説    教     詩篇103篇1〜3節   ヨハネ福音書11章1〜4節

「主はあなたの病を癒される」

東海連合長老会相互講壇交換 於 富士教会 2009・06・28(説教09231278)  私たちの誰もが、病気になった経験を持っています。ある人は重い病気の経験があ ります。いま現実に重い病気をかかえている人も少なくはないでしょう。あるいは自 分ではなくても、家族や愛する人々の中に病気と闘っている人が、必ずと言ってよい ほどいるのではないでしょうか。  そこで私たちが心から願うことは、その病気が癒されることです。当然のことです。 「この苦しみから一日でも早く解放されたい」と願い、「この重荷を自分の人生から取 り去って下さい」と主に祈る私たちなのです。あるいは家族や愛する者のためにそう 祈らざるをえない私たちなのです。  では、そこで私たちの願うままに病気が治れば、それで私たちは「万事よし」とい うことになるのでしょうか。逆に、もし願いに反して病気が治らず、却ってますます 悪くなった場合には、私たちは神から見放されているということになるのでしょうか。 もちろん、そうではありません。  そもそも私たちにとって「本当の癒し」とはなんでしょうか。たとえ首尾よく願い 通りに病気が治ったとしても、それで私たちは「救いを得た」ということではありま せん。それは私たち人間には、たとえどのような医療も、決して癒すことのできない 厳粛な事実があるからです。 それは“人間はやがて死んでゆく存在”だという事実です。たとえ一事的に病気が 回復したとしても、その人はそれで「死なない存在」になったのではありません。や がていつの日か確実な死の時を迎えるのです。決して例外はないのです。私たちはや がて自分に対する“死の勝利”を認めざるをえない存在なのです。その意味で私たち には、病気からの一時的な「回復」はあっても「本当の癒し」はないのだと言わざる をえないのです。 「ある病人がいた」という言葉で今朝の御言葉は始まっています。この「ある病人」 とはマルタとマリアの兄弟ラザロで、エルサレムから少し離れたベタニアという村に 住んでいました。「ベタニア」とはヘブライ語で「病める人々の家」という意味です。 その名の示すとおりベタニア村は、さまざまな病気に苦しむ人々が身を寄せ合うよう に生活をしていた、そのような場所ではなかったかと想像されるのです。  そこで3節を見ますと、マルタとマリアの2人の姉妹は「イエスのもとに人をやっ て、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』」と伝えたのでした。これは 必死の訴えであり「祈り」です。病気に苦しむ兄弟ラザロのために心を尽くして看病 してきた姉妹たちでした。しかし病勢はますます悪化しもはや絶望的な事態になった とき、彼女たちに残された道は“主イエスをラザロのもとにお呼びすること”だけで した。「ここに主がいらして下さりさえすれば」そういう切なる思いがあったのは当然 なのです。  もともと、ベタニアのラザロの家は、主イエスがエルサレムに上京されるおりいつ も定宿になさっていた場所でした。ラザロ、マルタ、マリアの三人はいつも主イエス を心からもてなし、食卓を囲みながら主イエスから福音を聴くことを無上の喜びとし ていました。それは2節にあるように、マリアがパリサイ人シモンの家で主イエスの 御頭に香油を塗り、自分の髪の毛で主の御足を拭ったことに始まる関係でした。つま り彼女らは主イエスのことを「救い主キリスト・神の子」と告白し、主が語られる御 言葉によって養われ続けていた人々なのです。  だから今ここに必死の思いで「人をやって」主イエスを呼ぼうとしたのは、はっき りと信仰から出た意志であり行動でした。マルタもマリアも、兄弟ラザロが死の危険 に晒されていることを知ったとき、そこに死に打ち勝ちたもう唯一の「救い主」であ る主イエスをのみを呼ぼうとしたのです。主イエスのみが死の支配を打ち破るかただ と信じているのです。それはラザロ自身の心からの願いでもありました。  もう30年ほど前に天に召された石原謙というかたがいました。古代キリスト教史 研究の第一人者として東京神学大学でも教鞭を執られたかたです。かなりのご高齢で 天に召されたのですが、この石原先生が亡くなる直前に非常な畏れの思いを抱かれま した。そんな様子を見た弟子の一人が「先生ほどのかたでも、やはり死ぬことは恐ろ しいのですか?」と尋ねました。すると石原先生は「君は人間の罪の重さ、恐ろしさ というものが、何もわかっていない」と答えられたのでした。  そこにあったものは、文化勲章受賞の碩学の姿でも何でもなく、ただ一個の、主イ エス・キリストの前にひれふす弟子の姿でした。石原謙という一個の、キリストに贖 われ、赦され、癒され、祝福された人間として、最後の瞬間までただキリストの御手 にのみ拠り頼み、聖なる神の御前に生を全うしたのです。そこから溢れ出た「畏れ」 であり、それこそキリストの義のみを身にまとった礼拝者の姿でした。そして最後は、 キリストの贖いの恵みの平安に満たされて天に召されたのでした。  私たちはどうでしょうか。私たちは健康でいるときはもちろん、病気になったとき にさえそのような、キリストに対する畏れと信頼に生きえているでしょうか。改めて みずからに問わざるをえないのです。むしろ私たちは、あのファリサイ人らがそうで あったように、キリスト以外の「なにか」で満ち足りてしまってはいないでしょうか。 キリストを信じて御言葉に養われることよりも、自分の願いや欲求が適うことを人生 の目的としてはいないでしょうか。  かつて観た西部劇のシーンにこういうものがありました。ガンマンが撃たれて倒れ る。人々が走りよって助け起こそうとする。「医者を呼べ」と誰かが叫ぶ。するとほか の誰かが言うのです「駄目だ、もうこの男は助からない。医者ではなく牧師を呼べ」。 私たちもこのような価値観に捕らわれていることはないでしょうか。生命があるうち は“医者の出番”いよいよ死にそうになったら“牧師の出番”。それをそのまま「この 世」と「キリスト」に置き換えてみると良いのです。生命があるうちは“この世の出 番”いよいよ死にそうな時には“キリストの出番”。それでは葬式仏教などと言って笑 うことはできません。  今から1500年ほど前、教父アウグスティヌスの時代にキリスト者の間に良からぬ 社会現象が起こりました。若い頃に洗礼を受けてキリスト者として何十年も生きるの は窮屈だ。それより病気になって死ぬ間際に洗礼を受ければ、この世の生活の楽しみ と天国の両方を受けることができる。そういう考えかたです。アウグスティヌスはこ うした考えかたを厳しく戒めています。もちろんそれは病床洗礼や高齢になってから 洗礼を受ける人のことを否定するのではありません。この世の生活とキリストを信じ る生活とを分けて考えることを戒めているのです。  キリストは、まさにこの世の私たちの「罪」のただ中においでになった「救い主」 なのです。私たち人間にとって最も恐ろしい病気は神に対する「罪」です。肉体の病 気は、肉体を滅ぼすことはできても、魂を滅ぼすことはできません。しかし「罪」は 肉体も魂をも滅びに至らせるのです。ところが私たちは、肉体の病気には敏感であり 恐れを抱いても、魂の病気である「罪」については驚くほど鈍感であり恐れを抱かず にいるのではないでしょうか。それこそ石原謙先生のように、心から「罪」を恐れキ リストに拠り頼む生涯を全うしたいものです。もしそうならば私たちは、たとえ不治 の病に冒されていようともキリストによって癒され、キリストの生命に結ばれた者と されているのです。  改めて今朝の御言葉から学びましょう。ラザロ、マルタ、マリアの三人の兄弟姉妹 は、主イエスを心から「救い主キリスト・神の子」と信じ告白していた人々なのです。 主の御言葉によって養われ続け、礼拝者として生きていた人々なのです。「ベタニア」 (病める人々の家)とはまさに私たちの現実の世界のことです。そこにあって人類共通 の難病である神に対する「罪」から私たちを贖い、その「死に至る病」から全ての者 を救うために世に来られた主イエス・キリストを、私たちはいま「信じる者として生 きているか?」と問われているのです。 ラザロの臨終の場面は、やがて来る私たちの臨終の場面に重なります。そこで私た ちもまた、ただ主イエスの御手の内にあることのみを願い、生きる時にも死ぬ時にも 変らぬ唯一の「慰め主」なる十字架の主イエス・キリストを信じ、ただキリストのみ が死の支配を打ち滅ぼして下さることを、いま心から信じ告白する者とされているの ではないでしょうか。それならば、私たちはいまここにキリストの「癒し」を戴いて いるのです。  「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。まことにマルタとマリアがこ のように主に告げたように、ラザロは主の愛したもう人でした。その事実もまた私た ち一人びとりの人生に見事に重なるのです。主はあのゴルゴタの十字架を担われたほ どに私たちを極みまでも愛して下さいました。私たちに挑みかかる死の支配という 「病」の前に、主イエスただお一人が立ち塞がって下さったのです。そして御自身の 生命を御教会を通して私たちに豊かに与えて下さいました。私たちは主の生命に与る 群れに連なっているのです。 使徒パウロはローマ書8章において「キリスト・イエスにおける神の愛から(何も のも)私たちを引き離すことはできない」と語っています。だからこそ私たちはその 測り知れぬ難病である「罪」の中より「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なの です」と、自分のためにも、また他の人々のためにも、主を呼びまつることを許され ています。そして主は必ず私たちの病を癒して下さるのです。  私ごとですが、私は牧師になって27年になります。この年月のあいだおよそ百数 十名の人々の臨終に立会い、また葬儀と埋葬を司式して参りました。長患いの末に亡 くなるかたもあり、昨日まで元気でいたのに突然の死を迎えるかたもあります。交通 事故で亡くなったかたもあります。しかしその誰にも共通している唯ひとつの事実が ある。それはその誰もが“キリストに贖われた者”(キリストに癒された者)としてこ の世の生を全うし、キリストに結ばれて天に召されたという事実です。それ以上に大 切なことはないのです。  何よりも主イエス御自身がはっきりと語られました。今朝の御言葉の4節です「イ エスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のた めである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』」。これはなんという確かな 慰めに満ちた約束でしょうか。私はいま福田雅太郎先生のことを思い起こすのです。 福田先生は本当に入院して間もなく天に召されました。肉体の病気はついに回復しま せんでした。ここにいるみなさんは呆然とし悲しみに暮れました。しかし主がここで 言われる通りのことが富士教会に起こったのです。「この病気は死で終わるものではな い。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。いまこの 御言葉に「アーメン」と応えることのできる私たちは、福田先生と同じキリストの「癒 し」を戴いている者たちなのです。  死は人生の終着点であり、その向こう側には生命はありえない。それがこの世の常 識でした。しかし主イエスを信ずる者にとって死はもはや最終到着点ではなく、新た な生命への入口であり神の御業が現れることなのです。キリストは「罪」という「死 に至る病」に冒された私たちの「癒し」を十字架において成し遂げて下さいました。 私たちの罪のどん底にまでお降りになり、そこで私たち死すべき存在を根底から支え、 新しい生命を与えて下さったのです。 だから主はいま私たちに宣言して下さいます「この病気は死で終わるものではない」 と。あなたが病気を患うときにも、その病気の向こうにあるものは死の支配などでは ないと主は言われるのです。そうではなくて、私があなたを癒しているではないか。 私があなたの全存在・全生涯を支え導いているではないか。私があなたといつも共に いるではないか。それなら病気の中にさえ神の栄光が現われるではないか。神の救い の御業(死に打ち勝つ生命)があなたと共にあるではないか。そのように主ははっき りと語って下さるのです。  生まれながら目の不自由な人に「誰が罪を犯したためですか?」と原因を問う弟子 たちに対して「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」と主ははっきり語って 下さいました。それと同じ恵みの奇跡が、死が生命に呑みこまれる救いの出来事が、 いま私たちのただ中に起こっているのです。私たち一人びとりを通して、この主の御 身体なる教会によって、私たちを豊かに「癒し」たもうて、主は私たちを救いの喜び と祝福を証する僕として下さいます。私たちの生涯を堅く支え導いて、生命の恵みを 現わして下さるのです。まことに主は、あなたの病を癒して下さるかたなのです。