説    教     詩篇139篇7〜10節   ヨハネ福音書9章24〜38節

「辺境のキリスト」

2009・03・22(説教09131264)  「辺境」という言葉があります。人目につかない寂しい場所、荒れ果てた野原、人の手が 及ばぬ荒々しい自然が残されている場所、そのようなところを「辺境」と呼ぶのです。私が 子供の頃、東京の下町にもそうした寂しい場所があり、よく野犬の群れが屯していました。 そうした犬に囲まれて怖い思いをした経験があります。もとは飼犬であったものが人に捨て られ人の手から離れ、町はずれの寂しい辺境で群れをなしているうちに、次第に野生であっ た頃の本能が現れてきてオオカミ化してきたものなのでしょう。  そこで、実は私たち人間の心の中にこそ、そのような“魂の辺境地帯”があるのではない でしょうか。人間の心には、陽のあたる、明るい、朗らかな、清い場所ばかりがあるのでは ありません。むしろ、私たちの意志や努力や思いによっては制御されない、謎めいた未知の 暗い部分が、誰の心の中にもかならず“辺境地帯”として存在しているのではないでしょう か。  普段は意識せずにいますが、なにかのはずみで、その“魂の辺境地帯”が私たちの人生に 突如として姿を現し、暗い影を投げかけることがあります。飼い犬が野犬になるように、い つのまにか私たちの魂も、罪の衝動の赴くままに本能的な日々を過ごしていることがあるの です。そうしてついに人生を誤らせることさえあります。とりかえしのつかない罪を犯すこ ともあるのです。また、希望を持って大切な事にあたろうとする時に、そのような“魂の辺 境地帯”から、その努力をあざ笑うかのように「そんなことをしても無駄だ」という声が響 くのです。私たちの人生を、虚無と絶望にひきずりこもうとする声が“魂の辺境地帯”から 響くのです。  夏目漱石に「こころ」という小説があります。学生時代に親友を裏切ってしまった心の葛 藤を引きずる主人公が、その後の人生をただ絶望によって支配されてしまうという物語です。 あの中で主人公は、この暗い力は、自分が行こうとするあらゆる道の前に立ちふさがり、た だ一箇所「死」という道だけを空けておくのだと語っています。一人の人間存在を罪の重み が完全に押し潰してしまうまでの一部始終を描いた小説です。それはまた漱石自身の“魂の 辺境地帯”の告白でもありました。  そこで、今朝のヨハネ伝9章24節以下に登場してくるこの人も、いったい誰の犯した罪 の因果によってお前はこうなったのかと、そう言われ続けてきた人生を歩んできたのでした。 キリストの弟子たちでさえそのように問うたのでした。「先生、この人が生れつき盲人なのは、 だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と。  それに対して主イエスは、いまだかつて世界の誰も聞いたことすらない、決定的なお答え をなさいました。その答えは彼をして新しい喜びの人生を歩ませるものでした。神が備えて おられる喜びの福音の出来事の中に、主は私たちの全存在を招いておられるのです。それこ そ「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、 彼の上に現れるためである」との御言葉でした。 “魂の辺境地帯”は私たちの手には負えません。それにもかかわらず私たちはそれを自分 で背負いこもうとします。神を見失い、自分の罪の全責任を自分が背負わねばと思いこむの です。そこにこそ“魂の辺境地帯”は猛威を奮います。まさにそのような「辺境」に主イエ スは来て下さいました。主イエスが私たちのもとに来られ、そこではっきりと「生命の福音」 を告げて下さるのです。「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と…。主はこれを 御自身の十字架の恵みによって語っていて下さるのです。まさにその瞬間、その主イエスの 十字架によって、人類を堅く捕らえていた“魂の辺境地帯”は暗き力を失い、その闇が照ら されて、そこから私たち全ての者が解き放たれて、真の自由と幸いを得る者へと変えられて いったのです。  今朝の御言葉で、主イエスによって見えなかった「まなざし」を開いて戴いた人は、その 開かれた「まなざし」をもって、主イエスに従う新しい歩みを始めます。主イエスの弟子た る歩みが始まるのです。“魂の辺境地帯”が罪と死の縄目によって人を神から引き離していた とき、ただ神の御子キリストだけがそこにお立ちになり、その暗い力から彼を解き放ち、真 の自由を与えて下さったのです。その救われた喜びのゆえに、生まれ変わった者として、彼 は主イエスの弟子たる新しい歩みを、力強く始めてゆくのです。  さて、この喜びに満ち溢れる彼をパリサイ人らが尋問するのです。その意図は何とかして ナザレのイエスを罪人として処罰し、十字架にかけることにありました。ところが私たちは ここに意外な展開を見ます。それは、彼を尋問しているはずのパリサイ人らがいつのまにか、 逆に、彼によって問われているという事実です。すなわち25節を見ますと、彼はパリサイ 人らにこう申しているのです。「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ 一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。なん と見事な答えでしょうか。事実こそ全ての空論にまさるのです。神を見ることができなかっ た者が神を見、神を信じ神と共に歩む者とされた、この救いの出来事こそ、ナザレのイエス がキリストであることの何より確かな証拠なのです。  ですから「お前の目はどうして開かれたのだ?」と癒しの理由を問うパリサイ人らに、彼 は続く27節でこう答えています。「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんで した。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。 この言葉は決して揶揄や皮肉ではありません。彼自身がキリストの弟子になることを心から 喜んでいるので、あなたがたも私と同じようにキリストの弟子になりたいのか? と素朴に問 い返しているのです。もちろんパリサイ人らは「とんでもない、我々はモーセの弟子だ。あ の者がどこから来たのか、我々は知らぬ」と言います。そのパリサイ人らに彼は更に30節 でこう言うのです。「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じ ないとは、不思議千万です。わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことは お聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行なう人の言うことは、聞きいれて 下さいます。生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって 以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったなら、何一つでき なかったはずです」。  これは素晴らしい証しの言葉であり、キリストを指し示す「説教」と言うべきものです。 初代教会の人々が経験した救いの喜びがこの30節以下にそのまま現われているのです。神 はイエス・キリストによって「世界が始まって以来、聞いたことが」ないほどの救いの御業 を私たちに現わして下さいました。それは私たちの魂の「まなざし」が開かれ、神を見る者 とされ、神と共に歩む者とされた出来事です。その「まなざし」において、私たちを虜にて いた“魂の辺境地帯”はキリストの支配する場所(神の栄光の現れる所)に変えられたのです。  神は実にその独り子を賜わったほどにこの世を(神から離れた辺境であった世界そのもの を)極みまでも愛して下さいました。御子イエスによって神の限りない愛が世界に明らかに されたのです。神は御子の十字架によって“魂の辺境地帯”で罪の支配のもとにあった私た ちを罪の呪いから解放し、真の自由と平安を与えて下さいました。「あなたがたはこの世では なやみがある。しかし、勇気をだしなさい。わたしはすでに世に勝っている」と主は言われ ました。十字架において私たちの罪を全て贖い取って下さり、復活によって死と滅びに永遠 に勝利された主が、私たちの人生の唯一の救い主であられるのです。その事実にまさる幸い がどこにあるでしょうか。  だからこそこの人は、その救いの事実を単純素朴に喜びつつ証しせずにおれなかったので す。もし彼が黙ったなら石が叫んだことでしょう。あのかたは神から来たキリストだからこ そ、見えないはずの私のこの目を開いて下さった。私はあのかたが「神のキリスト」であら れると信じ、あのかたの弟子として生涯を歩みたいのですと語ったのです。  この彼を、パリサイ人らはついに追放するのです。34節には「おまえは全く罪の中に生れ ていながら、わたしたちを教えようとするのか」と言い、ついに「彼を外へ追い出した」と 記されています。この「追い出した」とは「会堂」のみならず「社会」から、また人間とし てのあらゆる交わりの中から「追放した」という意味です。村八分にしたということです。 ここにも、私たちの人生を支配し続けてきたあの“魂の辺境地帯”が再び現れるのです。「罪」 が実権を掌握し容赦なくキリストを告白する者の人生に襲いかかるとき、力ずくでもその者 をキリストの御手から引き離し、再び滅びへと引きずりこもうとするのです。その巧妙な手 段として「村八分」というこの世の悲劇を用いるのです。  使徒パウロは「あなたがたは、キリストのゆえに、ただ彼を信ずるのみならず、彼のため に苦しみを受けることをも、恵みとして賜わっている」と申しました。私たちはこの事実を 忘れていることはないでしょうか。自分の身が平穏無事な間は喜んで御言葉に耳を傾けるけ れども、ひとたび信仰のゆえの苦難がふりかかり、不利益なことが起こると、御言葉に耳を 塞ぎ、教会から離れ、神の御支配を忘れて、再び“魂の辺境地帯”へと逆戻りしてしまうこ とはないでしょうか。  それは、むしろ逆であるとパウロは言うのです。私たちが神に愛されている証拠は、私た ちが平穏無事なことではない。むしろ神は、私たちを御国に相応しい者と認めておられるか らこそ、キリストのゆえに苦しみをも恵みとして賜わっている。そのようにパウロは申すの です。ここでこの人が見ていた「恵み」もまさしくそれでした。「たとえ父母われを捨つると も、主、われを迎えたまわん」。この恵みの事実において彼は、どのような境遇にあってもキ リストの弟子としての歩みを変えなかったのです。闇はもはや彼の人生を支配しえなのです。 「罪」は彼の人生の主とはなりえないからです。同じように、キリストを信じて教会に連な って生きる私たちを、もはや罪の闇は支配しえず「主」となることはありません。 主イエスが私たちの“魂の辺境”にお立ちになり、そこで寄る辺なき私たちを十字架の愛 をもって愛して下さったことによって、もはや私たちにとって辺境は存在せず、「ただ神のみ わざが、彼の上に現れるためである」と宣言して下さった主の永遠の愛の支配のもとに生き 続ける者とされているのです。  主イエスは「罪」の唯一の贖い主、私たちの人生の慰め深き導き手として、幾度でも私た ちに出会って、私たちの「辺境」を「神の栄光の現れる場所」に変えて下さいます。私たち の生きるかぎり、御言葉の養いと恵みの支配のもとに立ち上がらせて下さるのです。それこ そが35節以下の御言葉です「イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そし て彼に会って言われた、『あなたは人の子を信じるか』。彼は答えて言った、『主よ、それはど なたですか。そのかたを信じたいのですが』。イエスは彼に言われた、『あなたは、もうその 人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である』。すると彼は、『主よ、信じま す』と言って、イエスを拝した」。  この35節以下の御言葉の背景には、当時のユダヤ社会において、キリストを信じて洗礼 を受け、教会員になったことにより、全ての人が例外なく社会から追放され、職を失い、家 族を引き離された、迫害の出来事があったのです。しかしキリスト者はそこで世捨て人の教 会を建てようとはしなかった。むしろ私たちはそこでこそキリストの御臨在の恵みを仰ぐ生 活を始めるのです。神の前に「辺境」でしかありえなかった私たちの魂、そして私たちのこ の社会、この人類の救いのために、主は御自身の全てを献げ尽くして下さり、そこに私たち の教会は建てられました。ここに連なる私たちは、キリストの御手からこの世へと(この世 のわざへと)人々のもとに遣わされてゆくのです。  私たちは教会から、キリストの平安に護られて、この世へと遣わされてゆきます。この礼 拝はこの世から逃れる避難所などではなく、私たちが御言葉による新しい生命を戴き、心を 高く上げて主の御支配のもとに生き続け、この世へと遣わされてゆくキリストの御身体です。 そのとき、もはやこの世界のどこに生きようとも、暗闇は私たちの「主」とはなりえず、キ リストが唯一永遠の「主」として私たちの全存在を照らし、導いて下さいます。キリストが 私たちに出会われ、私たちと共にいて下さるからです。「あなたは、もうその人に会っている。 今あなたと話しているのが、その人である」と主は告げて下さいます。それゆえ今朝のこの 人と共に、私たちも告白するのです。「主よ、信じます」と。