説   教    詩篇46篇1〜11節   ヨハネ福音書10章40〜42節

「十字架への道」

2009・05・24(説教09211273)  私たちは人生の中で悩みや苦しみに出遭う時、目の前を塞がれたような思いがしま す。計画や願いが適えられず、かえって逆の結果を生じたとき、自分はもう駄目だと 落ちこみ前途暗澹たる思いに捕らわれるのです。しかしそのような時、自分の足元を 見るだけでは決して解決にはなりません。何処に進めば良いかいたずらに迷うばかり です。むしろそこで本当の解決の糸口となるのは事柄の本筋を見極めることです。そ もそもの出発点に立ち帰り、改めて自分の行くべき道を再確認することです。  山で道に迷ったとき、いちばん危険なのは迷ったまま進み続けることです。勇気を 出して来た道を引き返すことが必要です。そして自分の行くべき道を改めて確認する のです。そうすることではじめて目的地を見出すことができるのです。私たちの人生 行路においてはなおさらではないでしょうか。  われらの主イエス・キリストは、ゴルゴタの十字架への道を歩み続けたまいます。 すでに私たちはこのヨハネ伝9章から始まる一連の出来事によって、主イエスの歩み が加速度をますように十字架へと向けて速められて行くのを見ました。エルサレム神 殿の祭司やパリサイ人らとの対立は決定的なものになり、いわば彼らの殺意と敵意に 満ちた計略が主イエスを死地に追いやって行く、そのような切迫感に溢れた数々の出 来事が主イエスを取り巻いていたのです。  そのような中で主イエスは、いまひとたび御自分の歩みの出発点へと立ち戻られる のです。事柄の最初を見きわめたもうのです。それが今朝の御言葉ヨハネ伝10章40 節に記されていることです。「さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨ ハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた」。  スコットランドの神学者ウィリアム・バークレーはこの10章40節について、それ は「嵐の中の静けさのようだ」と語っています。まさに主イエスが帰って行かれた事 柄の最初にこそ、限りない平安と慰めそして喜びと力がありました。それは父なる神 の御言葉です。それゆえ主イエスが「ヨルダンの向こう岸」に「滞在」されたのは、 人々の「罪」から来るところの危険を避けるためではなく、まさにその人々の「罪」 に対して御言葉の主権をもって立ち向かわれるためです。だからこの「滞在」とは“御 言葉と共にあり続けられた”という意味なのです。主イエスはどのような時にも父な る神とともにあられ、神の御言葉と共にあられたのです。  それでは、主イエスが立ち帰られた御言葉とはいかなるものであったでしょうか。 私たちはそれをマタイ福音書の3章16節と17節とに見ることができます。「イエス はバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御 霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があっ て言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」。  これは、ヨルダン川において主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた 直後に起こった出来事です。主イエスは“真の神の真の独り子”であられます。ニカ イア信条に告白されているように「まことの神からのまことの神」であられます。だ から主イエスは“罪の赦しのための悔改めのバプテスマ”などお受けになる必要はあ りませんでした。罪なき神の御子に「罪の赦し」は不必要です。だからバプテスマの ヨハネ自身「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわた しのところにおいでになるのですか」と主イエスに訊ねたのです。  しかし主イエスは「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいこと を成就するのは、われわれにふさわしいことである」とお答えになりました。この「わ れわれ」というのは、主イエスとバプテスマのヨハネのことと言うより、むしろ三位 一体なる父・御子・御霊の永遠の交わりのことを指しておられるのです。つまり主イ エスは、私たち全人類の罪の贖いという壮大無辺なる神の事業をなされるにあたり、 まず何よりも、御自分が罪人なる私たちのもとに来られ、私たちと全く同じ立場に身 を置かれることによってその事業をお始めになるのです。それが主イエスの洗礼の出 来事なのです。それこそ三位一体なる神の永遠の御心に「ふさわしいことである」と 言われたのです。  キェルケゴールという哲学者は「神が御子イエス・キリストにおいて人となられた。 もしわれわれがこの出来事に驚かないのなら、この世界にわれわれが驚くべきことは 何一つないであろう」と申しています。永遠にして聖なる神が「罪人」にして死すべ き私たちと同じ立場になられた…。この出来事こそ真に驚くべき唯一の出来事ではな いでしょうか。そしてニカイア信条制定の立役者アタナシウスは「この受肉の出来事 こそこの世界の救いの根拠である」と語りました。神が人となられた出来事それ自体 が私たちの「救い」そのものだと言うのです。キリストの御降誕の出来事(クリスマス) は主が私たちと全く同じ立場に来て下さったことだからです。そこに全世界の人々の 救いがあることを私たちは知る者とされているのです。  この出来事を使徒パウロは、ピリピ人への手紙の2章6節以下にこのように告げて います「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事 とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられ た。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死 に至るまで従順であられた」。これは初代教会の讃美歌の一節であったと言われている 言葉です。私たちは人間でありながら、おのれを富ませようと欲し、神にまで自分を のし上げようとするのです。それが「罪」の本質です。ところが、まことの神は私た ちの「罪」を赦し贖い、御自身の生命を私たちに与えるために「神と等しくあること を固守すべき事とは思わず」かえって「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人 間の姿になられた」のです。それがイエス・キリストのお姿なのです。  かつて折口信夫という国文学者がいました。釈超空という名で歌人としても有名な 人です。民俗学の権威・柳田国男と並び称される学者です。この人は生涯独身でした が、学問上の後継者として期待された弟子の一人を養子に迎えました。ところがこの 大切な一人息子が太平洋戦争で戦死するのです。その報せが折口志信のもとに届いた とき、彼は箱根の山中に籠もって一つの歌を詠みました。その歌がずいぶん後になっ て彼が亡くなったあとで弟子たちの手によって書斎から発見されました。このような 歌です。「天地に人を愛する神ありてもし物言わば吾のごとけむ」。 この歌の意味はこうです。もしもこの世界に真実に人を愛する神がおられ、そして その神が言葉を語られるならば、いまの自分のように物を言うであろう。その「いま の自分」とは何かと言えば、愛する独り子を失った父親なのです。折口志信は民俗学 の権威ですから日本の神々については古事記や万葉集はもちろん、仏教や神道に至る まで知り尽くしているのです。しかしこの日本のどの神々も愛するわが子を失った親 の悲しみに共鳴してくれるものはない。人を真実に愛する神はいない。そのように折 口志信は語っているのです。彼は洗礼こそ受けませんでしたが、晩年にはキリスト教 に傾倒しました。その意識の奥底にはいま申したような、日本の宗教と神々に対する 批判があったと思うのです。  まさに、主イエス・キリストの父なる神こそ、その愛する独り子であるイエス・キ リストをこの世界にお与えになり、その十字架の死によって私たち全ての者の「罪」 を贖って下さったおかたなのです。真に人を愛したもう神はその限りない愛のゆえに 独り子を死なしめたもうたのです。神の外に出てしまった私たちを救うために、神み ずから神の外に出て下さった。罪人なる私たちを贖うために、神みずから神ではない ものになって下さった。それがキリストの十字架の出来事です。まさにキェルケゴー ルが言うように「この出来事に驚かなければ、この世界に何一つ驚くべきことはない」 ほどの恵みの出来事なのです。それを私たちはイエス・キリストにおいて知らしめら れているのです。  ヨルダン川において、ヨハネから洗礼をお受けになった主イエスに「これはわたし の愛する子、わたしの心にかなう者である」と父なる神の御声がありました。この世 界の救いのため、私たちの罪の贖いのために、独り子を世にお与えになった父なる神 の愛に、罪人と同じ洗礼を受けることによってお答えになった主イエス。まさにそこ から、ゴルゴタの十字架への歩みをお始めになった主イエスを、父なる神みずから「こ れはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と祝福なさったのです。まさ にこの父なる神の祝福の御言葉のもとに主イエスは立たれたのです。私たちをもそこ に立たしめて下さるのです。  主は私たちをもその同じ祝福のもとに生きる者として下さいました。父なる神は私 たちのあらゆる「罪」にもかかわらず、まさに「十字架の死に至るまで」従順であら れることを決意された主イエスによって、その主イエスの御功と御恵みによって、私 たちをそのあるがままに神の「愛する子、その心にかなう者」として下さったのです。 私たちは神に愛されるべき者でも、その御心にかなう者でもありえません。しかし私 たちのために、私たちの全ての罪を担われ十字架へと歩んで下さった主イエスの御功 によって、まぎれもないこの私たちが、父なる神の限りない愛と主権のもとを歩む新 しい人生を与えられているのです。そこに私たちの変わらぬ幸いと平安があり、慰め と喜びと力があるのです。  それならば私たちは、主イエスのもとに立ち帰ることにより、幾度でも人生の正し い行路を見いだすのです。それこそ今朝の御言葉に告げられた、主イエスの立ち帰ら れたその場所です。すなわち父なる神の御言葉のもとです。それはキリストの御身体 なる教会です。礼拝者として生きる新しい生活です。私たちにも「ヨルダンの向こう 岸」が与えられているのです。それが主の教会なのです。キリストの復活の勝利の御 身体なる教会に連なり、御言葉を聴きつつ礼拝者として生きる人生こそ、不断の勇気 と希望、慰めと平安を、主の御手から受けつつ生きる新しい生活なのです。  そして今朝の御言葉の41節以下にはこうも告げられています。「多くの人々がイエ スのところにきて、互に言った、『ヨハネはなんのしるしも行なわなかったが、ヨハネ がこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった』。そして、そこで多くの者が イエスを信じた」。  理論や思想は議論の対象となっても、「しるし」すなわち主イエスの御業は議論の対 象とはなりません。喜びが議論とはなりえないのと同じです。主イエスの出来事は人々 をして沈黙せしめ、パリサイ人らのあらゆる殺意と敵意をすら超えて、人々に主イエ スを「神の子・キリスト」と信ずるまことの信仰を与えるのです。だからこそ「そこ で多くの者がイエスを信じた」のです。多くの人々が「これはわたしの愛する子、わ たしの心にかなう者である」との、神の大いなる祝福に生きる者とされたのです。そ してここに集う私たち一人びとりをも、主は同じ祝福のもとにいま生きる者として下 さいます。私たちもいま「主イエスを信ずる者」とされているのです。