬ることにおいて、まるでそれまでの対立がなかったかのように手を結び 協力するのです。彼らにとっては主イエス・キリストが神の御子であるかどうか、そ の御業と御言葉が真実であるかどうかは、どうでもよいことでした。彼らはただ自分 たちの権威と権力を守るためにキリストの殺害を決意したのです。  彼らがいちばん恐れていたことは、主イエス・キリストが民衆のあいだで得ていた 絶大な人気でした。彼らは民衆が主イエスを「イスラエルの王」として担ぎ上げるの ではないかと恐れていました。もしそうなれば自分たちは失脚し、国中に暴動が起こ るであろう。するとその“暴動の鎮圧”という名目でローマ政府は強力な軍隊をユダ ヤに送りこむであろう。そして国土も国民も完全なローマの支配下に置かれることに なるであろう。彼らはちょうど将棋の先手を読むように政治の世界を忖度し、どうす れば自分たちが無事でいられるかを模索し、その結論がキリスト殺害において手を結 びあうことだったのです。  これは他人ごとではありません。私たちもまたえてして、神の御言葉に対して疎く 鈍感であっても、この世の動きに対しては敏感であり不必要なほど用心深いのではな いでしょうか。神の愛と祝福を忘れて、すぐに人の顔色を伺ってしまうのではないで しょうか。「七十人議会」は恐怖と混乱の坩堝と化しました。自分たちの地位と名誉と 安全を守ることに議員たちの心は釘付けになりました。今すぐにでも主イエスを捕ら えて処刑すべきだという声が上がりました。それに対して、いや、いま手を出せば民 衆が騒ぎを起こすであろうという慎重論が出されました。議論は延々と続き混乱は極 致に達したのです。  その混乱に一石を投ずるかのように、時の大祭司カヤパの声が議場に響きました。 49節です「あなたがたは、何もわかっていないし、ひとりの人が人民に代って死んで、 全国民が滅びないようになるのが、わたしたちにとって得だということを、考えても いない」。この声を聞いて議場は水を打ったように鎮まったのです。原文のギリシヤ語 ではずいぶん乱暴な表現です。「あなたがたは、何もわかっていない」とは「お前たち は無能なやつらだ」という言葉です。「とても黙って聞いてはおれん。俺の言うことを よく聞け。いいか、イエスというあの男が死ぬことによって、ユダヤ全国民が滅びを 免れるのなら、願ってもないことではないか。その簡単な理屈がどうしてお前たちに はわからないのか」カヤパはそのように語ったのです。  私はエルサレムの、かつてカヤパの邸宅があった場所と言われる遺跡を訪ねたこと があります。エルサレム市街地の外れの小高い見晴らしの良い場所にあります。そこ に登るのに古い石段があるのですが、それは近年になって発掘された主イエスの時代 の石段だということでした。主イエスはまさにその石段を登ってカヤパの屋敷に行か れたのです。そして屋敷の中庭でひどい裁判にかけられることになります。そのとき あのペテロが主イエスの御名を三度も拒むという出来事が起こります。三度目に「わ たしは誓って、あの人(イエス)のことは知らない」とペテロが言ったとき暁を告げ る鶏が鳴いた。そのことを記念して今日そこには「ペテロの鶏鳴教会」と呼ばれる教 会が建っています。  時の大権力者であり、大祭司として主イエスを審いたカヤパ。権勢を誇った彼の屋 敷跡には今は土台の石が残っているだけです。しかしカヤパのもとで審きを受け十字 架にかかりたもうた主イエス・キリストの福音は、全世界の至るところで力強く宣べ 伝えられています。キリストを殺してまでも自分の権威を守ろうとした人間の足跡は 草むらに残る石ころだけですが、御自分の全てを献げ尽くされて私たちを愛したもう た主イエスの御名は全世界において宣べ伝えられ、全ての人々をいまなお救いへと導 いておられるのです。  ウィリアム・バークレーというスコットランドの神学者が今朝の49節以下のカヤ パの言葉について「まるで劇の中の俳優の言葉のようだ」と語っています。バークレ ーはこう語るのです「劇の中で俳優はときに、自分では意識していないままにある重 要な台詞を語っていることがある。観客はそれを理解しても、語っている俳優は理解 していないということがある。実はそのとき俳優は、自分が知っていることよりもさ らに意味深い重要なことを語っているのである」。それをバークレーは「演劇にしばし ば見られる逆説である」と言っています。  まさにこの「逆説」の中に、今朝のカヤパは知らずに立っているのです。彼は自分 が語っている言葉の本当の意味がぜんぜんわかっていません。しかしその言葉はまぎ れもなく主イエス・キリストの十字架の出来事とその真実を私たちに告げるものとし て私たちに読まれるのです。「ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないよ うになる…」。これこそまさしく、主イエス・キリストの十字架の意味そのものなので す。それこそ同じヨハネ伝3章16節に告げられている音信と響き合うのです「神は そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。 これは驚くべきことです。神のなさる御業の測り知れぬ深みをここに観るのです。 神は御業にふさわしい者たちばかりではなく、ふさわしくない者たちを通してさえ御 業を世に現して下さるのです。それはどのような慰めを私たちに与えるのでしょうか。 第一に、私たちは信仰を持って一所懸命に生きる時にも困難や悲しみに出会います。 自分が思い描いていたように事が運ばず、苛立つこともあります。虚しさや絶望感に 捕らわれることもあります。しかし神は私たちの目に悪く見える出来事を通してさえ、 かけがえのない恵みをと祝福を与えて下さるかたなのです。このことを知るとき私た ちは勇気と平安を与えられ、いよいよ神に信頼して歩む者とされるのです。第二に、 神は私たちの罪にもかかわらず、否、だからこそ私たちに独り子イエスを与えて下さ ったかたなのです。私たちもカヤパと同じように神の愛を知らぬままに生きており、 自分中心にしか物事を観られずにいる存在なのです。しかし神はそのような私たちの ためにこそ御子イエスを与えて下さったのです。 このヨハネ福音書を書いた使徒ヨハネは今朝の51節に自分の解釈を記しています。 ヨハネには珍しいことです。すなわち「このことは彼が自分から言ったのではない。 彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民の ためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことにな っていると、語ったのである」。もちろんカヤパはヨハネの解釈とは違う想いで語った のです。彼が語ったことは、イエスなる人物が死ぬことによってローマとの諍いの元 を断つことがでれば一挙両得ではないかということでした。しかし使徒ヨハネは信仰 によって、この世俗的なカヤパの言葉の背後に主なる神の大いなる導きがあることを 見抜いているのです。だから「このことは、彼が自分から言ったのではない」と記し ているのです。「自分から言ったのではない」とは「主なる神が、彼(カヤパ)をもお 用いになって語らしめたのだ」ということです。  神は、私たちの思いを遥かに超えた尊い御業を世に現して下さるかたです。私たち が神の御手の導きを見失ってしまうような場面で、私たちが神の御心を疑うほかない ような経験の中で、私たちが御言葉を聴きえなくなってしまう所で、私たちに主の御 姿が見えなくなってしまうような出来事の中で、まさにそのような所でこそ最も確か に真実に、神は私たちと出会っていて下さるかたなのです。カヤパの言葉を通して十 字架のキリストが証されるなどと誰が考ええたでしょうか。ジョン・オーマンという 人は「喜びはその多くが自然的なものであるが、苦難は例外なく超自然的なものであ る」と語っています。オーマンの言う「超自然的」とは「神の御手から来ている」と いう意味です。私たちの経験する喜び(幸い)は必ずしも神の御手から来ているもの ではない。しかし苦難(悲しみ)はかならず神の御手から来ているとオーマンは語る のです。 また、私たちは生涯の全てをわが国のハンセン氏病患者のためにささげた医師であ り哲学者である神谷美恵子の詩「なぜ、私たちではなく、あなたが」を思い起こすの です。「光うしなひたるまなこうつろに/肢(あし)うしなひたるからだになはれて/診 察台の上にどさりとのせられた人よ/私はあなたの前にこうべをたれる。/あなたは だまつてゐる/かすかにほほえんでさえゐる/ああ しかし その沈黙は ほほえみ は/長い戦いの後にかちとられたものだ。/運命とすれすれに生きているあなたよ/ のがれようとて放さぬその鉄の手に/朝も昼も夜もつかまへられて/十年、二十年、 と生きてきたあなたよ。/なぜ私たちではなくあなたが?/あなたは代つて下さつた のだ/代つて人としてあらゆるものを奪はれ/地獄の責苦を悩みぬいてくださつたの だ…」。  神谷氏は患者の苦しみの中に、自分のためのキリストの十字架を重ね合わせていま す。私たちは知るのです。他の誰でもなく、まさに人となられし神の御子・十字架を 担われた主イエス・キリストを…。このかたは全ての人のために御自身を献げて下さ り、私たちの永遠の贖い主・生命の主となって下さいました。このかたこそ私たちに 代わって「人としてあらゆるものを奪われ/地獄の責苦を悩みぬいて下さった」神の 御子なのです。まさに、そのかたが私たちと共にいて下さる。そのかたが私たちの救 い主・贖い主であられる。今朝の御言葉はその恵みの真実を…十字架のキリストの限 りない愛と慈しみを、私たちにはっきりと物語っているのです。  ヨハネは今朝の52節に「(カヤパは)イエスが…ただ国民のためだけではなく、ま た散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったの である」と語っています。この「散在している神の子ら」とは誰のことでしょうか。 ユダヤ人のことでしょうか?。そうではなく、私たち全ての者たちのことなのです。 私たちは罪によって神から離れていました。散在して(ばらばらになって)いたので す。その私たちを「一つに集めるために」主は十字架を担って下さったのです。それ は主の十字架と復活によって教会が建てられ、全ての者が主の御身体である教会に招 かれていることです。主は教会を通して全ての人を救いへと招き入れて下さいます。 すでにここに私たちは「一つに集め」られているのです。キリストの身体の肢体(え だ)とされているのです。 主は神から離れた私たちを一つとなすために、御自身の肉を裂き血を流したもうて 尊き贖いとなって下さいました。まさにその贖い主・救い主なる主の御手から私たち は生命の御糧を戴いて、いま主と共に生きる者とされているのです。最も主から遠く 離れていた私たちのために、主は最も近く私たちと共にいて下さり、その測り知れな い愛をもって私たちを極みまでも愛し、罪と死のあらゆる支配から私たちを守って下 さるのです。このかたをわが主・わが神として仰ぎつつ、主の御手の内に守られ導か れて、新しい一週の日々を、心を高く上げて歩んで参りましょう。