説   教    詩篇82篇1〜8節  ヨハネ福音書10章31〜39節

「キリストの御業」

2009・05・17(説教09201272)  「主イエスの御業」はどのようなものであったのでしょう。昔はよく「主イエスの 事業」と言いました。「事業」と言っても、会社や組織を興すことではありません。主 イエスがなさった事業(御業)はこの世のどのような事業とも比較できないものです。 この世のどのような事業にも、始まりがあると同時に終わりがあります。しかし主イ エスのなさる事業には終わりはありません。この世の事業には限界があります。しか し主イエスのなさる事業には限界はなく、それは全ての人を神の国へと導くまで続く ものです。私たちはこの主イエスの「事業」について、今朝の御言葉を通して福音を 聴いて参りたいと思います。  今朝の御言葉の31節に「ユダヤの人々」とありますのは、パリサイ人(パリサイ 派の律法学者)たちのことです。この人々が主イエスを「打ち殺そうとして、また石 を取りあげた」というのです。すでに幾度もパリサイ人らは、主イエスの命を奪おう として虎視眈々と画策していましたが、ここにまたもや絶体絶命の事態が起こるので す。今や彼らの手には大きな石が握られているのです。  初代教会において、有名なステパノの石打ちの刑がありました。ステパノという人 はエルサレム教会の執事でしたが、わざにも言葉にも、力と愛に満ちた素晴らしい神 の僕でした。しかしこのキリストの証人を、パリサイ派の律法学者たちは、キリスト を「神の子・救い主」と告白した咎で石打ちの刑に処したのです。  しかし人々に石で打たれながら、ステパノは天を仰いで祈りました。そして主イエ スが父なる神と共に栄光の御座に座しておられるのを見ました。ステパノは自分を石 で打つ人々のために赦しと祝福を祈りながら息絶えました。そのとき石打ちの下手人 たちの荷物の番をしていた青年こそ、のちの使徒パウロとなったパリサイ人サウロで した。  大切なことは、このサウロの目にステパノの殉教の死は「眠り」と映ったことです。 事実、使徒行伝7章60節は「こう言って、彼(ステパノ)は眠りについた」と記し ています。これはパリサイ人サウロの心に焼きついたステパノの殉教の出来事です。 「眠り」とは、終わりではないということです。  正義感と怒りとに燃えてステパノを石打ちに処した者たちのわざは、終わるのです。 それは、神の国において何の価値も持ち得ないのです。しかし、その石打ちの刑を受 けつつ人々の罪を赦し、祝福して息絶えたステパノの行為は、決して終わることがな く、永遠なる御国においてこそその輝きをまし、主の教会によって受け継がれてゆく のです。この強い印象を心に記されたサウロは、やがてダマスコへの途上において復 活の主イエス・キリストと出会い、主の御声を聴くことによって、みずからも主を信 ずる者へと変えられてゆくのです。パリサイ人サウロの歩みを捨てて、キリストの使 徒パウロとしての新しい歩みが始まってゆくのです。  ステパノは、キリストの「事業」に携わる者とされたゆえに、もはや死の力もその 歩みを止めることはできませんでした。ただキリストの事業だけが、罪と死の支配を 打ち破り、私たちに永遠の生命を与える唯一の祝福であり力なのです。パリサイ人サ ウロもステパノの殉教を通してその祝福に与かる者とされたのです。死んだ律法に仕 えるパリサイ人の歩みが、生きた福音に仕えるキリスト者の歩みに変えられたのです。  そこで今朝の御言葉に戻りましょう。主イエスを石打ちの刑に処し亡き者にせんと したパリサイ人らの企みに対して、主イエスは静かに、しかし毅然として言われまし た。「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざ のために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。  ここで主が言われることの中心は「父によるよいわざ」という言葉にあります。「父 によるよいわざ」とは「父なる神と共に行なっている救いの御業」という意味です。 つまり主イエスは、御自分の御業がいつも父なる神との共同作業であることを明らか になさっておられるのです。言い換えるなら、主イエスを憎み殺そうとすることは、 父なる神を憎み殺そうとすることと同じなのだということです。  ところが、パリサイ人らにはその意味が理解できませんでした。それどころか続く 33節に、実に身勝手な理屈を並べて自分たちの行為を正当化しようとしています。 「ユダヤ人たちは答えた、『あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからでは なく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としている からである。』」。  「よいわざ」をしたことが死に価する罪なのではないとは、なんという支離滅裂な 理屈でしょう。「よいわざ」は「罪」であるはずはないのです。しかもこの「よい」と いう言葉は「神に喜ばれる」という意味です。それなら「よいわざ」とは「神に喜ば れるわざ」です。それが「罪」であろうはずはありません。そこでパリサイ人らは、 主イエスが行った「よいわざ」によっては主イエスを殺害できないので、そこに“神 を汚す罪”を持ち出すのです。もちろん「よいわざ」をしておられる主イエスが、“神 を汚す者”であるはずはありません。むしろ彼らがここで持ち出したのは、主イエス が自分を神の子だと偽っているという偽証罪でした。すなわち33節に「あなたは人 間であるのに、自分を神としているからである」と彼らが語っていることです。  「あなたは人間であるのに」とは、パリサイ人らが勝手に決めつけたことです。な に何よりも主イエスは同じ10章の25節において「あなたがキリスト(神の子)であ るなら、そうとはっきり言っていただきたい」と言うパリサイ人らに対し「わたしは 話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているす べてのわざが、わたしのことをあかししている」と言われました。  主イエスが神の子であると信ずべき「しるし」は、主イエスがなさっておられる「す べてのわざ」に現れているのです。それなのになお主イエスをキリストと信じようと しないのは、彼らパリサイ人らの心が神の言葉に対して閉ざされていたからです。閉 ざされているとは“信仰がない”ということです。神の言葉を受けてもそれを信じる ことをしないのです。「論語読みの論語知らず」と申します。論語についていかに多く のことを知識として知っていても、その教えを行なっていないなら空しいのです。そ れと同じようにパリサイ人らは「聖書読みの聖書知らず」になっていました。聖書を 神からの語りかけ、すなわち「福音」として聴き、受け入れ、信じることをしなかっ たのです。それこそ25節に「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしな い」と主イエスが言われたことです。そこにあらゆる律法主義の、否、私たち人間の 罪の姿があるのです。  そこで主イエスは、パリサイ人らが拘る聖書の御言葉をお用いになって、彼らの根 本的な誤りを指摘して下さいます。それは旧約聖書・詩篇82篇6節の御言葉です。 すなわち今朝の御言葉の34節以下「あなたがたの律法に『わたしは言う、あなたが たは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれ ておるとすれば(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世に つかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは 神を汚す者だ』と言うのか」。 パリサイ人たちはあらゆる機会を捕えて主イエスを殺害しようと付け狙っていまし たが、そのような彼らの悪だくみに対しても主イエスは決して、それが悪だくみであ るゆえに排斥したり攻撃したりすることなく、常に限りない愛と恵みをもって彼らに 相対されました。たとえあからさまな敵意と殺意をもって近づいてくる者であっても、 主イエスは常に愛をもってその人を受け入れ、支離滅裂なその論理に対しても、あた かも親が幼い子供を諭し導くように、その誤りを丁寧に指摘され、助け導いて、福音 の真理を受け入れることができるように心を砕いて下さいました。それが主イエスの なさりかたです。あのイスカリオテのユダに対してさえ、主は彼を「友よ」とお呼び になったのです。  今朝の御言葉のうちにも私たちは、その主の愛の御心をはっきり汲み取ることがで きます。特に37節以下の御言葉です「もしわたしが父のわざを行なわないとすれば、 わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしを信じな くても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、わたしが父 におることを知って悟るであろう」。  主は言われるのです。私が語った言葉や御業、それら全てをあなたがたが見て、そ れが天の父なる神の御業でないというのなら、私を信じなくてもよい。しかしもしそ れが神の御業であると思うのなら、たとえ私を信じなくとも、そのわざそのものを信 じて、神に感謝と讃美と栄光を帰する者になりなさい。そのように主は言われるので す。主イエスは少しも御自分の栄光・御自分の誉れをお求めになりません。主が求め ておられるのは、福音を信ずることにより私たちが救われることたけです。私たちの 罪が贖われ赦されて、私たちが新たな永遠の生命によみがえることだけです。ただそ れだけを主は願っておられる。パリサイ人らに対しても少しも変りはないのです。  主イエスは今朝の御言葉を通して、パリサイ人らを福音の真理へと招きたまいまし た。主の切なる願いは彼らの救いと生命です。彼らがまことに神を信じ、御言葉によ って新たにされ、罪に打ち勝つ新たな生命に生きる者になることです。キリストの使 徒とされたパウロは、そのためならば、すなわち同胞であるイスラエルの救いのため なら、たとえこの身が呪われて神から離されても構わないと申しました。燃えるごと き愛と熱心をもってキリストの恵みを証する生涯を、殉教の死にいたるまで全うした のです。エルサレム教会の執事・殉教者ステパノを通して現されたキリストの事業を、 パウロもまた受け継ぐ者とされたのです。パウロだけではありません。初代教会の使 徒たちにはじまり、二千年後の今日に至るまで、あらゆる時代のあらゆる場所で、キ リストの事業が受け継がれてきたのです。  それは御言葉を宣べ伝え、教会を形成し、キリストの御業を、福音を、全世界の人々 に宣べ伝えることです。この世界を今もなお支配しているかのように見える、あらゆ る罪の力に対して、キリストの十字架が、決定的に、最終的に、そして永遠に、勝利 したもうたことを宣べ伝えることです。行くべき道を見失い、目的地を失なった人類 に対して、まことの主がいつも「よい羊飼」として、御言葉と聖霊によって導いてお られることを宣べ伝えることです。希望を失い、絶望に捕らわれ、死の支配の下にあ るすべての人々に、キリストに結ばれ贖われた者の、真の幸いと希望、生命と祝福を 宣べ伝えることです。この「キリストの事業」にまさる偉大な事業はありません。私 たちは今まさにこの主の御身体なる教会に連なることにより、そのキリストの事業に 心を合わせて参加する者とされているのです。  使徒パウロは、ローマ人への手紙の第15章5節に、ひとつの勧めを書き記してい ます。「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互 に同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イ エス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」。  人間というものは、みな互いに驚くほどものの考えかたや感じかたが違います。十 人十色どころか千人千色なのが人間です。そして現代という時代は、ますます人間の 心がばらばらになり、孤立し、悲しみと絶望を深めて行く時代なのです。しかしその ような時代にあって、私たちはこの復活の主の御身体なる教会に招かれ、生命なるキ リストに連なって生きる者とされている。そこで私たちはキリストにあって、互いに 同じ思いと目標を抱く者たちとされているのです。それは「心を一つにし、声を合わ せて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめる」心です。礼拝者の心 です。  そして、そこでこそ、私たちの人生そのものが、互いに個性も多様性もあるがまま に豊かに主によって用いられ生かされて、キリストの事業に仕える者とならせて戴け るのです。ほかならぬ私たち一人びとりがその者なのです。  かつて訪ねた高知教会で聞いたことです。昔、片岡健吉という長老がいました。自 由民権運動の創始者で衆議院議長なども務めた人です。同じ教会の中に政治上は正反 対の立場に立つ人がいました。しかし礼拝を終えて帰るとき、この二人は堅い握手を 交し合うのが常であったと言います。「あなたと私とは政治の上では正反対の立場であ るが、お互いにキリストの栄光のため、そしてこの国のために、大いに励もうではな いか」そう言って握手し互いの健闘を祈りつつ別れたというのです。ただ教会だけが このような真の交わりを育む場所なのです。私たちはそのことを、今朝の御言葉と合 わせて神の祝福として心に留めたいと思います。  終わりに、今朝の御言葉の最後の39節には主イエスが、捕らえようとするパリサ イ人らの手をのがれて「去って行かれた」ことが記されています。これは十字架への 道をまっしぐらに歩むためです。この「去って行かれた」とは彼らから離れたことで はなく、十字架へと向かわれることによって彼らの罪を担われたことです。そして主 はあの十字架において全ての罪に勝利したもうたのです。その主の勝利の御手に、い ま私たちは教会によって堅く結ばれ、主イエスの御業に仕える者とされているのです。