説     教    イザヤ書50章8〜9節   ローマ書8章31〜39節

「復活・永遠の愛」  イースター礼拝

 2009・04・12(説教09161267)  キリスト教の福音の本質を、もしたった一言で言うとしたら、どのような言葉にな るのでしょうか。これは簡単なようで、実は難しい問いです。この難しい問いに宗教 改革者ルターはヨハネ福音書3章16節の御言葉をもって答えました。すなわち「そ れ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永 遠の生命を得んためなり」という御言葉です。  ルターはこう語っています「もし聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハ ネ伝3章16節だけが残れば、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう」と。すな わち、神がこの世界を限りなく愛されてその独子イエス・キリストを世に賜わったと いう音信こそ福音全体の本質なのです。  今から150年ほど前、新島襄という23歳の青年が幕府の国禁を冒してアメリカに 密航しました。その船の中で彼はこのヨハネ伝3章16節に出会い、神を信ずる者に なりました。新島は最初は、日本に欧米諸国に負けない海軍を造るためにアメリカに 渡ったのです。ところが航海の途上で、敬虔なクリスチャンである船長の影響のもと 聖書を共に読んでゆくうちに、ついにこのヨハネ伝3章16節の御言葉に出会い、キ リストの愛を知ります。まことの神の福音が彼の魂を捉えるのです。  この御言葉が新島の人生を変えました。ボストンに着いた新島は教会に連なる者と なり洗礼を受けるのです。そして海軍を造るためではなく、日本にキリストの福音を 宣べ伝えるために神学校に入ります。海軍はいかに強くとも国家永遠の礎とはなりえ ない。ただキリストの福音のみが人間と国家の永遠の礎である。こう確信した彼は10 年間の苦学のすえ日本人最初の牧師となり、帰国して京都に同志社英学校を創設し、 全国各地に福音を宣べ伝え、牧師としての生涯を全うしました。たった一行の神の御 言葉が一人の青年を甦らせ、多くの人々をキリストに導く神の器としたのです。  今朝の御言葉であるローマ人への手紙8章31節以下、特にその37節に使徒パウロ はこう語っています「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたした ちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、 天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、 その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わた したちを引き離すことはできないのである」。  これは使徒パウロによって、当時のローマの教会と世界全体とに告げられた“神の 愛の勝利宣言”なのです。当時のローマの教会は厳しい迫害の渦中にありました。キ リストを信じ教会に連なるゆえに、信徒たちは社会から多くの圧迫を受け、職を奪わ れ財産を没収され、家族を離され愛する者たちを失いました。その苦しみの中でキリ スト者たちは多くの人々に福音を宣べ伝え、そして多くの人々が教会の礼拝に連なり、 洗礼を受けるようになりました。やがて西暦313年、ローマ皇帝みずから信仰を告白 して洗礼を受け、キリスト教が国の宗教(国教)となり、迫害はいちおう収束します。 しかしその後も迫害は約260年もの長きにわたって続きました。その苦難の日々の中 でキリスト者たちは、たえず今朝のローマ書8章の御言葉の慰めと希望に生き続けた のです。  パウロは「『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊 のように見られている』と書いてあるとおりである」とローマの信徒たちに書き送っ ています。これはもともと旧約聖書・詩篇44篇22節の御言葉です。この御言葉のと おり、キリストの御名を信ずるゆえの多くの苦しみを人々は味わっていました。信徒 たちの日常は文字どおり「死に定められており、ほふられる羊のように見られている」 ごとくであったのです。  そうした悩みと試練の中にあってなお「わたしたちを愛して下さったかたによって、 わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」ことを教会員すべて が確信していました。「勝ち得て余りがある」とは言葉の遊びではありません。キリス トの愛における絶大な勝利の喜びのゆえに、私たちはその喜びを少しも隠してはおれ ない、伏せておくことはできない、宣べ伝えずにはおられない、という喜びの発露な のです。  当時のローマにおいては、主日礼拝に連なる人々は、一日の仕事を終えてから夜に 教会に集まりました。教会と言っても建物は建てられず、人々は地下の“カタコンベ” と呼ばれる墓地の中に人目を避けて集まり、ロウソクを灯して喜びの礼拝を献げまし た。しかも日曜日は社会の公休日ではありませんでした。日曜日が休日になったのは 7世紀以後のことです。ローマの信徒たちは仕事で疲れた身体を家で休めることもな く、まず喜び勇んで地下の教会に集まり、ロウソクを灯して主日礼拝を献げ、讃美を 歌い、祈りを共にし、御言葉を聴き、聖餐にあずかりました。聖餐台として用いられ たのは多くの場合殉教者たちの棺でした。それで今もなお教会の聖餐卓には棺の形の 名残があります。信徒たちはそこで執り成しの祈りを全世界のため、為政者たちのた めに献げました。自分たちを迫害し苦しめている者たちのために、神の祝福と赦しと 平和を祈ったのです。  ここに集う私たちもまた、この当時のローマの信徒たちと同じ慰めと希望に共に生 かされているのです。日々のあらゆる悩みや試練の中で、なお「わたしたちを愛して 下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがあ る」との確信と慰めのもとに私たちも連なる者とされています。私たちもまた大いな る確信をもってこのイースターの礼拝に連なっています。それこそ38節以下「わた しは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるもの も、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエ スにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」という確信なのです。  その確信には確かな根拠があります。ローマの信徒たちと同様に、私たちもまた根 拠のない空しい望みに生きる群れではありません。失望に終わることのない真の希望 を、私たちは主にあって知る者とされているのです。それこそ今朝の31節以下です。 「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方で あるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わ たしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物を も賜わらないことがあろうか」。  パウロは更にこう宣べ伝えています。34節以下です「だれが、神の選ばれた者たち を訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるの か。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたした ちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れ させるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。  「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」これらはみな現実にローマの信徒一人 びとりの身に起こっている苦しみでした。理由なく人に訴えられることも、権力者か ら不当な仕打ちを受けることも、みな現実のキリスト者の姿でした。ローマの教会は 四方を「敵」に囲まれた小さな群れにすぎませんでした。その中でこそパウロは言う のです「私たちは既に絶大な勝利を得ている」と…。神が私たちをキリストの「義」 をもって覆って下さった。それゆえ誰が私たちを訴え得ようか。キリストが復活して 神の右に座し、私たちのために執り成していて下さるのなら、誰が私たちを「罪」に 定め得ようか。「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得よう か」。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡され たかたが、どうして、御子のみならず万物をも(すなわち、私たちの人生の全体と、 この世界の全体を、神の限りない祝福として)賜わらないことがあろうか」。  この福音の慰めの根拠こそ、キリストの復活の事実なのです。キリストは私たちの 罪の贖いのために呪いの十字架におかかりになり、死んで葬られて下さった。そのキ リストのよみがえりの事実は「神の愛は死の力にも勝利する」という告知です。復活 は神の永遠の愛の勝利の「しるし」です。実に神は御子イエス・キリストによって、 私たちを極みまでも愛して下さった。その神の愛こそ罪と死に打ち勝つ唯一の力です。 神は罪によって死んでいた私たちをキリストと共に甦らせ、キリストの御身体なる教 会に連ならせて下さいました。そして教会によって私たちは、キリストの復活の生命 に結ばれた者として、新しい歩みを始めてゆくのです。  だからこそパウロは「それでは、これらの事について、なんと言おうか」と今朝の 最初の31節に語るのです。自分はこの恵みについてどう語るべきか。キリストの復 活の喜びを告げるのにどんな言葉も間尺に合わないと言うのです。だから聖書の御言 葉をそのまま宣べ伝えるほかはない。キリストが私たちのためになして下さった御業 をそのままに語るほかはないのです。  どのような人間の知恵も、哲学も、思想も、言葉も、主の復活の恵みの前には色あ せてしまうのです。しかし、これを敢えて教会の言葉として世に語るならば、それは こういうことだとパウロは申します。それは“キリストはあなたの救いのために復活 された。もはやいかなる被造物も、死の力さえも、あなたをキリスト・イエスにおけ る神の愛から、引き離すことはできない”ということだ。  「福音の本質」はまさにそこにあります。“キリストはあなたの救いのために復活さ れた。もはやいかなる被造物も、死の力さえも、あなたをキリスト・イエスにおける 神の愛から、引き離すことはできない”。ここに私たちの変らぬ慰めがあり、希望があ り、力と勇気の根源があるのです。この復活節(イースター)にあたり、私たちは共に この御言葉に聴き、私たちに委ねられている日々の信仰の歩みに、日々の務めへと、 キリストの僕として遣わされてゆく者とされています。そしてあらゆる人々に主の復 活の福音による、真の希望と祝福を伝える群れとされていることを、感謝しつつ復活 の主の御名を崇めたいと思います。