説    教   出エジプト記14章13〜14節  ヨハネ福音書9章18〜23節

「神への畏れ、人への恐れ」

2009・03・15(説教09121263)  主イエスが生まれつき眼の不自由な人の眼を開おきになった出来事は、ただ肉眼の視力を 回復されたことではなく、生まれつき神を見ること(信じること)ができなかった私たちの “魂のまなざし”をキリストが開いて下さり、神を見る者に造りかえて下さった出来事です。 だからこれは“罪からの救い”の出来事なのです。  私たち人間にとって本当に幸いであり感謝すべきことは、まさに“キリストによる救い”(罪 からの贖い)にあずかることではないでしょうか。罪によって生まれつき神を見ることができ なかった私たち、御言葉を聴きえなかった私たちが、まことの神を知りまことの神を信じ、 御言葉に生きる者とされたこと、それにまさって幸いな喜ばしいことはないのです。  だからこそ、この癒された眼の自由な人は、心の底から“キリストによる救い”を喜ぶ者 になりました。彼は主に開いて戴いたその「まなざし」をもって、キリストに従う新しい人 生を歩む者とされたいと願いました。キリストの弟子になりたいと心から願ったのです。  それならば、この人と同じように信仰の「まなざし」を開いて戴き、教会に連なる者とさ れた私たちは、そのことをいつも、全てにまさる幸いなこととして心から求めているでしょ うか。むしろ私たちは、キリストに従うことを曖昧にしてはいないでしょうか。神を見る「ま なざし」が開かれ御言葉に生きることより、自分の願いが実現すること、健康や富が増し加 えられること、仕事が成功すること、他人より少しでも豊かな人生を歩むことを、喜び求め ている私たちの姿がないでしょうか。  今日の御言葉に2人の人が登場して参ります。それは主イエスに「まなざし」を開いて戴 いた眼の不自由な人の両親です。この両親にパリサイ人らが申しますには、この眼の不自由 だった男は本当にお前たちの息子なのか? もしそうならなぜこの者の眼がいきなり見える ようになったのか? その理由を申してみよと尋問したわけであります。 そこで彼ら(両親)がパリサイ人らに答えた言葉が今朝の20節以下に記されているのです。 すなわち「両親は答えて言った、『これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人 であったことは存じています。しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知り ません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あ れはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう』」。続く22節を見ると「両 親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである」と記されています。その理由と してこうも記されています「それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂か ら追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。彼の両親が『おとなですか ら、あれに聞いて下さい』と言ったのは、そのためであった」。  ここを読んでわかることは、彼らは自分たちの息子の見えない眼を開いて下さったかたが “ナザレのイエス”であることを知っていたにもかかわらず、敢えてそれを隠していたとい う事実です。それは「ユダヤ人たちを恐れていた」からでした。つまり彼らは、神を畏れる よりも、人を恐れたのです。神の救いを証するよりも、それを聞いた人々から審きを受け、 会堂を追われることを恐れたのです。だから知らぬ存ぜぬと口を閉ざしたのです。関わりた くなかったのです。  本当ならば彼らは、自分たちの息子の信仰の「まなざし」が開かれ、神を信じる者とされ たことを心から喜ぶべきでした。そして愛する息子のために、おまえの眼を開いて下さった かたはこのかただと、真先にキリストのもとに息子を案内し、共に主に感謝し主に従う者に なるべきでした。ところが彼らは神ではなく人を恐れ、身の安全を図るばかりに、息子の身 に起こったこの喜ばしい“救いの出来事”をあたかも迷惑な事柄のように覆い隠してしまっ たのです。「あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」とは、息子を 信頼して語った言葉というよりも、むしろ自分たちとは関係がないと突き放している態度で す。訊くならどうぞ息子に訊いて下さい。私たちは関わりたくありませんと申したのです。  私たちにもこれと同じことがないでしょうか。それは私たちがこういう冷めた親子関係に あるという意味ではありません。私たちも自分の信仰生活を顧みるとき、ここ一番という大 切な時に「神を畏れずして人の顔色だけを窺うような者」になっていることがないかと思う のです。昔の文語訳の聖書では、神を畏れるという場合の“畏れ”と、人の顔色を恐れる場 合の“恐れ”とは、違う漢字を当てていました。神を畏れる場合の“畏れ”とは、聖書の本 来の言葉では「信じ従うこと」を意味します。つまり「神を畏れる」とは「神を信じて従う」 信仰の姿勢です。  ところが「人を恐れる」という場合の“恐れ”とは、その漢字からもわかりますように「恐 がる」「媚び諂う」「顔色を窺う」という意味です。使徒パウロはローマ書の8章14節と15 節において「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは 再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのであ る。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と語りました。私たち はキリストから“奴隷の恐れ”をいだかせる「奴隷の霊」ではなく「神の子」の自由の喜び を抱かしめる「子たる身分を授ける霊」すなわち「聖霊」を受けているのです。  それならば、キリストの「霊」(聖霊)を戴いている私たちが、どうして人を恐れて媚び諂 い、信仰から遠ざかったり、教会から離れて良いでしょうか。むしろ私たちは全ての人に福 音による真の祝福と慰めを担いゆく僕とされているのです。福音のみが人を真に生かしめる 「永遠の生命」であることを宣べ伝える群れとされているのです。その私たちが人を恐れる あまりその責任を放棄して良いでしょうか? ガラテヤ書1章10節にもあるとおりです「今 わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あ るいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしている とすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」。  この御言葉は私たち一人びとりの信仰生活に直接に当て嵌まることです。教会の中での奉 仕のわざひとつを取ってもそうだと思うのです。自分はこれだけのことをしている。それな のにあの人は…という思いで信仰の仲間を見るとき、既にそこに審きの思いや偽りの心が生 まれてくるのです。自分という人間を基準にして他人を見るとき、そこには不平不満しか残 らないのです。それこそ道元禅師ではありませんが「他は是我にあらず更にいずくの時をか 待たん」です。自分は今これをなすべきゆえになすのだということが本当の奉仕の心です。  私たちは神から大きな恵み、道元禅師も知らなかった祝福を戴いているのではないでしょ うか。それは私たちは、十字架にかかりたもうた主イエス・キリストによって、見えなかっ たはずの信仰の「まなざし」を開いて戴いた者たちだということです。まことの神を信じ御 言葉に聴き従う教会生活を与えられていることです。その生活の中でこそ私たちは、自分を 基準にしではなく、キリストを基準にして、他人をも自分をも見る生きた「信仰のまなざし」 を持つ者とされています。「この兄弟のためにも、主は十字架にかかられたのだ」と知る者の 生きた信仰の「まなざし」です。そのとき、たとえ奉仕をなすにせよ、他の何をなすにせよ、 それはいつも自分が神に対して献げる感謝の応答となり、ただ神に栄光を帰すべきものとな るのです。  キリストの弟子たちもそうでした。人の顔色を恐れていた時の弟子たちはまだ「キリスト の僕」ではありえなかったのです。ペテロなどは主イエスに対して「たとえあなたと一緒に 死なねばならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と大見栄を切り ました。しかしその舌の根も乾かぬうちにペテロは人の顔色を恐れて3度も主の御名を拒み、 主を裏切る罪を犯したのです。この姿は私たちと無関係ではありません。私たちもまた信仰 生活の中で、人の顔色を恐れるあまりペテロのようにキリストを裏切る罪を犯すのではない でしょうか? 礼拝への出席にしてもそうです。日曜日に礼拝を休む言訳は幾らでもあります。 その忙しい世の中で私たちは意を決してキリストに従う姿勢なくしては、本当の礼拝生活を することはできません。人の顔色をではなく神を畏れる生活が求められているのです。  主を裏切った罪に気がついたペテロは、暗い外に飛び出してゆき、そこで「主の御言葉を 思い起こして」「泣き続けた」と記されています。キリストを裏切ったペテロを再び立ち上が らせ、キリストの恵みの御支配のもとに立ち帰らせたのは「神の御言葉」でした。それは私 たちにも今ここで与えられている恵みです。私たちは、いつも、どこででも、主の御言葉に 聴く者とされているのです。それともなお私たちは御言葉を聴くべき耳を閉ざして、自分の 心の暗闇と向き合い続けているのでしょうか。  何よりも、あそこでペテロが思い起こした主の御言葉とは、それは主がペテロに「シモン よ、シモンよ、サタンはあなたを麦のようにふるいにかけることを願って、ゆるされた。し かし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あ なたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」とお命じになったルカ伝22 章31節の御言葉でした。主が約束して下さいました。「ペテロよ、あなたは必ず立ち直る。 あなたは人を恐れて、その結果、絶望に陥り、死をさえ願うであろう。しかしそのあなたの 信仰を、私がいつも祈りにおいて支え、御言葉によって育んでいる。私の贖いの恵みのもと に、あなたは生き続ける者とされている。だから忘れないでいなさい。罪の力がどんなに強 くあなたを捕らえても、私の恵みに勝つことはできない。死に打ち勝つ生命にあなたはいま 結ばれている。あなたは永遠に私の恵みのもとにある」。そのように主はペテロに語って下さ いました。まさにここに集う私たちにも、同じように主は語っていて下さるのです。  カール・バルトという神学者が、あるクリスマスの説教の中で興味ぶかいことを語ってい ます。ベツレヘム郊外の野で野宿しながら羊の群れの番をしていたあの羊飼いたち…。彼ら は「主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、いたく畏れた」と記されている。ここにバルト は注目するのです。注意せよ! 彼らが「恐れた」のは自分たちを取り巻く夜の闇ではなかっ た。むしろ彼らは、自分たちをめぐり照らした「神の栄光」を「畏れた」のだ。私たちはど うであろうか。バルトがこの説教をしたのはヒトラーが政権を掌握した時代です。全世界を 恐るべき暗闇が支配しようとしている。しかし私たちはいまどちらを真に「畏れる」者とし て(どちらを信じ、仕える者として)主の御前に召されているのか? 私たちはこの世の暗闇に ではなく、この世の暗闇に与えられた「神の栄光」を「畏れる」僕とされているのだ!  そしてバルトは言うのです。もし私たちが「神の栄光」を畏れずしてこの世の暗闇をのみ 恐れるなら、私たちはその闇に呑みこまれてしまう。しかしもし私たちが真に畏れるべきか たを「神の栄光」のみを畏れる者として生きるなら、私たちはこの世のあらゆる闇の現実に 対して、本当の希望と救いを証する者とされるだろう。  バルトはそれを「本来的な畏れと、非本来的な恐れ」と呼びます。人間にとって「本来的 な畏れ」は神への畏れのみです。そして「非本来的な恐れ」とは人への恐れです。第一コリ ント書13章10節に「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」と記されています。 そのように本来的な畏れである“神への畏れ”、神を信じ神に従う人生のみが、非本来的な恐 れから私たちを自由にするのです。その逆に本来的な畏れ、神への信仰を失うとき、私たち の人生はいつでも“この世の恐れ”に支配されたものになってしまうのです。  私たちはいま、どちらの畏れ(恐れ)に生きているのでしょうか? 「神への畏れ」かそれ とも「人への恐れ」か。主イエス・キリストの十字架によって罪を贖われ、神を信じる者と された私たちが本当に生きるべき「本来的な畏れ」それはいつもイエス・キリストを“わが 主・・救い主”と告白し、教会に連なって礼拝者として生きることなのです。そして私たち はこの主の教会に連なって生きるとき、私たちを絶望と死に引きこむあらゆる「この世の恐 れ」に対して、キリストの恵みの支配が勝利していることを告げ知らされている者として、 人生のあらゆる試みの中で、キリストに立ち帰って生きる者とされているのです。あのペテ ロのように、キリストの主権のもとに見事に立ち帰って生きる新しい人生を、私たちはこの 礼拝において歩み始めるのです。 まさにいま、この私たちを生かし支えている神の恵みとして、ただ神のみを畏れ、人を恐 れず、神を愛し、人を愛する、祝福の歩みが与えられていること、そこに私たち一人びとり が召されていることを感謝し、聖霊によって力を与えられた僕たちとして、ただキリストの みを主とし、仰ぎつつ、新しい一週の歩みへと出て参りたく思います。