説    教     詩篇23篇1〜6節   ヨハネ福音書10章7〜15節

「主はわが牧者なれば」

2009・04・19(説教09171268)  主の復活の恵みを戴いて、新たな思いでヨハネ福音書の御言葉を聴く私たちとされてい ます。今朝はその10章7節以下の御言葉です。そこに主イエスはこう語っておられます。 「よく、よく、あなたがたに言っておく。わたしは羊の門である」。これはどのような意味 なのでしょうか。  主イエスがおられた時代は、ユダヤの人々にとってたいへん不安な、終末を思わせる時 代でした。ローマ軍によるエルサレム占領が迫り、国内の政治や生活は大きな力に揺り動 かされていました。人々は「歴史の終末」を意識しつつありました。そのような世情不安 定の時代には、かならずいろいろな人物や団体が現れ、われこそは国家と人民を救うもの だと喧伝するものです。主イエスの時代のユダヤもそうした状況でした。聖書に出てくる だけでもパリサイ人をはじめとして、サドカイ人、熱心党、ヘロデ党、エッセネ派など、 様々な団体が「われこそは真理なり」と主張し争い合っていたのです。  パリサイ人は宗教的伝統主義者です。モーセの律法や古来の伝統を忠実に守り、神の選 民であるイスラエルから外国の文化や風習を排除しようとするグループでした。それに対 してサドカイ派は合理主義・世俗的な考えを持ち、外国の文化や人々を積極的に受け入れ、 体制に順応しようとしていた団体です。熱心党というのはそれと正反対に熱烈な愛国主義 者による政治的テロ集団で、イスラム原理主義のように地下活動でローマの支配に抵抗し ようとした団体です。エッセネ派というのはそうした煩わしい現実の世界から離れて荒野 に隠遁生活を送っていた団体です。バプテスマのヨハネもエッセネ派の出身だったのでは ないかと言われています。  このような数々の互いに矛盾し対立する多くの団体が、自分たちこそ人間を救い国家を 救う「道」なりと主張していたのが主イエスの時代でした。ですから民衆の目から見るな らちょうど「船頭多くして船山に登る」という状況で、人々はどれが本物の指導者である のか迷うばかりでした。偽指導者たちが自分勝手に民衆を惑わせていたのです。主イエス の御教えの中にも「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに 来るが、その内実は強欲なおおかみである」(マタイ7:13)とあります。この「羊の衣を 着て来る」とは民衆の味方であるように見せて、その内実は「強欲なおおかみ」つまり自 分が中心であるということです。  またマタイ伝9章36節には「イエスは、群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、 倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」とあります。様々なこの世の 主義主張や価値観の渦巻く中で、どこにも本当の救いを見出しえず「弱り果てて、倒れて いる」民衆の姿を主は深く憐れみたまいました。それは現代の私たちの社会の姿でもある と思います。私たちの現代社会こそ、ますます人間が行く道を失ない「飼う者のない羊の 群れ」のように弱り果てている社会なのではないでしょうか。  主イエスは人を惑わす偽指導者のことを、今朝のヨハネ伝10章1節においてこう語ら れました。「よく、よく、あなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からではな く、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である」。ここで主イエスが言わ れる「門」とは何でしょうか? それこそ今朝の7節に明確な答えが示されています。す なわち「よく、よく、あなたがたに言っておく。わたしは羊の門である」と語られたこと です。主イエス・キリストを「神の子・救い主」と告白するまことの信仰です。言い換え るならパウロが語る「信仰による神からの義」です。さらに言うなら神の御言葉そのもの です。神の御言葉によらず、それ以外の場所から入ってくる者は「にせ預言者」であると 主ははっきり言われるのです。  偽りの指導者(にせ預言者)たちはキリスト告白という唯一の正しい「門」から出入り せず「ほかの所から」囲いを「のりこえて」侵入します。つまり彼らはキリスト以外の所 から(キリスト告白以外の方法で)囲いの中に入り、そこで人々を捕らえ、自分の意のま まにしようとするのです。そのような偽指導者たちを主イエスは「盗人」また「強盗であ る」と言われます。彼らには真理(神の御言葉)がないので、虚偽や策略によって人々を 動かし支配するほかないのです。そこに彼らの「偽り」の証拠があります。羊の所に来る のに「門からではなく、ほかの所からのりこえて来る者」は決して真の牧者・真の救い主 ではありえないのです。  「偽りの指導者」の性質はこれだけではありません。彼らは人々に生命を与えるのでは なく、逆に人々から生命を奪う者です。10節以下の御言葉です。「盗人が来るのは、盗ん だり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない」。偽りの指導者はいつも「民衆のた め」という看板を掲げて現れます。人々は目の前に撒かれた餌に目を奪われている間に魂 を奪われてしまうのです。主イエスの時代のパリサイ人らがまさにそのような「偽りの指 導者」でした。彼らは律法を人々に守らせようとしましたが、人々を救うためにその重荷 に「指一本」触れようとはしなかったのです。  さらに「偽りの指導者」には節操と責任感がありません。羊は彼らのものではないから です。今朝の御言葉の12節です。「羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おお かみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散 らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである」。真の羊飼いと偽の羊 飼い(雇人)は外見は同じように見えます。時には偽りの羊飼いのほうが頼もしくさえ見 えるのです。しかし「おおかみ」が来る非常事態になると真偽が明らかになります。偽の 羊飼いらは「おおかみが来るのを見ると、羊を捨てて逃げ去る」からです。彼らにとって は羊より自分のほうが大切なのです。  そのことは更にルカ伝10章の「よきサマリヤ人の譬」を見るとわかります。あそこに 出て来る祭司やレビ人も、傷つき助けを求める旅人を見て見ぬふりをして過ぎ去って行っ たのです。同じように偽りの羊飼いも群れに危険や困難が迫ると自分の安全だけを考え羊 は見棄てて逃げ去るのです。羊を養い導くのではなく食物にして利用するのです。これは 現代社会の姿(私たちの罪の姿)を現わしているのです。  それでは、まことの指導者・真の羊飼いとはどのようなものでしょうか。それは全ての 点で偽りの羊飼いとは対照的です。まずまことの羊飼いは正しい唯一の門、すなわちキリ ストを「神の子・救い主」と信じる信仰により、人々をキリストのもとへと教え導くもの です。だから主イエスはこの10章の2節以下に「門からはいる者は、羊の羊飼である。 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く」と語っておられます。「そして彼は自分の 羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。 羊はその声を知っているので、彼について行くのである」と言われるのです。  まことの羊飼い、人々に真の救いを宣べ伝える者は、盗人や強盗のように門以外の場所 からではなく、キリスト告白という唯一の「門」から入って来るのです。「門番」である教 会の長老会はその大牧者(キリスト)のために礼拝を整え、正しい教理を保ち、主の御声 が全ての人の心に届くよう心を配ります。教会に連なる私たち全てが伝道の責任を担いま す。それがすなわち教会の牧会です。牧会とは主の御声が群れ全体に響き渡るようにする ことです。そして「羊は彼の声を(主イエスの御声を)聞く」のです。キリストの糧にあ ずかる群れとなるのです。さらにまことの牧者は私たち一人びとりの名を呼びます。かけ がえのない「あなた」として私たちを招きたまいます。私たちはその御声に安心して従っ てゆきます。 テンプルというイギリスのすぐれた聖書学者が、今朝のこの御言葉について例話を紹介 しています。パレスチナのある井戸のほとりに幾組かの羊飼いと羊の群れが入り混じって 正午の休みをとっていた。やがて羊飼いが立ち上がり、自分の羊の名を呼ぶと、羊たちは それぞれの羊飼いのあとに迷わずついて行ったというのです。真の羊飼いと群れとの関係 はキリストを唯一の主とする信仰による信頼関係です。  第二に、まことの羊飼いは人々をして真の救いと生命へと導くものです。9節と10節「わ たしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくで あろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わ たしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」とあります。まことの羊 飼いは、偽りの羊飼いのように羊の生命を奪わないばかりでなく、群れをあらゆる危険か ら守り、群れを憩いの水際、緑の牧場へと導き、生命を豊かに得させるものです。 聖書をはじめて読む人がみな言うことは、聖書にはこの世の道徳や教えなど、いわゆる 「感動する話」が書かれているように思っていたがそうではなく、イエス・キリストのこ とが書いてあるということです。そのとおりです。イエス・キリストのみを証しているの が聖書です。旧約聖書にも「イエス・キリスト」という文字こそありませんがキリストの みを証しているのです。つまり聖書は福音(神からのまことの救いのメッセージ)を世に 告げるものです。いわゆる道徳訓のような、ここをこうすればあなたは幸せになるという ような、この世の道をどんどん歩んでゆこうということは書いてないのです。  そうではなく、この世のどんな道にもかならず立ち塞がる重大な壁がある。それは罪と 死という壁です。人間の絶対に超ええない壁です。道徳訓も処世術も感動する話も何の役 にも立ちません。その罪と死という不動の壁を見事に打砕いて、私たちに真の自由と幸い を与えるのが福音です。聖書はその福音(キリストの十字架と復活)を私たちに伝える神 の言葉なのです。だから聖書の中心はどこを見てもイエス・キリストなのです。その御名 のほかに私たちの救いはないからです。  最後に、まことの牧者は、羊のために生命を捨てるものです。今朝の11節です。「わた しはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」。よい羊飼い、まことの羊飼い は、羊の群れに危険がおよぶ時、自分の生命を投げ出して羊を守り、その生命を救います。 それは羊を知り、その群れを極みまでも愛しているからです。だから主イエスは14節に こう語られます「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わ たしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知ってい るのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」。  主イエスはここにご自分と私たちとの関係を、天の父なる神とご自分との永遠の聖なる 関係になぞらえて下さいます。私たちは主イエスに対しても父なる神に対しても、何ひと つ相応しさを持ちえません。しかし主イエスは、ただ限りない愛によって私たちの罪を贖 い、その死と滅びの現実を御自分の生命を捨てて打破って下さり、救いの御業を打ち立て られ、信ずる者を一人のこらず「義」として下さるのです。義として下さるとは、永遠の 昔から御父と聖霊とご自分との間にあった完全な愛の交わりのうちに、私たちをあすから せて下さることです。私たちはこの主イエスの御声を聴き、主イエスに従い、主イエスの 道を歩むことによって、天の父が御子イエスを完全に知られ、また主イエスが御父を完全 に知りたもうのと同じように、完全に神に知られている幸いに生きる者とされるのです。 それが信仰による「義」なのです。 まさにその「義」を私たちに得させるために、主は私たちの贖いとして十字架にかかって 下さいました。「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」それは十字架の主イエスの御姿です。 それでは、私たちは主イエスのために何かを「捨てて」いるでしょうか。主イエスの御業 のために喜んで献げている私たちでしょうか? 主の御前に生きた信仰の生活をしている でしょうか? 主イエスは私たちのために、本当に全てを捨てて下さいました。御自分のた めに何一つとして残されませんでした。そのようにして私たちの「罪」を贖って下さいま した。私たちを極みまでも愛し、十字架の死を歩み抜いて下さったのです。  「わたしは羊の門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草に ありつくであろう」。この「門」イエス・キリストを通って永遠の生命、神との完全な交わ りに、私たちは入らせて戴きました。そこからこの世のそれぞれの務めへと、主の限りな い祝福と平安を受けて、御言葉に養われつつ、歩んでゆくのです。