説    教     詩篇16篇1〜11節   ヨハネ福音書11章1〜4節

「主は汝の病を癒される」

2009・06・07(説教09231275)  「さて、ひとりの病人がいた」という言葉で今朝の御言葉は始まっています。この 「ひとりの病人」とはマルタとマリアの兄弟ラザロで、エルサレムから少し離れたベ タニヤという村に住んでいました。「ベタニヤ」とは旧約聖書の原語であるヘブライ語 で「病める人々の家」という意味です。その名の示すとおりベタニヤ村は、さまざま な病気に苦しむ人々が身を寄せ合うように生活をしていた、そのような場所ではなか ったかと想像されるのです。  病気になった人が最も強く願うことは、その病気が治ること、癒されることではな いでしょうか。一日も早くこの痛み、この辛さ、この不安、この苦しみから自由にな りたい。癒されたいと心から願うのです。それは大きな病気を経験したことのない人 にはわからない苦しみです。しかもそう願ったからとてそれで病苦が無くなるわけで はありません。願いや祈りに反してますます病気が重くなることだってあるのです。 痛みや苦しみばかりがましていって、絶望的な思いに捕らわれることがあるのです。 「自分はもう駄目だ」と自暴自棄になることがあるのです。  そのようなとき、いちばん助けと慰めになるのは、なんと言っても身内の人の支え です。痛みに耐えかねて夜も眠れず呻き声をあげ、モルヒネさえも効果がなくなった 末期ガンの患者さんが、その激痛の中で必死になって手を握りしめる家族の手の温も りによって、痛みがずいぶん和らいだこという実例があります。ここに自分の痛みを 共有し理解してくれている人がいる。その人がいつも自分の傍らにいてくれる。その 事実だけで病人はどんなに力づけられ慰められることでありましょうか。それはどん な薬もなしえない「癒し」の力を与えることさえあるのです。  しかしながら私たち人間には、たとえどのような医療も、身内の者の助けさえも、 もはや決して届くことのない「癒されえない」厳粛な事実があります。それは“人間 はやがて死んでゆく存在”だという事実です。病気は人間を死へといざなう力です。 たとえ一事的に病気が回復し、健康を取り戻すことができたとしても、その人はそれ で死なない存在になったのではありません。やがていつの日にか確実な死の時を迎え るのです。そこに決して例外はないのです。「死よ、汝は我に勝利せり」と、私たちは やがてみずからに対する“死の勝利”を認めざるをえない存在なのです。死の彼方に まで手を握りしめ共にいてくれえる者は誰一人としていないのです。  ここに、マルタとマリアの二人の姉妹は「人を(主)イエスのもとにつかわして」 「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と主イエスに伝え ました。今朝の御言葉の3節です。ここには必死の訴えがあります。病気に苦しむ兄 弟ラザロのために心を尽くして看病をしてきた姉妹たちでした。しかし病勢はますま す悪化しもはや絶望的な事態になったとき、彼女たちに残された道は“主イエスをラ ザロのもとにお呼びすること”だけでした。「ここに主がいらして下さりさえすれば」 そういう切なる思いがあったのです。  もともとベタニヤのラザロの家は、主イエスがエルサレムに上京されるおりいつも 定宿になさっていた場所でした。ラザロ、マルタ、マリアの三人の兄弟姉妹はいつも 主イエスを心から歓迎し、心をこめてもてなしをし、主イエスから福音を聴くことを 無上の喜びとしていたのです。それは2節にあるように、マリアがパリサイ人シモン の家で主イエスの御頭に香油を塗り、自分の髪の毛で主の御足を拭いたことに始まる つきあいでした。いわば彼らは最初から主イエスのことを「救い主キリスト・神の子」 と信じていた人々です。そして主イエスの語られる御言葉によって養われ続けていた 人々なのです。  ですから今ここに必死の思いで人を遣わし主イエスを呼ぼうとしたのは、藁にもす がるいちかばちかの思いではなく、はっきりと信仰から出た意志であり行ないでした。 マルタもマリアも、兄弟ラザロが死の危険にさらされていることを知ったとき、そこ に死に打ち勝ちたもうた唯一の「救い主」(キリスト)として信じる主イエスをのみ呼 ぼうとしたのです。主イエスのみが死の支配を打ち破るかただと信じているのです。 それはラザロ自身の心からの願いでもあったでしょう。ラザロもまた死に直面した苦 しみと恐れの中から、ただひたすらに主イエスにお目にかかることを願ったのです。  もう30年ほど前に天に召された石原謙というかたがいました。古代キリスト教史 研究の第一人者として東京大学などで教鞭を執られ、東京女子大学の学長などを務め た人です。94歳で天に召されたのですが、このかたが亡くなる直前に非常な畏れの思 いを抱かれました。弟子の一人が「先生ほどのかたでも、やはり死ぬことは恐ろしい のですか?」と尋ねたそうです。すると石原先生は「君は人間の罪の重さ、恐ろしさ というものが、何もわかっていないのだ」と答えられたそうです。私はそれを人づて に聞いて厳粛な思いに打たれたことを覚えています。それこそ石原謙という人の真骨 頂であったと思っています。  そこにあったものは、文化勲章受賞の碩学の姿でも何でもなく、ただ一個の、主イ エス・キリストの御前にひれふす弟子の姿でした。石原謙という一個の、キリストに 贖われ、赦され、生かしめられた人間として、最後の瞬間までただキリストの御手に 拠り頼みつつ、与えられた生と務めを全うしたのです。そこから溢れ出た「畏れ」で あり、それこそキリストの義のみを身にまとった礼拝者の姿でした。  私たちはどうでしょうか。私たちは健康でいるときはもちろん、病気になったとき にさえもそのような、キリストに対する畏れと信頼に生きているでしょうか。改めて みずからに問わざるをえないのです。むしろ私たちは、あのパリサイ人らがそうであ ったように、キリスト以外のものによって満ち足りているようなことはないでしょう か。キリストに拠り頼み御言葉に養われるよりも、自分の欲求が適うことのほうを喜 びとしていることはないでしょうか。  映画の西部劇のシーンにこういうものがありました。ガンマンが撃たれて倒れる。 人々が走りよって助け起こそうとする。「医者を呼べ」と誰かが叫ぶ。するとほかの誰 かが言うのです「もうこの男は助からない。医者は要らないから牧師を呼べ」。私たち もこのような価値観に生きていることはないでしょうか。生命があるうちは医者の出 番、いよいよ死にそうな時には牧師の出番。それをそのまま「この世」と「キリスト」 に置き換えてみると良いのです。生命があるうちは「この世の出番」いよいよ死にそ うな時には「キリストの出番」。それでは葬式仏教などと笑えません。  今から1500年ほど前、教父アウグスティヌスの時代、良からぬ社会現象がありま した。若い頃に洗礼を受けてキリスト者として何十年も生きるのは窮屈だ。それより も病気になって死ぬ間際に洗礼を受けて、天国行きの切符を最後に手にしたほうが、 この世の生活を思いっきり楽しめる。そういう考えかたです。アウグスティヌスはこ うした考えかたを厳しく戒めています。もちろんそれは病床洗礼や高齢になってから 洗礼を受ける人のことを否定するのではなく、この世の生活とキリストを信じる生活 とを分けて考えることを戒めているのです。  キリストは、まさにこの世の私たちの「罪」のただ中においでになった「救い主」 なのです。私たち人間にとって最も恐ろしい病気は神に対する「罪」です。肉体の病 気は、肉体を滅ぼすことはできても、魂を滅ぼすことはできません。しかし「罪」は 肉体も魂をも滅びに至らせるものです。しかし私たちは、肉体の病気のことは人一倍 恐れても、魂の病気である「罪」については驚くほど鈍感であり無感覚でいることは ないでしょうか。それこそ石原謙先生のように、心の底から「罪」を恐れキリストに 拠り頼む、そのような生を全うする人はあんがい少ないのではないか。もしそうなら ば私たちは、キリストが世に来られたという事実をただ頭の中だけで受け止めていて 実はキリストを「救い主」とは信じていないことになるでしょう。  「神の存在を認めること」と「神を信じること」とは違うのです。自分は神の存在 は認める、しかし神を信じないということがありうるのです。私たちはどうでしょう か。自分はキリストが世に来られたことは認める。キリスト教が良いものだというこ とも認める。しかしキリストを「わが救い主」と信じることはしない。私たちは誰の 目も届かぬ心の奥底でそのような「罪」をおかしてはいないでしょうか。  改めて今朝の御言葉から学ばねばなりません。ラザロ、マルタ、マリアの三人の兄 弟姉妹は、主イエスを心から「救い主キリスト・神の子」と信じ告白していた人々な のです。主の御言葉によって養われ続けていた人々なのです。礼拝者として生きてい た人々なのです。「ベタニヤ」(病める人々の家)とはまさにこの現実の世界のことです。 そこにあって人類共通の不治の病である神に対する「罪」を贖い、その「死に至る病」 から私たち全ての者を救うために世に来られた主イエス・キリストを信ずる者として 「あなたは生きているか?」と問われているのです。だからこそラザロの臨終に際し て、ただ主イエスの御手の内にあることのみを願ったのです。生きる時にも死ぬ時に も、変らぬ唯一の「慰め主」にいます十字架の主イエス・キリストを信じ、ただキリ ストのみが死の支配を打ち滅ぼして下さることを心から信じたのです。  「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」。まことにマルタ とマリアがこのように人づてに主に語ったように、ラザロは主の愛したもう人でした。 そしてそのことは同時に、私たち一人びとりに告げられている恵みの音信(おとずれ) ではないでしょうか。使徒パウロはローマ書の8章において「キリスト・イエスにお ける神の愛から(何ものも)私たちを引き離すことはできない」と語っています。だ からこそ私たちはその測り知れぬ難病である罪の中より「主よ、ただ今、あなたが愛 しておられる者が病気をしています」と、自分のためにも、また他の人々のためにも 主を呼びまつることを許されています。「主よ、我を憐れみたまえ。我は罪人なり」と、 主にみずからの病を訴える者とされているのです。  いささか私ごとですが、私は今年で牧師になって27年目になります。27年間のあ いだおよそ百数十名の人々の臨終に立会い、また葬儀と埋葬を司式して参りました。 長患いの末に亡くなるかたもあり、昨日まで元気でいたのに突然の死を迎えるかたも あります。交通事故で亡くなったかたもあります。しかしその誰にも共通している唯 ひとつの事実がある。それはその誰もが“キリストに贖われた者”としてこの世の生 を全うし、キリストに結ばれて主のもとに召されたという事実です。それ以上に大切 なことはないのです。  何よりも主イエス御自身が、はっきりとお語りになりました。今朝の御言葉の4節 です「イエスはそれを聞いて言われた、『この病は死ぬほどのものではない。それは神 の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである』」。主が ここで「この病」と言われるのは、肉体の病気のみならず私たち人間の「罪」をさし ています。ですからここで主は約束して下さっています。それは御自身が罪よりも死 よりも強いかた(復活の主キリスト)であられるということです。  死は人生の終着点であり、その向こう側には生命はありえない。それが私たちの常 識であり事実でした。しかし主イエスを信ずる者にとって死はもはや最終到着点では なく、それは新しい生命への入口であり神の御業が現れることなのです。キリストは 「罪」という不治の病に冒された私たちの救いのためにこの世に来て下さいました。 私たちの罪のどん底にまでお降りになって、そこで私たちの死すべき存在の根底から 私たちを支え、新しい生命を与えて下さるために十字架にかかって下さったのです。 キリストの十字架こそは私たちの罪の身代わりであり、私たちはそこに死に定められ た者のよみがえりの恵みを見いだすのです。キリストに教会によって連なる私たちは、 キリストの復活の生命に連なる者たちなのです。  「この病気は死ぬほどのものではない」。この主の御言葉は、直訳するなら「この病 気はついに、彼を死に終わらせはしない」ということです。そこに(病気の中にさえ) 神の栄光が現われる、神の救いの御業が死の支配を覆い尽くす。そのように主は言わ れるのです。死のただ中に永遠の生命が現われるのです。その生命によって私たちは いま生かされているのです。教会はキリストの復活の生命の現われる場所です。ここ に、世界を支配しているかに見える罪と死の支配は完膚なきまでに打ち砕かれたこと が明らかに宣言されています。キリスト告白者である私たちは、主イエス・キリスト の永遠の勝利の証人なのです。  生まれながら目の不自由な人に「誰が罪を犯したためか」と原因を問う弟子たちに 対して「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と主ははっきり語って下さ いました。それと同じ恵みの奇跡が、死が生命に呑みこまれた出来事がいま私たちの 内に起こっているのです。御言葉と聖霊によってキリストにおける神の愛と主権のう ちを歩む私たちを、もはや死は支配しえないのです。  それゆえ、私たちはいま使徒パウロと共に告白する者とされています。ローマ書6 章21節です。洗礼によってキリストに結ばれた者の祝福です「しかし今や、あなた がたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終局は永遠の いのちである。…神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいの ちである」。主が私たちの病を癒して下さいます。私たちはこの恵みをいつも主の御手 から戴いているのです。