説   教  エゼキエル書18章30〜32節  ヨハネ福音書11章17〜27節

「永遠の生命とは」

2009・06・21(説教09251277)  数あるキリスト教の教理の中でも、「永遠の生命」の項目ほど、私たちがわかってい るようでいて、実はよくわかっていないものは、ないのではないでしょうか。  私たちは「永遠の生命」と聴くとき、なにをまず思い浮かべるでしょう。それがい わゆる“不老不死”のことではないということは知っています。しかしそれ以上のこ とになると、きちんと説明できる人は意外と少ないかもしれません。  ヨハネ福音書の3章1節以下に、ニコデモという名のユダヤ人の指導者が出て参り ます。彼はある夜ひそかに主イエスのもとを訪ね「永遠の生命」について質問しまし た。そこで主イエスは彼に「よく、よく、あなたに言っておく。だれでも新しく生れ なければ、神の国を見ることはできない」とお答えになりました。驚いたニコデモは 再び問います「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、 母の胎にはいって生れることができましょうか」。  ニコデモにとって「永遠の生命」とは、神に従い律法を守ってきた自分の人生に対 する神からの当然の褒美でした。譬えて言うなら生命保険のようなもので、「良き行い」 という掛金を支払い続けてきた者が、満期に自動的に受け取る報酬のようなものだと 考えていたのです。ところが主イエスは、そのために必要なのは「新しく生れること」 のみだと言われました。これはニコデモの理解を超えたことでした。  ニコデモにしてみれば「あなたのような立派な人は、当然『永遠の生命』を受ける 資格がある」と主イエスに言って欲しかったのです。お墨付きが欲しかったのです。 ところが「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と主は言わ れたのです。それでニコデモは驚いて「もういちど私に、母親の胎内に入って、生れ 直せとでもおっしゃるのですか」と、的外れな答えをしているのです。  同じような誤りはあの“富める青年”にも見られます。マルコ福音書の10章17節 以下です。一人の青年が主イエスのもとに走りより、跪いて「よき師よ、永遠の生命 を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と問うたことです。その直前に主イエ スは幼な子らを抱いて祝福しておられます。主イエスは人々に「神の国はこのような 者(幼な子)の国である」と言われ、「よく聴いておくがよい。だれでも幼な子のよう に神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」とお教え になったのでした。  ところが、まさにその主の御言葉と幼子への祝福の一部始終を見ていたはずのこの 青年が、その同じ主に「私はどんな立派な行いをすれば、永遠の生命を受けられるで しょうか」と質問するのです。ここに根本的な誤りがありました。彼もまたニコデモ と同じように、「永遠の生命」を自分の功績によって得られるものと思い違いしていた のです。主イエスが求めたもうものは“信仰のみ”でありましたのに、ニコデモも、 富める青年も、信仰ではなく自分の努力や行ないによって「永遠の生命」を得ようと していたのです。  では、私たちはどうでしょうか。私たちはニコデモやこの“富める青年”のように、 自分の行いを誇ることはしないし、また、したくてもできないかもしれない。しかし ならばなおのこと、私たちに問われていることは、私たちがいつでも「新しく生れた 者」となり「幼な子のように神の国を受けいれる者」になっているかどうか。つまり 主イエスへの私たちの“信仰のみ”ではないでしょうか。  主イエスがベタニヤの村に入られたとき、ラザロは死んでからすでに四日間も「墓 の中に置かれていた」のでした。ラザロのための弔いの式も終わって、マルタとマリ アの家には、彼女たちを慰めようとして多勢の弔問客が訪れていました。これはラザ ロという人が生前多くの人々に慕われ愛されていたことを示すものです。そしてマル タとマリアはこうした弔問客を忙しくもてなしていた、その様子が今朝の御言葉から 伝わってくるのです。  そこに、主イエスが来られたという報せが入りました。マルタは急いで外に出てゆ き、道端で主イエスに出会って申しました「主よ、もしあなたがここにいて下さった なら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。この言葉には遅れて来られた主イエス に対する非難の思いがこめられています。「なぜ、もっと早く来て下さらなかったので すか。そうすれば愛するラザロは死なずに済んだのに、死んだ今となっては、もう全 てが遅すぎるのです」マルタはそのように訴えたかったのです。  私たちはここに、マルタとマリアの主イエスに対する“不信仰”を見るわけではあ りません。むしろマルタもマリアも、主イエスを「信ずる者」として立っています。 それは続く22節のマルタの言葉からもわかります。「しかし、あなたがどんなことを お願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。  マルタもマリアも、そしてラザロも、主イエスを「神の子・キリスト」と信じてい た人たちです。キリストを信ずる信仰による「永遠の生命」を信じ、その信仰の内に ラザロは死んだのです。そして愛する者の死という耐えがたい悲しみの中で、マルタ もマリアも主イエスに、悲しみの心のあるがままを訴えつつ、そこでこそ自らの信仰 を言いあらわすのです。「あなたこそ死に勝利された救い主・神の子キリストです」と 告白するのです。  しかしながら、その信仰は不充分なものでした。私たちの信仰は主イエス・キリス トにしっかりと繋がっていないとき、すぐに自分勝手な一人よがりのものになるので す。教会に連なり、礼拝者として生き、聖霊の導きを受けてこそ、信仰は正しいもの になります。その意味でマルタとマリアの信仰は、正しくあり続けたとは言えません でした。信じればなんでも良いというのではなく、信仰においてすら自分が中心にな る罪をおかすのが私たちなのです。私たちのまなざしがいつもどなたを仰いでいるか が大切なのです。  マルタの信仰の誤りは、主イエスの御言葉の前にすぐに明らかにされます。私たち の信仰は神の言葉によってたえず軌道修正されなくてはなりません。主イエスは言わ れます。23節です「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。ここに主イエスははっき りと「よみがえり」を告げたまいます。キリストに結ばれて死んだ者にとって、死は 生命に呑みこまれてしまったのです。第一コリント書15章55節以下に告げられてい るとおりです「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。 死よ、おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝 利を賜わったのである」。  ここで大切なことは「私たちの主イエス・キリストによって」という言葉です。こ の「よって」とは「あなたのために主がなして下さった救いの御業によって」という 意味です。私たちのわざは死に打ち勝ちえず、いつも死に呑みこまれてしまう生命に すぎません。ただキリストの御業のみが死に打ち勝ち、死を呑みこむ生命なのです。 それならば、主がマルタに求めておられたのはまさに「あなたのためになされた救い の御業を信じなさい」という信仰です。ただ十字架のキリストのみを仰ぎ、キリスト の御業のもとに立ち続ける信仰です。いま主はまさに私たち一人びとりに、その信仰 を求めておられるのです。  マルタは答えました。24節です「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存 じています」。これもまだ、主が求めておられる“信仰”ではありません。それはパリ サイ派の律法学者たちが教えていた月並みな教えにすぎません。パリサイ人たちも復 活を信じていました。しかしその復活とはあくまでも、満期になった保険のようなも ので、人間の良い行いに対して自動的に支払われる報酬にすぎませんでした。ですか ら「終りの日のよみがえりの時」とは非常に曖昧であり不確かなのです。保険に譬え るならば、肝心の保険会社が倒産してしまえば、もう満期どころではないのと同じな のです。キリストが言われる「よみがえり」とは、そのような不確かなものではあり ません。  むしろ主は明確にマルタに宣言されます。25節です「イエスは彼女に言われた、『わ たしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じ るか』」。マルタよ、マルタよ、そうではないと、主は言われます。「よみがえり」とは 人間の良き行いに根拠を持つものではない。つまり人間の中に「永遠の生命」の保証 があるのではない。そうではなく「永遠の生命」の唯一の保証は神にのみあるのだ。 いや「永遠の生命」とは唯一の主なるまことの神の“永遠の愛の交わり”にあなたが 生かされることなのだ。そのように主ははっきりと言われるのです。だからこそ主は 「われは甦りなり、生命なり、われを信ずる者は、たとえ死ぬとも生きるべし」と言 われたのです。そればかりではない「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも 死なない」のだ。「あなたはこれを信じるか」と、マルタに、そして私たち一人びとり に、主は問うておられるのです。  聖書が語る「永遠の生命」は「霊魂不滅」の教えではありません。霊魂不滅の教え は古代ギリシヤからあったものですが、それは「肉体は汚れているが、霊魂は清いも のである」という教えです。そして「汚れたものは生命を持たず、清いものだけが生 命を持つ」ゆえに「肉体は滅びても霊魂は滅びない」という教えです。これを「霊肉 二元論」とも申します。肉体と霊とを区別して、肉体は人間にとって無意味であり、 ただ霊魂だけが尊いと考えることです。  この「霊肉二元論」はのちの中世の教会に影響を及ぼし、今日に至るまであんがい 多くのキリスト者の復活理解に影響を与えています。そこで宗教改革者ルターやカル ヴァンは、霊魂不滅の思想と聖書の語る「復活」が全く違うということを詳しく論ぜ ざるをえませんでした。霊魂不滅の思想とは結局は、私たちの中にある生命の延長に すぎないのです。そうすると困ったことになります。永遠とは「時間を超えたもの」 であり「死なない」ということです。しかし私たちの中にある何が「時間を超えた(死 なない)もの」たりうるでしょうか。「そんなものはなにひとつない」と言わざるをえ ない私たちなのです。 改めて申します。「永遠の生命」とは、私たちの内側のなにかが「時間を超えたもの」 になることではありません。そうではなく、主イエス・キリストが私たちの罪のため に十字架にかかって下さった。私たちの永遠の贖いを成し遂げて下さった。ただその キリストの救いの御業によって、信ずる者すべてに無償で与えられる「キリストと共 にある新しい生命」こそ「永遠の生命」なのです。言い換えるなら、主が私たちの罪 の贖いとなって、私たちのために御自分の生命を注いで下さった、その主の生命に私 たちは教会を通して「あずかる」者とされているのです。だから教会は「キリストの 身体」と呼ばれます。キリストの復活の生命に共にあずかり、新たにされた者の群れ (聖徒の交わり)だからです。 「永遠の生命」は私たちの内側にある何かの延長ではなく、主が与えて下さる新し い生命であるゆえに、私たちの身も魂をも生かしてやまないのです。「わたしはよみが えりであり、命である」とはっきりと語って下さる主が私たちの救い主なのです。「あ なたはこれを信じるか」と、主はいまマルタとマリアに、そして私たち一人びとりに 問うておられるのです。主が求めたもう信仰のみが、私たちを生かす正しい信仰なの です。マルタもマリアもこの問いの前にはじめて自らの誤りを知り、悔い改めるので す。「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じ ております」と答えるのです。私たちはこの信仰によって生きる群れです。  使徒信条を私たちは礼拝のたびに告白します。そこにも「われは聖霊を信ず。聖な る公同の教会。聖徒の交わり。罪の赦し。身体のよみがえり。永遠の生命を信ず」と 告白されています。その主語は何でしょうか。それは三位一体なる神であって、私た ちではありません。神が御子イエス・キリストによって、私たちの全生活・全生涯に 現して下さる「永遠の生命」の恵みの中に、私たちはキリストに結ばれてあずかって いるのです。まぎれもなくここに集うている私たちが「永遠の生命」にいま生かされ ているのです。キリストの復活の生命が私たちを生かしめているのです。  「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生 きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれ を信じるか」。ただキリストの賜わる永遠の生命のみが、私たちを死を超えてまでも生 かしめる唯一のまことの生命です。そのまことの生命を与えるために、主は十字架へ の道を歩まれ、ご自分の全てを犠牲にせられ、私たちの罪の完全な贖いとなりたもう たのです。