説    教    イザヤ書43章1節   ヨハネ福音書10章1〜6節

「わが主の御声」

2009・04・05(説教09151266)  ビクターという音響関係の会社がありました。シンボルマークとして、昔の蓄音機の ラッパに一心に耳を傾けている犬の絵がありました。その下に英語で「ヒズ・マスター ズ・ヴォイス」と記されていました。「彼の主人の声」という意味です。この犬は蓄音機 から流れてくる亡き主人の懐かしい声にじっと耳を傾けているのです。その声だけがこ の犬の喜びであり、慰めであり、生命であったのです。今もなおその声が聞こえてくる のを犬は待ち続けているのです。  私たちは、まことの主人の声を聴き分ける耳を、いつも持っているでしょうか。主イ エス・キリストを通して世界に告げられている福音の喜びの調べを、いつも正しく聴き 分けているでしょうか。耳あれども聴かず、目あれども見ず、心あれども悟らぬ私たち になってはいないでしょうか。  今朝の御言葉、ヨハネによる福音書10章1節以下には、羊の群れと羊飼いの朝の姿 が描かれています。砂漠地帯であるイスラエルでは、夜になると羊たちはみな「囲い」 の中に導かれ、守られて眠ります。この「囲い」とは群れを外敵から守るために、石垣 や木などを積上げて造った丈夫なもので、「門」がついていて羊飼いが開け閉めします。 朝が来ると羊飼いは羊の群れをその「門」から連れ出して、牧草のある場所へと導いて ゆくのです。  ですから今朝の御言葉の3節にあるように「門番は彼のために門を開き、羊は彼の声 を聴く」とあることが大切です。この御言葉においてそれぞれが何に譬えられているか、 幾つかの解釈があります。ここでは代表的な解釈として、宗教改革者カルヴァンの理解 を顧みたいと思います。「囲い」とは教会のことであり、「門番」とは教会の長老会、そ して「羊の群れ」とは私たちのこと、そして「羊飼い」とは主イエス・キリストのこと なのです。ですから「羊は彼の声を聴く」という関係は、なによりも神の御言葉である 主イエス・キリストと(福音)と私たちの関係を示しています。  つまりここには、御言葉を宣べ伝える者と、御言葉に聴き従う私たちとの、生き生き とした信仰の関係が示されているのです。御言葉は御子なる主イエス・キリストから、 キリストの身体なる教会を通して世に宣べ伝えられます。御言葉を宣べ伝える者もそれ を聴く者も、ともに御言葉にあずかり、養われてゆきます。そのときまず教会は「囲い」 の役割を忠実に果たさねばなりません。教会の務めは主から委ねられた「羊の群れ」を 御言葉に背かせるあらゆる「罪」(外敵)から護り、疲れた者、傷ついた者を癒し、御言 葉の生命のもとに立ち帰らせ、御国の完成に至るまで変らぬ唯一の牧者(主イエス・キ リスト)のもとに導くことです。教会の唯一のかしらは主イエス・キリストであり、教 会を養い成長させる唯一の糧は神の御言葉(福音)です。その福音の言葉を、大牧者な る主から委ねられている群れが「教会」です。  長老会の務めは、教会の「囲い」と「門」を管理する僕として、牧者であるまことの 主の御声を聴きわけ、その御声のままに門を開きまた閉ざすことです。長老会は自分の 判断や考えによってではなく、ただ主の御声を基準にして「門」を開け閉めするもので す。この「門」から羊の群れは安全に出入りし、または新しい羊たちを迎え、彼らが外 敵によって損なわれたり、奪われたりしないように、「門」は御心のままに閉ざされるの です。このように長老会の務めは、まことの牧者なる主の御声に忠実であることによっ て、委ねられた群れを正しく養うために、教会に立てられた牧師の働きを助け、牧師と 共に教会の唯一の主なるイエス・キリストに仕えることです。  群れと羊飼いとの関係はただそれだけではありません。さらに「そして彼は自分の羊 の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。 羊はその声を知っているので、彼について行くのである」とあることに心を向けたいの です。この羊の群れは「ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知ら ないからである」と記されています。まさに「彼の主人の声」に聴き従うことにおいて のみ、教会はキリストの主権を世に現す群れとなるのです。  これは実際にイスラエルの羊飼いの姿です。主イエスはそれをよくご存知でした。厳 しい砂漠地帯であるイスラエルで、羊飼いたちがどんなに羊の群れを大切にし、また羊 がどんなに羊飼いを信頼しているか、その姿には感動を覚えます。羊飼いは「囲い」の 「門」から群れを外に連れ出すとき、「門」の外に立って羊の名を呼ぶのです。すると呼 ばれた羊は順に「門」の外に出て来ます。これは夕方になって、再び群れが「囲い」の 中に戻ってくる時にも同じように繰り返されます。一頭ずつ名を呼んで確認しますから、 帰ってこない羊がいればすぐにわかるのです。するとあの「百匹の羊の譬え」そのまま に、羊飼いは野を越え谷を越えてまで、そのいなくなった一匹を生命がけで探し求める のです。  イギリスのテンプルという神学者がすぐれたヨハネ伝の注解書を書きました。その中 でこういうことが語られています。ある人が実際にイスラエルの羊飼いを訪ねて、本当 に羊の名を一頭ずつ呼ぶのか確認したところ、本当にそのとおりであったと言うのです。 ある羊飼いなどは目隠しをして、ただ羊に触るだけでその名をすべて言い当てたと言う のです。テンプルはこのことだけでも、彼ら羊飼いがどんなに羊の群れを愛しているか がわかると語っています。  “名を呼ぶ”ということは、かけがえのない「あなた」としてその人を召し出すとい うことです。「あなたの代わりはどこにもいない」と宣言することです。あなたはかけが えのない唯一の大切な存在だと、主なる神みずから宣言して下さるのです。それが、主 が私たち一人びとりの名を呼びたもうということです。  今日の社会は、それとちょうど逆の行きかたをしてはいないでしょうか。いわゆる高 度情報化社会、高度管理社会となった現代において、むしろ私たち人間はいつしか匿名 の存在(名無しの存在)になっています。名無しの存在になるとは、かけがえのない価 値が認められず、人間が手段(道具)になってしまうということです。匿名化した社会 は人間の価値を拒むのです。偏差値社会、能力社会、実績社会、その恐ろしい弊害を知 りながら、私たちはどこかで「それが世の中の仕組みというものだ」と割り切り、肯定 してしまっているのではないでしょうか。  主なる神でさえ、無名のおかたとして私たちに御自身を現したまいませんでした。神 がモーセを預言者として召したもうたとき、モーセはそこで主なる神の御名を尋ねまし た。そのとき神はモーセに「われは在りて在る者なり」とお答えになりました。それが “ヤーウェ”(エホバ)という神の御名の語源となりました。聖なる神ご自身が私たちの 言葉で「名」をもって呼ばれることを欲したもうたのです。これは神ご自身が徹底的に 私たちのもとに身を低くして来て下さった恵みです。だから「主の祈り」でも私たちは まず「願わくは御名をあがめさせたまえ」と祈るのです。  なにわりも、神は御子イエス・キリストという“唯一の救いの御名”をもって私たち の世界に決定的な「救い」を現して下さいました。だからこそ使徒たちは罪と絶望のた だ中にいる人々に対し「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族 も救われます」(使徒行伝16:31)と語りえたのです。教会はキリストの御名によって全 世界に唯一永遠の「救い」を宣べ伝えるのです。「この人による以外に救いはない。わた したちを救いうる名は、これを別にして天下の誰にも与えられていないからである」と 宣べ伝える群れが、私たちの教会なのです。  私たちの信仰が自分勝手ないびつなものに変質するとき、神の御名を呼びまつること もなくなるのです。私たちの信仰が御言葉から離れるとき、神もまた私たちの中で、い つのまにか無名の(匿名の)神に変化してしまうのです。主なる神、主イエス・キリス ト、聖霊なる神ではなく、永遠者とか、絶対者とか、愛とか、完全者とか、抽象的な言 葉で神が呼ばれるようになるのです。そのとき、信仰は生き生きとした救いの喜びを物 語るものではなくなります。教会もまた個人的な、一人よがりの、独善的な宗教団体に 陥ってしまうのです。  神は生ける永遠の御人格であり、教会を通して生命の御言葉を全ての人に語りかけて 下さいます。また私たちの祈りにはっきりと答えて下さるおかたです。それゆえ神は私 たちを抽象的な形で十把一絡げに扱いたまいません。主なる神は徹底的に「かけがえの ない汝」として私たちに御声をかけて下さいます。真のキリスト教がいかなる専制主義、 絶対主義とも相容れないのはそのためです。今日の日本社会において本当に人々が求め 必要としているものはそのことです。まことの神を信じ、キリストを告白することによ る、人間の人格の確立。個人の「かけがえのなさ」の確立が求められているのです。そ こにこそ、全ての人間にとって本当の「癒し」が、つまり「救い」が起こるのです。  エルサレムの「美しの門」のかたわらで、毎日物乞いをしていた名もなき人にペテロ とヨハネが出会いました。この人にペテロは言いました。「金銀はわたしには無い。しか し、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。 すると歩くことができなかったこの人の「足とくるぶし」とが主イエスの御名によって 強くされ「躍り上がって歩き」主を讃美する者へと変えられたのです。神の御言葉に叛 き、匿名の存在になっていた私たちが、主イエス・キリストという唯一の「救いの御名」 (キリストの十字架による罪の贖いの出来事)によって躍り上がって立ち、神と共に、 神の道を歩む者に変えられたのです。  それこそ私たち一人びとりに「主イエスの御名」によって起こった“救いの出来事” なのです。かつて友愛会でカール・バルトの「教義学要綱」という本を学びました。バ ルトがナチズムの台頭という厳しい時代の中で書いた使徒信条の講解です。正しい信仰 告白に立つ教会、健全な教理的骨格を持ち、みずから救いの喜びを証する教会のみが、 この世のあらゆる現実の中にあって歴史の真の「主」を指し示し、その主の御声を世に 宣べ伝えることができるのです。そのことをバルトは「教義学要綱」の中で見事に語っ ています。私たち一人びとりを「名」をもって呼びたもう神が語りたもうとき、御子イ エス・キリストの救いの出来事が私たちのただ中に生きて現れるのです。「神語りたも う」(Gott Redet)こそ“バルトの神学の中心”と言われますが、それは改革派教会の 伝統なのです。主イエス・キリストという出来事こそ「神の語り」であり、キリストの 十字架による私たちの「罪の贖い」が「神の語り」の場である教会を通して世に現わさ れるのです。  それならば、今朝の御言葉の4節に、私たちを御声をもって新たな人生の場へと呼び 出して下さった唯一の羊飼い(主イエス・キリスト)は「羊の先頭に立って行く」とあ ることに心を止めねばなりません。「先頭に立って行く」とは「罪の贖い主」として十字 架の道を歩まれるという意味です。今日から受難週に入ります。私たちは私たちの「罪 と死」を担って十字架への道を歩んで下さった主イエス・キリストを信じ告白し、その 御声に聴き従う群れとして、いよいよ祈りを深め、志を厚くして参りたいと思います。 十字架の主のみが私たちの先頭に立ちたもうて、私たちの「罪と死」に永遠に勝利して 下さったのです。死の支配を打ち破って御自分の復活の生命に私たちを結び合わせて下 さったのです。だからこの「主」の御声に聴き従う私たちに本当の平安と喜びがあるの です。そこに本当の幸いがあるのです。 罪と死に打ち勝つ真の生命は、主の御言葉にのみあります。私たちの救いは十字架に のみあります。御言葉を聴く者は十字架のキリストの救いの出来事に覆われて生きるの です。今朝の御言葉の4節をもう一度心にとめましょう。「羊はその声を知っているの で、彼についてゆく」。それこそ礼拝者の生活であり、礼拝は天の栄光をあらわす、私た ちの最大最高の務めです。私たちは礼拝者として、いつも「わが主の御声」に聴き従う 日々を歩んで参りたいと思います。