説    教     詩篇17篇15節    ヨハネ福音書11章5〜16節

「目覚めよと呼びたもう主」

2009・06・14(説教09241276)  ラザロは重い病気に冒され、死に直面した苦しみの中にありました。姉妹であるマル タとマリアは急いで愛する兄弟ラザロのために主イエスをお迎えしようとしたのです。 そのために主イエスのもとに人を遣わし「主よ、あなたが愛しておられる者が病気をし ています」と言わせたのでした。それが11章5節までに記された事柄です。  彼女たちは当然、主イエスがすぐラザロのもとに来て下さるものと期待していたので す。人は愛する者の苦しみを一刻も早く解決してあげたいと願います。愛する者が病気 だと聞けば、急いで駆けつけるのが普通ではないでしょうか。少なくともマルタとマリ アはそのように主イエスに期待したのです。  ところがここに、意外なことが起こるのです。なにを置いてもすぐ駆けつけて下さる ものと思っていた主イエスが「ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そ のおられた所に滞在された」(6節)というのです。これは、マルタとマリアにとって全く 予想外の出来事でした。  「ふつか」という日数は、健康な者にとっては何でもない時間です。しかし一刻を争 う重病人とそれを看取る家族の者たちにとっては気が遠くなるような長い時間なのです。 その焦りと不安のただ中で、恐れていた最悪の事態が起こるのです。それは、主イエス がおいでにならないうちにラザロに死が訪れたことでした。  マルタとマリアの嘆きは、どんなに大きかったことでしょうか。同じ11章の21節を 見ますと、マルタは主イエスに「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたし の兄弟は死ななかったでしょう」と申しています。これは遅れてやって来た主イエスに 対する暗黙の非難であり、やり場のない悲しみの思いです。主イエスのみがラザロを癒 して下さると信じたればこそ、他の誰でもなくただ主イエスのみをお迎えしようとした のです。主イエスならきっとラザロを死から救って下さると信じていたのです。それな のにその信頼が無残にも踏みにじられた想いがしたのです。  愛するラザロの亡骸を前に、マルタとマリアは悲しみの涙に暮れたことでした。「時す でに遅し」との無念の思いで一杯でした。病人が生きている間は、差し伸べる手の温も りが伝えられるのです。しかし死んでしまった今となっては、もはや差し伸べるその手 さえ冷酷な死の事実の前に無力でしかないのです。いわば彼女たちはこの“死の事実” の前に「キリストに躓いた」のでした。  この一連の出来事は、主イエスの十二弟子たちにとってもよほど印象に残る事柄であ ったようです。事実ヨハネ伝の中でも主イエスの御言葉がこれほど克明に記されている 箇所はほかにありません。弟子たちは、主イエスがベタニヤのラザロのもとに直行され なかった理由を、ユダヤ人たちによる迫害の危険を避けるためだと解釈しました。事実 パリサイ人や律法学者らは虎視眈々と主イエスの生命を狙っていました。すでにベタニ ヤも安全な地ではなくなっていたのです。  ですから「もう一度ユダヤに行こう」と言われた主イエスの御声を、弟子たちは驚き と共に聴いたのでした。8節を見ますと「弟子たちは言った、『先生、ユダヤ人らが、さ きほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか』」と問 うています。そこで主イエスはお答えになりました。9節以下の御言葉です。「イエスは 答えられた、『一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはな い。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうち に、光がないからである』」。  この御言葉の意味は何でしょうか?。ユダヤの人々は一日の時間を12等分していま した。だから一日の半分の6時間は「昼」でありもう半分は「夜」なのです。そこで主 イエスは弟子たちにお尋ねになる。あなたがたはいま「どちらの時を歩んでいるのか?」。 「昼あるく者」になっているのか、それとも「夜あるく者」になっているのか?。もし 「夜」歩くならその人は「つまずく」ほかはない。なぜなら「その人のうちに、光がな いからである」。しかし「昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見てい るからである」と言われるのです。  これは一見、ラザロの死とは関係ないことのように聞こえます。しかしそうではあり ません。それを解く鍵は「つまずき」という言葉です。第一に「この世の光」とは太陽 の光です。自然の光によってさえ私たちの歩みが守られ照らされるなら、ましてや「す べての人を照すまことの光」であられる神はなおさら、あなたの心と身体・魂と生命の 全体を照らし導いて下さるはずではないか。そのように主イエスは言われるのです。  第二にこの「昼」と「夜」という言葉を通して、主イエスは私たち人間の「生命」と 「死」をあらわしておられます。「昼」とは活動の時(生命の時)であり「夜」は停止の時 (死の時)です。もし「夜」活動しようとしても「その人のうちに光がない」ならその歩 みは必ず「つまずく」ほかはありません。されと同じように「死」は私たち人間にとっ て、全ての活動の停止であると同時に、恐るべき「つまずき」の出来事だと主は言われ るのです。「夜」の来ない一日がないように、全ての人間に等しくこの「つまずき」であ る「死」(夜)が訪れるのです。  そもそも「つまずき」とは快い響きの言葉ではありません。ギリシヤ語の原語でも“ス カンドローン”つまり英語で「悪評」や「醜聞」を意味する“スキャンダル”の語源に なった言葉が用いられています。その本来の意味は「他人の足元にわざと滑りやすい石 を置くこと」です。「悪意をもって他人を陥れること」です。それならば主イエスはこの 「つまずき」という言葉を用いたもうことによって、私たち人間にとって「死」が単な る自然現象ではなく“罪の結果”であることを教えておられるのです。「罪」が悪意(死 の棘)をもって私たちの存在を神から引き離し滅ぼそうとすること、それが「死」の本 質なのです。だから死の本質は「罪」であり、その「罪」からの救いこそが「まことの 生命」にいたる道であるということを、ここで主イエスははっきりと示しておられるの です。  そこでコリント人への第一の手紙15章55節以下では、この「死の棘」から私たちを 救って下さったキリストの救いの御業が次のように宣べ伝えられています。「『死は勝利 にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、 どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことに は、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったので ある」。  ここで大切なことは2つの「わたしたち」という言葉です。「わたしたちの主イエス・ キリストによって、わたしたちに勝利を賜わった」とあることです。主イエス・キリス トは「わたしたち」を罪の支配から贖い永遠の生命(神と共に神との交わりに生きる喜び の生活)を与えて下いました。そのため十字架への道を歩んで下さったのです。そして十 字架の死によって「罪」と「死」に永遠に勝利され「わたしたちに勝利を賜わった」の です。「わたしたちの」主イエスが「わたしたちに」勝利を賜わったのです。この2つ の「わたしたち」には、私たち全ての者の「救い」の揺るぎない確かさが告げられてい るのです。  マルタとマリアは、自分たちの期待が裏切られたと思いこんで悲しみました。そして 十二弟子たちもまた、みずから危険に飛びこんで行かれるかに見える主イエスの歩み中 で、まさにこの2つの「わたしたち」を見失っていたのです。つまり?主イエスは私た ちの救いのために来られた救い主(キリスト)であるという事実。?キリストは私たちに 罪と死にからの永遠の救いと生命を下さるかたであるという事実。この2つの大切なこ とを忘れていたのです。 彼らはもちろんイエス・キリストを“神の子”だと信じていました。しかしなおそこ で自分が中心であってキリストが中心ではなかったのです。彼らは自分たちの期待を裏 切った主に対して失望し、危険なユダヤに再び行こうとされる主の歩みに対して不信感 を募らせました。彼らはキリストを「主」と告白しつつも、なお現実の生活の中では自 分を「主」として歩んでいたのです。そこに絶望と不信が支配しました。そこに罪の「つ まずき」が彼らを支配したのです。  今朝の御言葉のこの問いは私たちへと向けられています。いま私たちは自分とキリス トのどちらを唯一の「主」として立っているでしょうか。私たち自身の思いこみや疑い や不信感が支配していることはないでしょうか。私たちは御言葉を正しく聴いているで しょうか、私たちはいま「夜あるく者」(みずからの内に光がない者)になってはいない でしょうか。主イエスのみを仰ぐとき、主イエスのみを唯一の「主」として生きるとき、 私たちははじめて「昼あるく者」とされるのです。  私たちはここに主イエスへの信仰のみを問われています。私たちの清さや正しさや資 格や相応しさなどが私たちを救うのではなく、教育や業績や経験が私たちを永遠の生命 に導くのでもないのです。ただ主イエスを仰ぐ者のみが救われるのです。事実信仰なく して今日の11節以下の御言葉は聴きえません。主イエスははっきりと弟子たちに言われ ました「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」と。しかし弟 子たちは言うのです「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」と。弟子たちの この奇妙な答えは、実はあらゆる人間の常識を代弁しています。それは「眠っているの ではなく、死んだのなら、決して助からない」という常識です。それならまさにこの「死」 の常識に対してこの世界でただお一人主イエスのみが立ち塞がって下さいます。主イエ スのみがラザロを生かしたもうのです。「死」をも「眠り」と呼びたもうかたが、その「眠 り」である「死」からラザロを起こすために立ち上がられるのです。  ここに福音の真実があります。あらゆる人間の「死」の冷酷な事実を「眠り」と呼び たもうかたが私たちと共におられる。私たちの誰もが「つまずく」ほかはない「罪」と 「死」の支配に対して「わたしたちのため」に勝利を賜わったかたがここにおられるの です。まさにそのようなかたとして、主はあなたと共におられ、あなたは堅く主に結ば れているのです。 バッハのコラール「目覚めよと呼ぶ声すなり」を思い起こします。礼拝や教会の葬儀 のおりに前奏曲として演奏されるものです。死したる者、罪に支配された全ての人間に 対して、いま「目覚めよ」と呼びたもうかたがここにおられ、その御声がいま私たちに 響いているのです。その御声に私たちが信仰をもって応えるとき、死んでいた者がよみ がえり、罪に支配されていた者が贖われ、神から離れていた者が立ち帰り、眠っていた 者が目覚め、主と共に歩む新しい生命が現れます。それが主の御身体である教会におい て、全世界のあらゆる場所において、あらゆる人間の現実のただ中で、いま起こってい るのです。  人類の歴史始まって以来、生命は死に呑みこまれ続けてきました。それが常識でした。 しかしキリストに連なる私たちにとっては、死が生命に呑みこまれているのです。それ こそパウロの語る「死は生命に呑まれてしまった」という音信です。主は私たちを極み までも愛し、私たちを贖い救うために御自分の生命をことごとく十字架に献げ尽くして 下さった神の御子イエス・キリストなのです。このキリストの恵みの前に、もはや死は 「つまずき」の力を持ちえないのです。その生命の恵みはいま私たち一人びとりに豊か に注がれているのです。教会はキリストの復活の御身体です。私たちはここから新たに 始まる日々の生活において、生命の主なるイエス・キリストに堅く結ばれた者として歩 むのです。「目覚めよ」と呼びたもう主の御声が、いつも私たちの人生のただ中に響きわ たっているのです。