説    教  詩篇119篇105〜112節  ヨハネ福音書10章19〜21節

「分争の世界と主イエス」

2009・05・03(説教09191270)  宗教はすべて平和を求め、平和を実現するものだと言われます。異議をさしはさむ 人はいないでしょう。しかし理想だけを掲げていかに「平和」を叫ぼうともそれは無 意味です。大切なことは、現実の社会の分争や対立の中にいかに真の平和を確立する かではないでしょうか。 聖書をよく読んで参りますとき、主イエスを取巻く人々の間にも分争があった事実 を知ります。いや、主イエスはまさに理想を掲げて現実を審くのではなく、分争と対 立の罪のただ中に来て下さった真の「平和の主」であられます。だから聖書は主イエ スの周囲にときに激しい分争の光景があったことを告げているのです。  今朝のヨハネ伝10章19節以下はその代表的な個所です。ここには「これらの言葉 を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた」と記されています。主イエス が語られた御言葉によって、ユダヤの人々の間に「またも分争が生じた」というので す。「またも」とあるからには、これ以前にも同じような分争があったのです。しかも 続く20節を見ると、その分争はかなり深刻なものだったようです。ここには二つの 対立するグループの姿があります。一方の人々は主イエスのことを「悪霊」に取り憑 かれた者だと非難しています。「悪霊」とは「悪魔」とほぼ同じ意味の非常に強い誹謗 の言葉です。その一方でいやそうではない、神から遣わされた者でなければどうして 奇跡を起こせるだろうかと主張する人々がいたのです。 すなわち20節「『彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたが たはその言うことを聞くのか』。他の人々は言った、『それは悪霊に取りつかれた者の 言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか』」。  こうした分争が生じたきっかけは、主イエスが神をご自分の「父」とお呼びになり、 その父なる神の御心のままにご自分の生命を捨てるために世に来たことを明らかにさ れたことでした。同じ10章の17節以下の御言葉です。「父は、わたしが自分の命を 捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るため である。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれ を捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。 これはわたしの父から授かった定めである」。  ここで主が明らかにされたことは二つの事柄です。第一に父なる神は、独り子なる 主イエスを世に与えて下さったほどに私たちを愛しておられるかただということ。そ して第二に主イエスは、その父なる神の愛の御心のままにご自分の意志で十字架への 道を歩まれるかただということです。私たちを極みまでも愛したもう父なる神と、そ の父なる神の愛の御心をご自分の心とされて、私たちのために罪の贖いの道(十字架 への道)を歩まれる主イエス・キリスト。ここに私たちは神の限りない救いの出来事 を改めて知らされるのです。  ところが、その救いの御心を告げ知らされた人々が、こともあろうにそこで烈しい 対立を起こし分争を始めるのです。それは譬えて言うなら、まぶしい光に照らされた 物体が暗い影の部分を明らかにするのに似ています。神の御言葉の光に照らされた 人々は、その光が強いだけ、隠れた影の部分をも顕わにするのです。言い換えるなら 御言葉によって人間の本当の罪の姿が明らかにされるのです。  主イエスは「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、 つるぎを投げ込むためにきたのである」と言われました。マタイ伝10章34節の御言 葉です。大きな逆説のように私たちには聴こえます。「つるぎ」と主イエスの「福音」 とは調和しないように思うからです。しかし主イエスはまさに「つるぎ」という烈し い言葉をお用いになりました。それを世に「投げ込むため」に来たのだと言われたの です。これはどういうことなのでしょうか。  そこでこそ私たちが心すべき御言葉はヘブル書の4章12節以下です。「…というの は、神の言葉は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、 関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができ る。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、 神の目には裸であり、あらわにされているのである」。  主イエスが言われる「つるぎ」とは神の御言葉のことなのです。福音の真理のこと なのです。その御言葉の「つるぎ」はどのような鋭利な「もろ刃のつるぎよりも鋭く …(私たちの)精神と霊魂…心の思いと志とを見分ける」のです。神の御言葉の「つ るぎ」の前に顕わにされないものは一つも存在しないのです。それがヘブル書の言う 「(御言葉のつるぎの前に)あらわでない被造物は一つもない」ということです。  そしてこのヘブル書4章12節以下は、少し前の7節に記された大切な御言葉を解 き明かす音信として告げられています。その大切な御言葉とは「きょう、み声を聞い たなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とあることです。旧約聖書・ 詩篇95篇7節の引用です。それならばこの御言葉を、今朝の御言葉と合わせてこの ように読み解くことができるのです。それは「きょう、御言葉のつるぎを、主イエス・ キリストによって投げこまれたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。  主イエスはまさに神の御言葉の「つるぎ」を私たちのただ中に投げこんで下さるか たなのです。この「つるぎ」によって私たちの「罪」がキリストと共に十字架にかけ られます。そしてキリストに結ばれて新しい永遠の生命を私たちは生きる者とされて いるのです。この「つるぎ」によって「精神と霊魂」とを刺し貫かれなければ、私た ちは自らの罪の内に滅びてしまうほかはない存在なのです。そのような意味で、まさ に主イエスがこの世界に投げこまれた御言葉の「つるぎ」のみが、私たちを罪と死の 支配から解き放ち、真の自由と幸いを与える「生命」をもたらす「つるぎ」なのです。  「真剣勝負」という言葉があります。真剣を前にして眠る人はいません。「つるぎ」 は私たちの鈍く眠っていた魂を呼び覚まし、新たな信仰の志へと目覚めさせるもので す。私たちはそれこそ神の御言葉の「つるぎ」の前に目覚めた者であり続ける幸いへ と召されています。ときに私たちは神の御言葉を「つるぎ」とも思わず、あのゲツセ マネの弟子たちがそうであったように、祈るキリストを尻目に眠りこけていることは ないでしょうか。御言葉を聴く私たちが、御言葉を御言葉とも思わぬ者になっている ことはないでしょうか。今朝の御言葉によって改めて問われているのです。  「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。こ の御言葉は「きょう、正しく主の御声を聴いたなら、あなたがたの心は決して、頑な なままではいられない」という意味です。言い換えるなら私たちの心と魂また私たち の生活は、神の御言葉を正しく聴くことなしには常に「かたくな」であるほかはない のです。「かたくな」な心はいっけん強そうに見えます。しかし実は堅くなった心ほど 脆く弱いものはありません。まさにその「かたくな」な心が今朝の御言葉においても 主イエスを「悪霊」に憑かれた者と呼ばしめたのです。まさにその頑なな心の私たち か、主の御声を正しく聴くことによって目覚めるのです。砕かれて新しいものにされ るのです。キリストの復活の生命を戴いた生活へと変えられてゆくのです。  使徒パウロはキリストの弟子となる以前はパリサイ人でした。しかも最も優秀かつ 将来を嘱望された大祭司候補としてのエリートだったのです。だからパウロはかつて の自分の姿を顧みて、律法の義については全く落ち度のない者であったとピリピ書3 章6節に語っています。パリサイ人であった時のパウロは、自分の正しさ、自分の清 さ、自分の行いによって、満たされきったものでした。その結果その生活は「かたく な」なものになり、魂からは平安が失われてゆきました。その、堅く脆くなった心の 状態のことを、パウロは「律法による自分の義」に拠り頼む生活と語っています。  その生活ははたしてパウロだけのものでしょうか。私たちもまたその頑なな脆い心 のままで、しかも自分を神の前に「正しい者」「清い者」と見なそうとするのではない でしょうか。キリストの恵みに拠り頼む生活の喜びを失い、いつでも御言葉の支配の 外に、自分の義に拠り頼む生活へと逆戻りしてしまうのではないでしょうか。その結 果、私たち自身が果てしのない「分争」に陥ってしまうのではないでしょうか。  まさにそのような私たちのために、主イエス・キリストは「つるぎ」を投げこんで 下さるかたとして来て下さいました。今もここに聖霊によって現臨したもう主が御言 葉の「つるぎ」をもって私たち一人びとりを罪と死の縄目から解き放って下さるので す。キリストが来られ私たちと共におられるところ、そこに私たちの頑なな心は柔ら かな瑞々しい心へと造りかえられ、自分をも他者をも審くことのない、互いに愛し合 う生活へと生まれ変わらせて戴けるのです。そこにキリストの平安が満ち溢れます。 何者によっても奪われることのない本当の平和が、キリストの恵みのご支配のもとに 形造られてゆくのです。  終わりに私たちはもう一つのことを心に留めたいと思います。主イエスの御言葉(福 音)によって分争を起こした人々は、実は福音に対する人間の二つの態度を代表して いるのです。一つは、主イエス・キリストを「悪霊」に取り憑かれた者と見なす態度 です。キリストに対する不信仰です。そしてもう一つは、キリストを神から遣わされ たかたとして信じ告白し「わが神、救い主」と言いあらわす態度です。では私たちは どうなのでしょうか。私たちは御言葉の「つるぎ」の前に、まさに主イエスを「わが 神、救い主」と告白する者として立てられているのです。  父なる神と御子イエスは一体であられます。それなら御父が御子を世に与えるとい うことは、神ご自身がご自身を世に与えたもうたことです。御父が御子を犠牲として 放棄することは神ご自身がご自身を放棄したもうたことです。それが十字架の愛です。 この世(私たち)そのものが神に叛き神の敵となっていました。神の愛はそのような 叛くもの価値なきものを、その価値なきままに愛したもう愛です。それこそ聖書が全 世界に告げている神の愛です。主イエスは神に叛いて「敵」とさえなっていた私たち、 絶えず分争を起こしていた私たちのために、十字架を担って下さいました。ご自分を 徹底的に否定し、徹底的に放棄し、徹底的に犠牲とされたことによって私たちを贖っ て下さったのです。それがあの十字架の出来事なのです。 それこそ聖書が一貫して語り告げている神のお姿であり、私たちはまさにその神の 愛によって救われ、真の平和の道を歩む僕とされました。平和の主を唯一のかしらと する教会へと招かれ、キリストの御身体に連なり、キリストの生命に結ばれているの です。この神の愛の前に、私たちは心から「われ信ず」と告白するほかはありません。 そこに私たちの生命があり、限りない平安があり、新しい生活があるのです。