説   教   イザヤ書40章1〜5節  ヨハネ福音書11章38〜44節

「ラザロの復活」

2009・07・12(説教09281280)  この世界にもし“無意味な行い”があるとすれば、今朝の御言葉に記された主 イエスの行いこそ、まさにそれだと思われたことでした。実際それは多くの人々 の目に、否、弟子たちの眼にさえ全く“無意味な行い”だと映りました。マルタ とマリアの必死の訴えにもかかわらず、主イエスがベタニヤの村に来られたのは、 ラザロが死んで墓に納められ既に四日も経ってのことでした。「時すでに遅し」と 村中の人々が想いました。いまさらラザロの墓に主イエスが行かれたからとて、 そこにいったい何の意味があるのでしょうか。  譬えて言うならそれは、病人が死んで四日も経ってから、ようやく医者が駆け つけて来たようなものです。誰がその医者の来訪を喜ぶでしょう。そこに何の意 味があるのでしょう?。現に人々は「あの目の不自由な人の目をあけたこの人で も、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」と口々に語り合ったので した。37節の御言葉です。そこには主イエスといえども「人間の死の現実の前に は無力ではないか」という人々の諦めの気持ちが現れています。人々は主イエス の涙をも、死んだラザロへの哀惜の涙としか理解できなかったのです。  しかし主イエスは、そのような人々の思惑の中を、愛するラザロの墓へと毅然 として歩まれます。38節をご覧になりますと「イエスはまた激しく感動して、墓 にはいられた」とあります。「激しく感動して」とは「武者震いをされた」という 意味です。罪と死に勝利された唯一のまことの神の御子として、いま主イエスは ラザロの遺体を埋葬した墓地に来られ、そこで「武者震いをされた」のです。そ の墓は「洞穴であって、そこに石がはめてあった」と記されています。  古代イスラエルの墓はちょうど「ほら穴」のような仕組みになっていました。 その「ほら穴」の奥に、香料を塗り全身を亜麻布で包んだ遺体が安置されていた のです。そしてその洞穴の入口は大きな円盤型の丸い石でしっかりと封印がして ありました。「そこに石がはめてあった」というのは、その円盤型の大きな石のこ とをさしています。直径が2メートルほどもあるその石は大人が4人がかりでよ うやく動かせるような重いものでした。  ですから主イエスが「石を取りのけなさい」と命じたもうたとき、人々はわが 耳を疑ったことでした。イスラエルの、いな人類の歴史はじまって以来、誰がそ のようなことを命じたでしょうか。思わず姉のマルタは主に申しました。「主よ、 もう臭くなっております。四日もたっていますから」。事実ラザロの遺体は腐敗を はじめており、石の隙間からは死臭がたちこめていたのです。まさにその死臭の 中で主イエスは「墓の入口を開けなさい」とお命じになるのです。  人々の驚きと戸惑いのただ中で、主はマルタに言われます。40節の御言葉です。 「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と。 私たちはすでに同じヨハネ伝11章23節以下において「あなたの兄弟はよみがえ るであろう」と主がマルタに言われ、そしてマルタが27節に「主よ、信じます。 あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と告 白したことを見ました。いま主イエスはマルタにその信仰告白を改めて問い直さ れるのです。  あなたはいま、その告白に健やかに立っているか。あなたはいま、なにに心を 奪われているのか。主は改めてマルタに問いただされます。事実マルタはあたり 一面にたちこめる死臭に心を奪われ、圧倒的な死の現実の前に茫然としてわれを 失っていました。主イエスの御姿が見えなくなっていたのです。主イエスの御声 が聴こえなくなっていたのです。  私たちにも、同じことがないでしょうか。日々の生活の中で、悲しみに心が押 し潰されるとき、思わぬ苦しみや悩みに心が乱されるとき、私たちは主イエスに ではなく、震え慄く自分の心に茫然とし、動かしえぬ墓石のような現実に心を奪 われてしまうのです。私たちこそ主の御姿を見失い、主の御声を聴きえない者に なっていることがあるのです。よく「苦しい時の神頼み」と申しますが、むしろ 私たちの本当の問題は「苦しい時の神離れ」になってしまうことです。苦しみや 悩みの中でキリストに拠り頼むのではなく、逆にキリストから離れ信仰を失って しまう、そのような私たちの姿があるのです。  「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」と、主イエスはマルタに宣言して 下さいました。「神の栄光」とか「神の主権」という言葉は、現代社会には人気が ね無いのです。人受けがする(好まれる)言葉ではないのです。それよりはキリス トの「愛」や「優しさ」を語ってほしいと願うのです。しかし聖書はまぎれもな く「神の栄光」を私たち全ての者の“救い”の出来事として語ります。私たちの 真の救いは、私たちが「神の栄光」「神の主権」のもとに新たにされることにある のです。キリストの「愛」キリストの「優しさ」は、罪と死の現実に対して無力 な「愛」や「優しさ」ではなく、まさに「神の栄光」「神の主権」における永遠の 「愛」であるゆえに、それは死に打ち勝ちたもう勝利の御力なのです。たちこめ る死臭をもものともせず、墓の入口を「開けなさい」とお命じになるかたの「優 しさ」なのです。  ヨハネ伝をよく読みますと、主イエスは「栄光を受ける」という言葉を、御自 分の十字架の死をさして語っておられるということがわかります。それは御自分 のための「栄光」ではなく、私たちの罪の贖いと永遠の生命のための「栄光」な のです。それならば「神の栄光を見るであろう」と主がマルタに言われたのは、 まさにあなたは兄弟ラザロの“救い”の出来事を見るであろうという意味です。 信仰とは「望みに反してなお信ずること」です。神の御手に自分を明け渡すこと です。キリストの御業を受け入れることです。そのように、いまマルタは信じる 者として立つのです。キリストに自分を明け渡す者として、愛するラザロの墓前 に立つのです。「わたしはよみがえりであり、命である」と告げたもうた主の御言 葉を信じるのです。  いまや人々は、主が命じたもうたように、ラザロの墓を封印していた大きな石 を「取りのけ」ます。私たちも主の御言葉によって、心の封印を開いて戴かなく てはなりません。そこで私たちは、実は死んでから四日も経ち「死臭」を放って いたラザロの姿こそ、まぎれもなく私たち自身の姿だということを知ります。こ の「死臭」とは私たちの「罪の香り」です。私たちは「キリストの香り」ではな く「罪の香り」を放っているのです。死臭鼻持ちならぬ存在なのです。死んでか ら四日間も墓に置かれていた者なのです。それは私たちの救いの可能性がゼロで あることです。四日という日数はユダヤ人にとって「死の完成」を意味しました。 同じように私たち人間も罪によって、完全な死の支配のもとにいる存在なのです。 死の主権が、私たちの上に勝利の凱歌を上げているのを、如何ともなしえないの です。  まことに、その恐るべき罪と死の支配のただ中で、ただ主イエスお一人が「目 を天にむけて」祈って下さいます。その祈りはこうです。「父よ、わたしの願いを お聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて 下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立ってい る人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。 父なる神と御子なる主イエスとの間には完全な一致があります。御父の思いは主 イエスの御心であり、主イエスの思いは父なる神の御心です。その主イエスが私 たちに神の限りない愛をはっきりと教えて下さるために、主はそこに福音の御言 葉を用いて下さいました。  父と御子と聖霊との完全な愛の交わり、すなわち神の永遠の主権こそが私たち を死の主権から解き放ち、自由な者とし、まことの生命を与えるものなのです。 いま主イエスはその“神の主権”を私たちのただ中に確立して下さる唯一のキリ ストとして、愛するラザロの墓前に立ち祈りを献げたまいます。そしてまさにそ の主権において高らかに宣言されるのです。43節以下です「こう言いながら、大 声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまか れ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、『彼をほ どいてやって、帰らせなさい』」。  ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主人公であるラスコーリニコフは虚無的 な思想に捕らわれ、無意味な殺人を犯します。しかし自責の念に駆られ、彼は自 分の行いを悔いるのです。そんなときソーニャという少女に出会います。ある晩 ソーニャは聖書のこの御言葉をラスコーリニコフに読み聴かせるのです。聴き終 えたラスコーリニコフはソーニャに訊ねます「これは本当のことなのか。本当に 主はこのことをなさったのか」。ソーニャは喜びに心を躍らせつつ答えます「ええ、 そうですとも、みんな本当のことです。神様はあなたをも、同じようによみがえ らせて下さいます」。まさにその瞬間、ラスコーリニコフの魂の放浪は終わりを告 げるのです。キリストの主権に結ばれて自らの罪を神に告白し、キリストに贖わ れた新しい人生がそこから始まっていったのです。  ドストエフスキーは本当の意味で福音の本質を理解していた人でしょう。主イ エスの御声が、私たちを支配している墓のような「罪」の現実に対して宣べ伝え られるとき、そこに「神の栄光」が現われるのです。私たちの「救い」が起こる のです。生命なき者がキリストの新しい生命に甦らされ、神を讃美なしえぬ者が 神の御名を讃めたたえ、何の希望もありえなかった者が主の御力によって立ち上 がり、主と共に歩む者とされてゆくのです。  主は墓から出てきたラザロを抱き「彼をほどいてやって、帰らせなさい」と人々 にお命じになりました。死装束は人々が着せたものです。しかしラザロはいまキ リストの限りない“義”の衣を着ているのです。キリストを着た者にもはや死装 束は必要ないのです。そしてそこでも、ソーニャがラスコーリニコフに語ったの と同じことが私たちの身にも起こります。私たちはキリストの十字架によって全 ての罪を贖われ「義の衣」を着せて戴いた者たちなのです。そのような者として この教会に連なっているのです。その私たちをもはや罪と死は支配しえないので す。死の主権はキリストの前に砕かれたのです。キリストの恵みの主権のみが、 私たちの永遠の生命なのです。  ラザロの復活の出来事は、同じ主に結ばれた私たち一人びとりの復活の出来事 です。このとき墓から出てきたラザロも、やがては年老いて死にました。しかし その死はもはや彼を支配する最後の力ではありえず、ラザロはキリストに贖われ た者として、永遠の生命、復活の生命に満たされ、初代教会に仕えて生きる者と なったのです。肉体の死をも生命に変えて下さるキリストの生命に生かされて、 ラザロは主のキリストの身体に連なる者とされたのです。肉体を生かすものが霊 であるならば、キリストの身体を生かすものは聖霊です。教会を教会たらしめる 聖霊によって、ラザロは、否、私たちは、キリストによる「永遠の生命」をいま 与えられているのです。  私たちは今もなお、死装束を身につけてはいないでしょうか?。私たちが着る べきものはただひとつ「キリストの義」のみです。なぜなら、いまあなたのため に墓に主の御声が響いているからです。「ラザロよ、出できたれ」と。そこに私た ちみずからの名をあてはめる幸いを与えられています。私たちこそ主の御声を聴 いて喜びの生命を歩む者とされているのです。そこに私たちの本当の幸いがあり、 いかなる時にも変わることのない慰めと平安があるのです。