説   教    エゼキエル書37章1〜14節  ローマ書8章14〜16節

「聖霊による生命」

2009・05・31(説教09221274)  ペンテコステ(聖霊降臨日)主日礼拝を迎えました。この大切な日にエゼキエル書 37章の御言葉を与えられています。“枯骨復活”と呼ばれる有名な場面です。「枯骨」 とは「枯れた骨」です。そのよみがえりです。この世の中にいかに多くの無理難題が あったとしても「枯れた骨のよみがえり」ほど不可能なことはないでしょう。しかし その不可能なことを主なる神はなし給うというのです。  預言者エゼキエルは、主なる神の霊(聖霊)に導かれて、枯れた骨の満ちた広い谷 間に導かれます。恐ろしい光景でした。たぶん戦争の跡だったのでしょう。見渡すか ぎり人骨が累々と横たわり、しかもそれは「皆いたく枯れていた」というのです。言 葉もなく見つめるエゼキエルに神は驚くべき御言葉を語られます。3節です「彼はわ たしに言われた、『人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか』」。エゼキエ ルは答えます「主なる神よ、あなたはご存じです」と…。  この世界の何処にも「枯骨復活」の可能性などあるはずはないのです。エゼキエル は「いいえ、それは不可能です」と答えれば良かった。しかし彼はそこで自分の常識 や人間の可能性ではなく、神がなしたもう新たな御業を信じるのです。信仰をもって 畏れつつ「主なる神よ、あなたはご存じです」と答えるのです。神の御言葉・神の御 業に、自分の全てを明け渡すのです。  そこに「新しいこと」が起こります。それは枯れ果てた骨が「神の息」(神の霊)を 受けてよみがえり、新しい「生命に生きる人間になった」という出来事です。つまり ここで神の霊(聖霊)が私たちに新しい生命を与える「神の息」であることが明らか にされているのです。創世記にも人は「神の息」を吹き入れられ、はじめて「生きた もの」になったとあります。神は私たちに御自身の霊である「聖霊」を与えたもうこ とによって、私たちに新たな生命を与えて下さるのです。  エゼキエルはエレミヤと共に紀元前6世紀のイスラエル崩壊時代の預言者の一人で した。「バビロン捕囚」の時代に自らも捕囚の一人としてつぶさに苦難を味わった人で す。イスラエルの民の受けた絶望的な苦しみこそ「枯れた骨」と呼ぶに相応しい姿で した。まさにこの民に対して主なる神は「人の子よ、これらの骨は生き返ることがで きるのか」と問われるのです。それはここに集う私たち一人びとりに問われている御 言葉です。「あなたはいま復活の生命に生きているか」と主は問うておられるのです。  2600年前の「バビロン捕囚」の民と私たちの現代社会に共通しているのは、社会全 体に根強く蔓延った言い知れぬ絶望感と虚無感です。もちろん両者には多くの相違点 がありますが、それにもかかわらず私たちの社会に根深く蔓延る絶望感は「バビロン 捕囚」の民を支配していたものと驚くほど似通っています。本当の問題は民の心の状 態、すなわちその絶望感と虚無感にあるのです。人間が絶望するのはその時代の政治 的具体的な状況とは無関係です。むしろ物質的に豊かな今日のほうがより深刻な絶望 感・虚無感に捕らわれています。その意味で今日の私たちこそ「枯れ果てた骨」その ものなのです。生命なき死んだ存在なのです。  そこで、その現代社会の絶望感の正体を、私たちは今朝の御言葉にはっきりと見い だすのです。それは11節に現わされた人々の思いです。「われわれの骨は枯れ、われ われの望みは尽き、われわれは絶え果てる」。ここにはっきり示されているのは自分自 身にのみ向き合い、神には背を向けている私たち人間の姿です。自分の絶望の暗闇に 心奪われ、御言葉に耳を閉ざしている人々の姿です。まさにその姿をこそエゼキエル は「枯れ果てた骨」として示されたのです。  もう少し詳しくこのことを学んでみましょう。今朝の御言葉の6節に「わたしは… …あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であること を悟る」とあり、また13節には「わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あな たがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る」と 告げられています。つまり「生き返る」ということ(私たちが神の前に本当に生きた者 になること)は“神を救い主として知ること”(信じること)に関わっているのです。私 たちの復活(新しい霊の生命)は主イエス・キリストを信じ「わが主」と告白すること によるのです。その逆に、神が「わが主」であられることを忘れ、神に拠り頼む信仰 を失うとき、私たちは自分をも他人をも見失うのです。絶望と虚無に陥るのです。  エゼキエルの時代も今日の日本の社会も、その絶望感と虚無感からの根本的な「よ みがえり」(解決)は政治問題や社会構造の変化または経済の回復などではなく、ただ 神と人間との関係・神の御言葉を聴いて信じること。そして神の恵みに応えて生きる 新しい生活、神との正しい関係にあるのです。そこにしか人間の問題の本当の解決は ないのです。ドストエフスキーが言うように、人間の問題を徹底的に扱おうとするな ら、かならず神の問題へと向き合わざるをえないのです。  今朝の御言葉の特に13節で、主なる神は「あなたがたを閉じ込めている墓を、わ たしが開き、わたしが、あなたがたをその墓からとりあげる」と語られます。「墓に葬 られた存在」とは私たちことです。その「墓」とは「罪」と「死」の支配です。そこ から主は私たちを解き放って下さいます。そこに全ての人間の本当の救いと自由があ ります。キリストの十字架こそ唯一の救いです。言い換えるなら私たちの罪はキリス トの恵みを忘れて自分で自分を救おうとしてもがき苦しむことです。そのもがきこそ 絶望の正体なのです。  それは主なる神を見失い、神ではないものを神とする私たちの姿です。主なる真の 神を見失うとき、私たちは「頼むべきものは自分だけだ」と頑なに思いこみ、そこに 人間の個人主義化と神格化が始まります。エゴイズムが私たちを金縛りにします。人 生の根本問題の解決を十字架のキリスト以外に求めるとき、私たちは限りなく自己中 心になり自分をも他人をも審くほかはないのです。そして私たちの人生を偽りと幻想 が支配します。イスラエルの民と同様「われわれは滅びるばかりだ」と嘆き、「われわ れの望みは尽きた」と叫ぶばかりなのです。  ニーチェという人は神との生きた関係を失った人間が辿る道は、第一に「神への信 頼の喪失」、第二に「過大な自己評価」、第三に「絶望」であると語っています。彼は 「神は死んだ」と唱え、その結果自分が神の代理をしなければならないと考えました。 神なき世界ではあらゆる価値観が壊れます。自分の人生も何の意味も持たなくなりま す。それを食い止めるためには自分が神になるほかはありません。その結果ニーチェ はついに自らの生命を絶つほど絶望に捕らえられてしまったのです。では私たちはニ ーチェほど純粋でないから、絶望もせず、適当に自分をごまかして生きているだけな のでしょうか?。  そうではありません。いま私たちは今日の世界にはっきりと告げられている主なる 神の御言葉を聴いているのです。私たちを生かしめる本当の生命、それは私たちがど んなに自分に絶望しようとも、神は絶対に私たちを見放したまわない。私たちと共に いて私たちを捕えていて下さる。その神の恵みの真実に私たちの「真の生命」がある のです。たとえ私たちがいかに自分や世界に対して絶望しようとも、神は私たちに絶 望したまわないのです。それどころか、まさに絶望という「枯れた骨」になっている 私たちを御自身の「息」(聖霊)によってよみがえらせ、生かしめて下さるかたなので す。生命の御霊(真理の御霊)を私たちに吹き込んで下さるのです。  パウロはローマ書8章16節において「御霊みずから、わたしたちが神の子である ことをあかししてくださる」と語っています。神の愛から来る聖霊の注ぎを受けて、 私たちはイエス・キリストを「主」と告白し神と共に生きる民とならせて戴くのです。 「アバ、父よ」と祈る者とされているのです。私たちは聖霊によって、すでに絶望と 罪の支配、死の縄目から解き放たれ「神の子」とされているのです。だから聖霊によ る生命に生きるということは、永遠に変わらぬ神との絆に生きることです。  聖霊は私たちを永遠にキリストに結び合わせる絆です。私たちが自分の知恵や力で その「絆」を作るのではない。罪によって全く無力であった私たち、主なる神の御前 に「朽ち果てた骨」でしかなかった私たちが、神の賜物である「聖霊」によって教会 に連なり、キリストに永遠に結ばれた者とならせて戴けるのです。それがペンテコス テの出来事です。だからニカイア信条では「生命を与える聖霊」と告白します。初代 教会の人々も「造り主なる聖霊よきたりませ」と祈りました。この「造り主」とは「生 命の与え主」という意味です。枯れた骨をもよみがえらせ、喜びの生命をもって主の 御前に歩ませて下さる神が私たちと共におられるのです。  では、この神の「霊」によって生命を与えられた私たちの新しい生活とはどのよう なものでしょうか。ペンテコステの恵みを受けた私たちの教会はいかに生きる群れと されているのでしょうか。ペンテコステの出来事は神の霊が教会を通して一人びとり の上に「とどまった」ことです。教会をお造りになった神の霊が私たち個々の人生を 真に生かし導くものになったことです。それは私たちの人生がそのあるがままに、キ リストの愛と恵みを物語るものへと変えられてゆくことです。  だから今朝の御言葉の(エゼキエル書)37章10節に、神の霊を受けてよみがえった 人々が「生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった」とあるのです。これ は神の霊によって復活の生命に生かされた人々が、喜び立ち上がって主の御業のため に“御声を聴きつつ生きる者になった”という出来事です。烏合の衆が生き返ったと いうのではないのです。聖霊によって復活の生命を戴いた私たちは、主の御業のため に“御声を聴きつつ生きる者になった”のです。これがとても大切なことです。  それこそ礼拝者の姿勢であり、信仰の歩みそのものです。私たちはそれまでは個々 の人生を自己中心に生き、絶望と虚無の「墓」に死んでいました。その私たちが神の 聖霊を受けて新たにされ、ばらばらであった人生の物語が各々の個性あるがままにひ とつにされて、キリストの愛と恵みを物語る器とされたのです。大いなる神の救いの 出来事の中に受け止められているのです。まさにそのことが「はなはだ大いなる群衆 となった」(御声を聴きつつ生きる者になった)ということです。この葉山教会におい て、神のなさる新しい御業のために隊列を組み、主の御名を証する私たちとされてい るのです。絶望する人々に真の希望を語り、喜びを物語る群れとされているのです。  私たちは、自分は本当に小さな取るに足らぬ僕であり、何ひとつ主のお役に立つこ となどできないと思うかもしれません。そうではないのです。私たちはあるがままで、 既に神の御手にある「勝利の民」とされているのです。私たちの弱さの中にこそ最も 強く神の力が働いて下さるのです。聖霊なる神が御業を現わして下さるのです。そし て神の民として御声を聴きつつ生きる私たち、礼拝者として生きる私たちを、神は大 いなる出来事(神の国の全き到来)の歴史へと導いて下さいます。 神が御自分の救いの物語、いま聖霊によって全世界に行なわれている救いの出来事 の中に、私たちの小さなわざをも用いて下さるのです。だから私たちは、信仰の勇気 と平安をもって主の御跡に従って参ります。主は言われます「われすでに世に勝てり」 と。あなたの日々の歩みの全てが永遠の御国に繋がっている。だから勇気を出しなさ いと…。十字架の主が聖霊によっていつまでも私たちと共にいて下さるのです。