説    教   エレミヤ書25章34〜38節  ヨハネ福音書10章22〜30節

「父なる神の御名」

2009・05・10(説教09201271)  今朝の御言葉であるヨハネ福音書の10章22節以下には、二つの大切な事柄が記されて います。第一に、神の恵みの御手に守られている羊(私たち)は神の所有であるというこ と。つまり私たちは、神の変らぬ御支配のもとに生きる者とされている。決して滅びるこ とのない者にされている、という約束です。第二に、御子なる主イエス・キリストと御父 なる神は一体であられる、ということです。  そこで、この二つの事柄はいっけん別々のことのように見えますけれども、今朝の御言 葉をよく読んで参りますと、実は一つの恵みの出来事の二つの側面を現しているのだとい うことがわかります。すなわち、御子なる主イエスと御父なる神が「一体であられる」と いうことが、私たちが常に神の御支配のもとにあり、神の御手の内にある「羊の群れ」と されている保障なのです。  このことを、特に私たち改革派の教会では「神の選びの恵み」という言葉で言いあらわ してきました。それは宗教改革者カルヴァンが“キリスト教綱要”という重要な本の中で 繰り返し語っていることです。主イエス・キリストを救い主・神の子と信じ告白している ことが、私たちが神の恵みのご支配のもとにある「羊の群れ」とされていることの確かな 揺るぎなき“しるし”なのです。この確かな“しるし”によって、自らをもまた他者をも、 そして世界をも新たに見出す者とされているということ。ここに私たちキリスト者の変わ らぬ幸いと喜びがあるのです。  このことは、言い換えるなら、御父なる神は御子なるイエス・キリストを通して私たち をお選びになったということです。それは御父なる神と御子イエス・キリストとが一体で あられることによるのです。御父なる神の御心は完全に主イエス・キリストの御心と一致 しています。主イエスがなさったことはすべて父なる神の御心を行ったことです。私たち は主イエスの御言葉によって父なる神の御心を知り、主イエスの御業を通して父なる神の 救いの御業を見る者とされているのです。  エルサレムの「宮きよめの祭」は毎年12月に行なわれるものでした。新共同訳では「神 殿奉献記念祭」と訳されています。この祭のとき、あるユダヤ人たちが「ソロモンの廊」 を歩んでおられた主イエスを「取り囲んで」尋ねました。今朝の御言葉の24節です。「い つまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとは っきり言っていただきたい」。  「あなたは、キリストなのか」。すでに私たちはこれと同じ問いをパプテスマのヨハネか らも聞きました。しかし「はっきり言っていただきたい」というのは、証拠を示してほし い、“しるし”を見せてほしいという詰問です。すでに主イエスは何度も御自身が神から来 た者(キリスト)であることを示しておられます。ただ人々が(私たちが)信じようとし なかったのです。信じるどころか、多くの人々は主イエスに対する不信仰を顕わにしたの です。ですから主イエスは続く25節にこうお答えになります。「イエスは彼らに答えられ た、『わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってし ているすべてのわざが、わたしのことをあかししている』」。  どんなに優れた事柄も、理解しようとする心のないところにその真価は明らかにされず、 どんなに素晴らしい芸術も、感受する心のないところには単なる符号の羅列にすぎません。 どんなに多くの電波が飛び交っていても、局番を合わせなければテレビは映らないのです。 主イエスは私たちに御言葉を正しく聴く「信仰」を求めておられます。否、それ以上に、 もし私たちが主イエスの御言葉を正しく聴き、また主イエスがなされた御業に接するなら、 私たちは主イエスのことを心から「わが神・救い主」と信じ告白せざるをえなくなるので す。それ以外の仕方で主イエスに接することはできなくなるのです。「イエス・キリスト」 という御名そのものが私たちの信仰告白なのです。  それゆえにこそ、主はこのように言われます「『あなたがたが信じないのは、わたしの羊 でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼 らはわたしについて来る。わたしは彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも 滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はいない』」。  主がここにはっきりと示しておられるのは、御父なる神の“選びの恵み”です。神は私 たちを御子イエス・キリストによって、何の価もないままに選んで下さり、御自分の民、 御自分の羊の群れとして下さいました。羊の群れは一人の羊飼の声に導かれその声を聴く ことによって生きるのです。羊飼のない羊の群れは生命を失った群れです。羊は羊飼の声 を聴き、その声に従ってこそ「生きる」からです。  しかし、主イエスの御声ではなく、それ以外の声に従おうとする人々がいました。私た ち人間の唯一の羊飼は神の御子イエス・キリストあるのみです。すでに主が語られたよう に「羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊を捨 てて逃げ去る」のです。この「雇人」というのは「主」であるかのように見えますが、実 は雇人自身が誰かの僕なのです。そして愚かにも、主イエスの御声ではなく、「雇人」でし かない他の者の声に私たちは耳を傾け、聞き従ってしまうのです。神ならぬものを神とし、 救い主でないものに拠り頼むのです。キリストに従う道よりもこの世の幸いを選ぶのです。 御言葉に養われるよりも自分をまず富ませようとするのです。絶対的なものを相対化し、 相対的なものを絶対化してしまうのです。その結果、魂の果てしのない放浪が始まるので す。人類の歴史は神を見失った魂の放浪の歴史なのです。  このような私たちに、主イエスははっきりと語りかけて下さいます。同じヨハネ伝の15 章16節です「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだの である」と。もし私たちが自分の力や自分の意志でキリストを「選んだ」のだとしたら、 それほど不確かな頼りにならぬものはないでしょう。もし私たちの信仰や私たちとキリス トとの関係が、私たち自身の素質や知恵や経験に基づくものであるとしたら、そのような 信仰はいつでも再び、私たちの弱さによって崩れたり損なわれたり失われてゆくほかはな いでしょう。  しかし私たちに与えられている信仰は、また救いの事実は、そのようなものではないの です。私たちの力や意志などによってではなく、まずキリスト御自身が測り知れぬ恵みに よって私たちを「選び」御自分のものとして下さった「恵み」なのです。「わたしがあなた がたを選んだのである」と主ははっきりと語って下さいました。それならば私たちに求め られていることは、徹底的にこの“選びの恵み”を信じることです。自分を省みて一喜一 憂するのではなく、私たちの救いのために十字架にかけられ給いし主イエス・キリストを 仰ぎ続けることです。  大切なことは、いつも今朝の御言葉の28節の主イエスの約束に立ち帰ることです。「わ たしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、 彼らをわたしの手から奪い去る者はない」。この主のたしかな御声が私たち全ての者に与え られています。あたかも凶暴な狼の牙からまことの「良き羊飼い」が生命をかけて自分の 羊を守るように、神から遣わされた主イエス・キリストは私たちを罪と死の荒狂う支配の 力から贖い生命を与えるために、あらゆる御苦難を担われ十字架への道を歩んで下さった のです。  そして主はまさに、その御自分の十字架の死をさし示しつつ、そこに私たち全ての者の 救いと生命があることを明らかにして下さいました。「わたしはよい羊飼であって、わたし の羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」と十字架の恵みによって語って下 さいました。今朝の御言葉においても同様です。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」と 言われたことも主の十字架の恵みのみをさし示しているのです。だから主は「わたしは彼 らを知っており、彼らはわたしについて来る」と語られたのです。キリストの御言葉が、 福音の真理が、否、キリスト御自身が、私たちをあらゆる罪の支配から甦らせ、まことの 生命(永遠の生命)を与えるのです。  主イエスが唯一のまことの羊飼であられるとき、私たちはそこに本当の幸いと本当の力 を与えられるのです。主イエスの御声を聴き主イエスに従う私たちに、罪はもはやいかな る力をも持ちえません。それゆえ主は約束して下さいました「だから、彼らはいつまでも 滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」と。この「いつまで も」とは「永遠に」ということです。主は私たちを、私たちが受け継ぐべき永遠の御国に 至るまで、堅く保ち、守り、導いて下さいます。これと同じことを使徒パウロはローマ人 への手紙8章37節以下において次のように語っています。「しかし、わたしたちを愛して 下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるもの も、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスに おける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。  私たちはしばしば思うのではないでしょうか?「自分はもしかしたら神に選ばれた者で はないのかもしれない」。「このような小さな、汚れた、醜い自分を、神はお選びになりた もうはずはない」と。しかし信仰とは“十字架の主を仰ぐこと”です。「わたしたちの主キ リスト・イエスにおける神の愛」の前に、私たちは誰も「自分は神の御手の内にある羊で はないかもしれない」などと言うことはできません。「自分は神に選ばれた者ではないかも しれない」と疑うことはできないのです。「どんな被造物も」つまりこの世界のいかなる力 も、キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。いかなるこ の世の力にもまさる確かな救いの力に私たちは守られ支えられているのです。  もし私たちが自分自身を見つめるなら、そこには救われえない人間の現実があるのみで す。そのとき私たちの思いは、思い上がって他者を審く傲慢な心になるか、それとも自分 ほど愚かな惨めな人間はいないと絶望するか、いずれかでしかありません。そのいずれも キリストに結ばれた者の心ではありません。  キリストは私たち自身からさえも、私たちを解き放って自由にして下さいます。実は自 分というもの、自我というものが、私たちを支配している最も強情な主人なのです。罪の 目的は私たちを“キリストにおける神の愛”から引き離すことです。私たちを「神の愛」 に気がつかない者にしてしまうことです。キリストが世に来られて十字架を担われたこと など、あたかも無かったことのように思わせることです。まことの羊飼、真の主人の御声 を失った人間の魂の虚空の中で、罪が勝歌を歌います。「ここにも一人、神の御支配から離 れた惨めな人間がいる」と…。あたかも群れからはぐれた小羊がたちまち猛獣の餌食とな るように、まことの主なるキリストから離れた私たちを罪と死はたちまち捕らえて餌食と し、永遠の滅びに引き込もうとするのです。  そのような私たちの寄る辺なき滅びの現実のただ中に、まことの神・救い主として、主 イエス・キリストは来て下さいました。主は「わたしと父とは一つである」と宣言して下 さいます。永遠の昔から御父なる神と御子イエスとは一体であられる。しかもこのかたが 私たちを救うために、一体であられる御父より離れ人として世に来て下さいました。永遠 なるかたが有限なものとなり、不死なるかたが死ぬべき者となり、聖なるかたが罪人であ る私たちと共に歩み、私たちのあらゆる破れの現実のただ中に、十字架を担うかたとして 来て下さったのです。御子なる神みずから、神の外に出てしまった私たちを救うために、 父なる神の外に出て下さったのです。神が神ではない形をとって、神にあるはずのない死 を担うかたとしてこの世界に来られたのです。  まさにこの十字架の主イエスによって、私たちはただ信仰によりあるがままに神との永 遠の交わりへと招かれ、教会に連なることによってキリストの復活の生命にあずからしめ られ、神の御国の民とされ、神の御手の内にある羊の群れとされて、新しい歩みをはじめ てゆきます。今朝のこの礼拝においてもまた福音に押し出されてそれぞれの信仰の歩みを 始めてゆきます。キリスト・イエスにおける神の愛から、なにものも私たちを引き離すこ とはできないのです。