説    教   詩篇102篇9節   ヨハネ福音書11章28〜37節

「キリストの涙」

2009・07・05(説教09261279)  私たちはどのような時に涙を流すでしょうか。悲しみの涙、嬉し涙、悔し涙、意味 もなく流れる涙…。私たち人間には、色々な種類の涙があります。フランス改革派教 会の伝統の中で育ち、のちに“アフリカの使徒”と呼ばれたアルベルト・シュヴァイ ツァーが自伝の中で、五歳の時のある涙の記憶を書いています。幼心になにか非常に 腹立たしいことがあって、家の外をそわそわと歩いていた。そのとき自分のことを心 配そうに見つめる大人の視線に気がついた。その視線と目が合った瞬間、思わず大声 をあげて泣きそうになったというのです。  ところがそのとき、シュヴァイツアー少年は心の中で、はっきりと声がしたのを感 じたというのです「それは、恥ずかしいことだ」と。人に見られるため、人の同情を 引くために涙を流すべきではない。そういう心の声がシュヴァイツァー少年の胸に響 いたというのです。そしてこの心の声を意識した時から、自分はもう二度と自分のた めに(人に見られるために)涙を流すまいと心に堅く誓ったと、そのようにシュヴァ イツァーは語っています。  これはもちろん特別なことでしょう。少なくとも五歳の少年が抱いた感情としては きわめて異例のことです。シュヴァイツァーだから感じえたことだと言えるかもしれ ません。しかしその半面、私たちの流す涙にはたとえ大人であっても、しばしば「自 分のため」という要素が入り混じっていることは事実ではないでしょうか。それを「恥 ずかしいこと」と思うか否かは別として、私たちは自分のために涙を流すことはあっ ても、純粋に人のため他者のために涙を流すということは、意外と少ないのではない かと思うのです。  今朝、拝読しました御言葉ヨハネ伝11章28節以下において、私たちは非常に印象 ぶかい御言葉に出会います。それは35節に主イエスが「涙を流された」と記されて いることです。実は新約聖書の中で主イエスが「涙」を流されたと記されている箇所 は、今朝のこの御言葉とルカ伝19章41節の二箇所だけです。原文は「ダクリュオー」 というギリシヤ語です。これはきわめて珍しい言葉です。  まず、ルカ伝の19章41節には、十字架を目前にされた主イエスが、オリブ山の上 からエルサレムの市街を見渡したまい、そこでエルサレムに住む全ての人々のために 涙を流されたことが記されています。「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、 そのために泣いて言われた、『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさ えいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている』」。主はこのように言われ て、エルサレムの全ての人々の救いのために涙を流されたのです。  そして二番目の「ダクリュオー」が今朝の御言葉なのです。弟子たちにとっても、 それはよほど印象ぶかい出来事でした。主がベタニヤ村の人々に案内されて、愛する ラザロの墓の前にお立ちになったとき、主の目から涙が流れたことを、居合わせた人々 は観たのです。36節を見ますと、ユダヤ人たちはその主イエスの「涙」を見て「ああ、 なんと彼を(ラザロを)愛しておられたことか」と語り合ったと記されています。し かしそれと同時に37節にはこうも記されています。「しかし、彼らのある人たちは言 った、『あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかっ たのか』」。  ここには、主イエスの前での私たち人間のありのままの姿が現れています。主イエ スの目から流れる「涙」に人間的な感動を覚えつつも、そこでなお不信仰の心でしか 主イエスを見つめていない私たちの姿です。つい最近アメリカの長老教会で、現代の 若者にふさわしい信仰告白という名目で新しい信仰告白文が作られました。まるでフ ォークソングの歌詞のような文章です。「イエス様はいつも僕たちと一緒だ。何も怖く ない」といった調子です。本当の信仰はそのような甘ったるい文言によって培われる ものではありません。私たちはなぜ教会が1700年もの間、あのニカイア信条、また 使徒信条に立ち続けて来たのか、その意味をよく考えなくてはなりません。わが国に おいても1890年(明治23年)制定の「日本基督教会信仰の告白」は、ニカイア信条 の厳密かつ忠実な解釈であり、世界に誇るべき信仰の遺産です。それを私たちの教会 は受け継いでいるのです。  ひとつの例を挙げましょう。たとえば私たちは、ルカ伝10章の「善きサマリヤ人 の譬」を読んで何を感じるでしょうか。道端に強盗に襲われて傷つき、死を待つばか りのユダヤ人の旅人が倒れていた。祭司もレビ人もその旅人を見て見ぬふりをして去 っていった。ただひとり不倶戴天の敵であるサマリヤ人だけが、その傷ついたユダヤ 人に心から同情し、駆け寄って傷の手当てをし、宿に連れていって夜どおし介抱し、 翌朝宿の主人に少なからぬ金を渡して申します。「どうかこの傷ついた人の世話をし てやって下さい。もしお金が足りなかったら、帰りがけに私が必ず支払います」。そう してこの人は名前も告げずに立ち去って行くのです。主イエスは言われます。「誰が、 この傷ついた人の“隣人”になったと思うか」と。  答えは明白です。この最後のサマリヤ人こそ、この傷ついた人の“隣人”になった のです。そして主は「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われます。これを 聞いて私たちは思う。そうだ、自分を中心にものを考えてはいけない。いつも人の立 場になってものを考えなければならない。人には親切にしてあげなくてはならない。 主イエスというかたは、なんと素晴らしい人類愛の教師であろうか。自分も主イエス に倣って愛のわざに生きたいものだ。  しかし、そのときなお私たちは、この譬えにおける最も大切なメッセージを見失っ ています。それは、このサマリヤ人こそ主イエスの御姿そのものであるということで す。そして、傷つき倒れ死を待つばかりの旅人こそ私たちの姿だということです。ユ ダヤ人にとってサマリヤ人は不倶戴天の敵でした。同じように私たちは「罪」によっ て神に敵対し、徹底的に御言葉に背き、死を待つばかりの者でした。しかしそのよう な私たちのもとに「罪」という名の隔ての中垣を越えて、全てをなげうって駆けつけ、 御自分の傷をもって私たちを癒し、御自分の死をもって私たちを活かしめて下さった かた(主イエス・キリスト)がおられる。それこそが聖書が私たちに告げている福音 のメッセージなのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。主が言われる「あなたも行って、同じ ようにしなさい」とは、単なる博愛主義や道徳の勧めではなく、主イエスを信じ、主 イエスを仰ぎ、主イエスに従う、キリスト中心の信仰生活への招きなのです。神の隣 人ではありえなかった私たちが、主イエスの十字架による罪の贖いによって、神の愛 する「子」とならせて戴いたという恵みの宣言なのです。だから、そこに響き渡って いる主の御声は「あなたにはこれができるか?」という行いへの誡めではなく「あな たは私を信じるか」という信仰への招きであり、十字架と復活によって、罪と死のあ らゆる支配に勝利され、その勝利の中に教会を通して私たちを連ならせて下さる、主 イエスの恵みの主権を明らかにするものです。  主イエスの流された「涙」は、単なる博愛主義から来たものではありません。主イ エスは御自分のために涙を流されませんでした。主イエスの涙はいつも 私たちの罪 からの救いと生命のための「涙」であり、漠寂たる死の現実に対して流された惜別の 涙とは違うのです。私たちは死の現実に対して沈黙するしかありません。主イエスを お迎えしてさえ、なおそこで私たちは「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを 死なせないようには、できなかったのか」と呟くほかはない者たちなのです。  しかし、そこでこそ大切な唯一のことは、私たちにとって全ての言葉が空しくなる “死”という現実のただ中に、ただひとり主イエスのみが、生命の御言葉をもって、 生命の主そのものとして、いまここに来て下さったという事実です。主はそこで御自 分の御傷をもって私たちのあらゆる傷を癒し、御自分の死をもって私たちを罪と死か ら贖い、なんの功もない私たちを“永遠の生命”(三位一体なる神との、永遠の愛の交 わり)へと回復して下さるのです。  主イエスは、まさにそのような私たちの救いのために、熱い「涙」を流して下さっ た。御自分のために一度も涙されたことのないかたが、ただ私たちの「罪」という名 の墓前で「涙」を流して下さった。この事実こそ、私たちに対する主イエスの救いの 確かさ、そして真実なることを証しているのです。  墓には何の希望もないはずです。墓は私たち人間にとって人生の、いや生命の終着 点です。終着点とはもうその先に線路はない(希望はない)ということです。だからこ そマリアもマルタと同様に主に申したのです。32節です「マリアは、イエスのおられ る所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、『主よ、もしあなたがこ こにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』」。残念ながらもう遅 いのだと訴えるのです。そこでは全ての人々が「涙」に暮れているのです。33節にこ うあるとおりです。「イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも 泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、『彼 をどこに置いたのか』。彼らはイエスに言った、『主よ、きて、ごらん下さい』」。 主 イエスが「涙を流された」のは、まさにそこにおいでした。死んでから四日間も墓の 中に「置かれ」ていたラザロに何の希望がありうるか。しかし主イエスは、まさにそ の絶望と虚無のただ中で「涙」を流したもうたのです。  33節に、主イエスが「激しく感動し、また心を騒がせ」とあるのは、直訳すれば「苛 立ち、心を乱された」ということです。ある人がこの御言葉について「主イエスは武 者震いをされた」と言っています。まことにここで主イエスは武者震いをしておられ る。私たちを、そして世界を支配しているかに見える罪と死の力に対して、主イエス は救いの権威をもって対峙しておられる。私たちを滅びへと引きこむあらゆる力に対 して、主イエスのみが決然と立ち向かっておられる。誰が墓の前に立って「武者震い」 しうるでしょうか。うな垂れるのではなく毅然としてまなざしを墓に注ぎ、罪と死の 支配に対して永遠に勝利された唯一の主として、主は私たちのために「激しく感動し、 また心を騒がせ」「涙を流された」のです。  旧約聖書の詩篇102篇9節に「わたしは灰をパンのように食べ、わたしの飲み物に 涙を交えました」とあります。私たちはここに、主イエスのゲツセマネの祈りを思い 起こすのです。永遠なる神の子が徹底的に謙りたまい、人となられて全人類の罪の重 荷を背負われ、あのゲツセマネの園に臨みたもうたことです。そこで主は祈られまし た「父よ、できうればこの杯をわれより取り去りたまえ。されどわが意にあらで、た だ御心をなしたまえ」と。主はまさに「灰をパンのように食べ……飲み物に涙を交え」 て下さったのです。私たちの罪の贖いのために「涙」したもうた主は、御自分が飲む べき苦難の杯にその「涙」を混ぜて、最後の一滴までも飲み尽くして下さったのです。 それがあの十字架の出来事なのです。  すると、どうなのでしょうか。まさに今朝の35節の御言葉は十字架の主イエス・ キリストの御姿を示しているのです。古代ギリシヤ人にとって神はあらゆる人間的な 感情から隔絶した存在でした。「苦しまない神」こそ真の神だと考えられていました。 中世ヨーロッパのスコラ哲学でも同じでした。しかし聖書が示すまことの神の御姿は そのような「苦しまない神」ではなく、まことの神は私たちのためにあらゆる苦難を 担われ「涙」を流され、その「涙」の杯(十字架)を飲み尽くして下さったかたなので す。みずから私たちの罪のどん底にまでお降りになって、そこで私たちの全存在の重 みを受け止め、生命へとよみがえらせて下さる神なのです。  私たちは、そのようなかたを「まことの神」「主イエス・キリストの父なる神」「世 界の創造主」「救い主」として信じ告白し、全世界にある主に結ばれた公同の聖なる、 唯一の使徒的なる教会と共に、ただ神にのみ栄光あれと讃美と感謝をささげつつ、御 子イエス・キリストが聖霊によっていま世界になしたもう救いの御業に、教会に連な ることによって共にあずかり、仕える僕とならせて戴いているのです。  「涙をもて種まく者は、喜びの声もて刈り取らん」と詩篇126篇に告げられていま す。あのサマリヤ人の譬えと同様、それも主イエス・キリストの御姿を示すものです。 主は「涙」をもって私たちのただ中に福音の種を蒔いて下さいました。何の希望もあ りえず見捨てられていたあのラザロの墓に向かって、主は「涙」と共に生命の御言葉 を語り告げて下さいました。そこに私たちの思いを遥かに超えた救いの出来事が起こ ります。墓の中に復活の出来事が起こります。「ラザロよ出できたれ」との主の御声に 応えて、絶望のみが支配する私たちの「墓」から復活の喜びの声が響きわたるのです。 神の国における永遠の喜びと祝福に、死にたる者たちがあずかることこそ本当の奇跡 です。まさにここに連なっている私たち一人びとりが、その主の奇跡にいま共にあず かる者とされているのです。