説    教     箴言26章12節   ヨハネ福音書9章39〜41節

「汝は見えるか」

2009・03・29(説教09141265)  生れつき目の見えなかった人を、主イエスが「安息日」にお癒しになったことにより、 パリサイ人たちの攻撃の矛先は、癒された人のみならず、さらに主イエスへと向けられ てゆきました。しかしこの人の目が「癒された」という出来事は、ただ肉眼の視力が回 復したということではないのです。それは「罪」によって生まれつき神が見えなかった 私たちを、主イエスが十字架によって救って下さり、「信仰」という生きた真の「まなざ し」を与えて下さった出来事です。  ですから、この人の身に起こった出来事は単に肉体の癒しを超えた私たちの全人格の 「救い」です。罪と死からの甦りの出来事です。いまだかつて人類の誰も経験したこと のない大いなる「救いの御業」が現されたのです。だからこそこの癒された人は32節 に「生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、 聞いたことがありません」とパリサイ人らに語りました。それほど素晴らしい「救いの 御業」を証せずにはおれなかったのです。  主イエスは先にこのヨハネ伝の9章3節において、生まれつき目が見えなかったこの 人の理由を問う弟子たちに対してこう言われました。「本人が罪を犯したのでもなく、ま た、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。主 はまさに「神のみわざ」を私たちの人生に「現して」下さる「救い主」(キリスト)とし ていま私たち一人びとりと共におられます。生まれつき神を見る「まなざし」がなく、 どこに救いを求めてよいかさえわからずにいた私たちの「罪」のただ中に、まず御自分 が率先して“十字架の恵み”をもって来臨して下さるのです。  十字架において主イエスは、死と滅びに向かう私たちの存在をことごとく担い取って 下さいました。私たちを罪と死の縄目から解放して下さり、真の自由と「永遠の生命」 を与えて下さいました。この人の身に現れた救いの出来事もまたそれと同じなのです。 「まなざし」が開かれたとはそういう「神の御業」なのです。  ところが、この救われて喜びに躍り主を讃美するこの人を、パリサイ人らは非難する のです。主イエスの弟子とされイエスが神の御子であることを証するこの人に対して「お まえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と罵ります。 そしてついにはこの人を会堂から追放し、社会から抹殺したのです。あらゆる交わりの 外に追い出し、自分だけを正当化したのです。  主イエスは、そこでこそ言われました。今朝の39節の御言葉です。「わたしがこの世 にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見え る人たちが見えないようになるためである」。まことに不思議な御言葉です。「見えない 人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」とはどういう意味で しょうか? 人間の価値観や人生哲学が変わるという意味でしょうか? それとも「悟り」 のようなものを開くという意味でしょうか? そのいずれでもありません。  むしろ主イエスはここで、まことに単純なことを語っておられます。「見えない人たち が見えるようになる」とは、今まで自分は「見えている」と思いこんでいた人たちが、 実は本当に大切な神が「見ていなかった」ことが明らかになるということです。この逆 転の中心に立ちたもうのは主イエスです。私たちの価値観や悟りで起こることではあり ません。言い換えるなら、主イエスが来られなければこの逆転は起こりえず、主イエス が来られた所にはどこにでも、この大切な逆転が起こるのです。  パリサイ人たちはいままで、自分たちは“神を見ている”と頑なに思いこんでいまし た。自分たちの目は澄んでいて清らかであり、神を見るのは自分たちだけだと思いこん でいました。「パリサイ」という言葉は「分離する」という意味です。自分たちだけが罪 深い一般民衆とは分離された特別な存在であって、自分たちだけが神を見る「まなざし」 を持っているのだと思いこんでいました。その思いこみと自尊心が事もあろうに、自分 たちが最も蔑み馬鹿にしていた「生まれつき眼の見えなかった人」によって侮辱された と感じたので、彼らは激昂したのです。許せないと思ったのです。  そればかりではなく、今度は自分たちが抹殺しようと企んでいたナザレのイエスから 「見える人たちが見えないようになるためである」と言われました。ここにパリサイ人 らの怒りは頂点に達しました。40節を見ますと「そこにイエスと一緒にいたあるパリサ イ人たちが、『それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか』」と尋ねたとあります。こ の「イエスと一緒にいたあるパリサイ人たち」とは“イエスに従っていた”という意味 ではなく、イエスの言葉尻を捕らえんとして虎視眈々と付け狙っていたという意味です。 そこに具合よく「問題発言」とすべき言葉が主イエスの口から出たものですから、ここ ぞとばかり畳みかけるように問い詰めたのです。それでは先生伺いますが、私たちパリ サイ人もこの男と同じ「眼の見えない者」だと言うのですか? 私たちも同じように「罪 人」だと言うのですか? 答え如何によっては生かしては返さぬぞという一触即発の場面 です。おそらく周囲にいた人々や弟子たちも、固唾を飲んで事の成り行きを見つめてい たのではないでしょうか。  そこで41節に、主イエスがお答えになった御言葉はこうでした。「イエスは彼らに言 われた、『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あな たがたが“見える”と言い張るところに、あなたがたの罪がある』」。主イエスはパリサ イ人らが「盲人」(眼が見えない者)であったなら、むしろ「罪」はなかったのだと言わ れます。そうではなく彼らが「見えると言い張るところ」に「罪」があるのだと言われ ました。これは彼らの意表を突くお答えでした。生れつき目が見えなかったあの人は、 自分が「見えない者」であることを知っていました。だからこそ開かれた「まなざし」 (信仰)をもって喜び勇んで主イエスにお従いし、主イエスを信ずる者になったのです。  しかしパリサイ人らは、肉眼は見えていても“霊のまなざし”(信仰)は死んだままで あり、神を見つめる「まなざし」が閉ざされていました。にもかかわらず自分たちは「神 を見ている」と自負していました。そこに「見えると言い張る罪」がありました。「生ま れつき眼の見えなかった人」はその見えない「まなざし」を主イエスに開いて戴くとい う“救いの出来事”にあずかりました。しかし「見えている」と自惚れるパリサイ人ら にはその“救いの出来事”(神の御業)は現れませんでした。そこで、自分たちは「見え ている」のだから「まなざし」を与えられる必要などないと考えたこのパリサイ人らこ そ、あんがい私たちの姿なのではないでしょうか。自分が「見えない者」だと知ってい る人は主イエスを待ち望む者とされ、自分は「神が見える」のだと自惚れている人たち は、主イエスを拒絶する者となったのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。主イエスのこの御言葉は傲慢不遜なパリ サイ人らに対する拒絶と滅びの宣告なのでしょうか。そうではないのです。なによりも 主イエスは「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」と言われた「さばき」の 意味を正しく理解せねばなりません。主がここに言われる「さばき」とは“罪と死に対 する永遠の審き”てあり、そこに私たちの本当の救いがあるのです。  旧約聖書のイザヤ書6章に預言者イザヤの召命の出来事が記されています。そこで若 き日のイザヤはイスラエルに対して次のように「語れ」と主なる神に命ぜられるのです。 イザヤ書6章9節以下です。「主は言われた、『あなたは行って、この民にこう言いなさ い』『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくり かえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたがたはこの民の心を鈍くし、 その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で 聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。  これこそ神がイスラエル(世界)に対してなされる「さばき」の内容でした。その「さ ばき」とは、自分の目、自分の耳、自分の心を頼みとして、それで自分は「救われた」 「神の民だ」と言い張っていた人々の目を、耳を、心を、あなたは閉ざしてしまいなさ いと命ぜられたことです。これは逆説のようですが、神の救いはそのように現されるの です。私たちが自分で見、自分で聞き、自分で悟り、自分を頼みとして「救われた」と 思っているあいだは、私たちの人生には「神の御業」は現わされないのです。言い換え るなら、私たちが神の御業に自分を明け渡すことなく、自分の力や自分の知恵、自分の 計画や自分の能力、自分の功績や人間関係、そういうものによって神を知ろう(神を見 よう)とするなら、そこには私たちの「救い」はないのです。  私たちは愚かな者ですから「それでなにが悪いのだ」と言い張るのです。自分にはも う充分に神が見えている。キリストがわかっている。聖霊がわかっていると思いこむの です。しいてはさらに傲慢にも、自分の人生はもうすでにキリストの御支配などなくて も充分「満たされている」と自惚れるのです。そのとき私たちの信仰生活はアクセサリ ーと同じになります。嬉しいことや楽しいことがたくさんあるうちは良いけれども、ひ とたびキリスト者であるゆえの悩みや悲しみ、試練や辱めに遭遇しますと、信仰からも 教会生活からも遠ざかってしまう。そういう上辺だけのキリスト者に私たちがなりえな いと言い切れるでしょうか。  私たちは「見える」と言い張っているあいだは本当のキリストの弟子ではないのです。 使徒パウロは手紙の中で繰り返し私たちを「救いの原点」に立ち帰らせています。ロー マ書3章21節「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによっ てあかしされて、現された。それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であっ て、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、 すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、 神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。また ガラテヤ書2章15節「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人 ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエス を信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。 それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるため である」。  それならば、このことが明らかではないでしょうか。主イエスは今朝の御言葉におい てパリサイ人らをも「キリストを信じる信仰による神からの義」を受ける「本当の救い」 へと招いておられる。主イエスが言われるとおり「見えると言い張る」ところに彼らの 「罪」があるからです。それならばその「見えると言い張る」者がキリストとの出会い によって「自分は見えていなかった」ことがわかるとき、神の御言葉による新しい生活 が始まるのです。それこそこの礼拝において起こることなのです。私たちは礼拝のたび ごとに「見えると言い張る」自分の「罪」が主イエスと共に十字架につけられたことを 知り、主イエスの「義」に甦らされる僕たちです。キリストの恵みの御支配のもとに生 きるとき、私たちはもはやそこで自分が「神を見ている、正しく知っている」と言い張 る「罪」から解放されてゆくのです。それゆえに神を正しく見ていない隣人を審く「罪」 からも自由な者とされてゆくのです。  私たちはこの礼拝のたびごとに、聖霊による生けるキリストの御支配のもとに自分の 人生を重ね合わせてゆきます。そのことによって私たちがいつの間にか身につけてしま った「見えると言い張る罪」を主の御手にお委ねし、そこから自由な者とされて、本当 の「まなざし」(信仰の生きたまなざし)を開いて戴くのです。主の御手からその「まな ざし」を戴いた者として生きるのです。そこに「見えない人たちが見えるようになる」 喜びの出来事が起こります。その喜びに全ての人が招かれているのです。  今朝のパリサイ人らの姿こそ、まさにここに集う私たち一人びとりの姿です。それな らばパリサイ人らもまた、私たちもまた、主イエスの救いの導きのもとにあり続けるよ うに、御言葉によって新しい「神を見るまなざし」のもとへと、主イエス・キリストに よる「神からの義」を受けて生きる生活へと招かれ、祝福され、救われ、新しい生活へ と遣わされているのです。