説    教    エレミヤ書9章23〜24節  ヨハネ福音書9章8〜17節

「キリストへの開眼」

2009・03・08(説教09101262)  今から1250年前の西暦752年4月9日、当時の平城京(奈良の都)に東大寺大仏殿が 完成し、大仏(金銅瑠遮那仏)の開眼供養が行われました。出席者の中には西域(今日の アフガニスタンやイラン)から出席した僧もいたと伝えられています。キリスト教ネスト リウス派の宣教師が招かれていたという記録もあります。  そのとき大仏の開眼に用いられた筆が今でも正倉院に保存されています。竹製の筆の 軸だけが残っているのですが、基の部分に水晶が嵌めこまれた、直径5センチはあろう かと思われる立派なその筆を見ますと、当時の人々が大仏開眼に寄せた志と喜びのさま が偲ばれるのです。  そこで、物言わぬ偶像である一個の仏像の開眼においてさえ、かくも大きな喜びがあ るとするなら、ましてや真の神を見る「まなざし」が開かれた時の喜びと幸いはいかば かりでありましょうか。またそのような「まなさし」が開かれることをいかに多くの人々 が願っていることでありましょうか。  私ごとですが、私には目の不自由な友人がおります。もう30年以上もの付き合いで す。私はこの友人との交際の中でしばしば「見る」ということの本当の意味について考 えさせられました。この友人は大阪出身の人で、私は東京の生まれです。しかし、私は 東京の地理で分からないことがあると必ず彼に訊いていました。たとえば地下鉄でどこ かに行く場合、どこで何線に乗り換えて何番の出口で出るということまで彼に訊けば分 かるのです。  また私とその友人は学生時代にボルツァーノという哲学者に興味を持ち、よくその著 作をドイツ語で読みました。私が朗読するのを彼は黙って聴いている。何時間も経って から彼が突然私に言うのです「さっき読んだ何章何節の最初から何番目の文章をもう一 度読んで欲しい」。そして驚くほど的確な評論をするのです。物事の本質を正確に捉えて いるのです。つまり、私は肉眼が見えていながら見るべきものを見てはおらず、彼は肉 眼こそ見えないけれども、見るべきものをきちんと把握していたということです。  主イエス・キリストとの出会いによって、生まれつき見えなかった「まなざし」が開 かれた人に、周囲の人々は「この人は、すわって乞食をしていた者ではないか」と言い、 それを受けて他の人々も「そうだ、その人だ」と言い、またその他の人々は「そうでは ない、ただあの人に似ているだけだ」と言ったのでした。「まなざし」を開かれた人は一 人なのに、その人を巡って様々な見解が交錯しています。私たちはここにも、肉眼が見 えているはずの私たちの目が、実は見るべきものを何も見てはおらず、逆に見えていな かったはずのこの人が、見るべきおかたを正しく見ていたということを知るのです。  なによりも本人の口が、自分の身に起こった出来事を正確に言いあらわしているので す。9節の最後に「しかし、本人は『わたしがそれだ』と言った」とあることです。あ の「生まれつき」見えなかった者はまさしく「この私」であり、その私の「まなざし」 あのかた(キリスト)が開いて下さった。私がその癒された者なのだと、この人は自らを “キリストに癒された者”(まなざしを開かれた者)として人々の前に大胆に言いあらわ しているのです。  そこで、もしこの人の「救い」が、ただ肉眼の視力の回復だけにあったとしたら、こ のような大胆な言いあらわしは起こらなかったのではないでしょうか。もしそうなら彼 は視力が回復したことをただ喜び、いざこざを避けて身を隠していれば良かったのです。 そのほうが好都合であったはずです。しかし彼は身を隠すことをせず、自分の「まなざ し」を開いて下さったかた(キリスト)を訪ね求めはじめるのです。それはそのおかたを “救い主”キリストとして信じる者とされたからです。キリストへの開眼がそこに起こ ったからです。  肉眼において閉ざされていた彼の「まなさし」が開かれたとは、信仰をもってキリス トを見る者とされたことです。キリストを信じることこそ真の「まなざし」が開かれる ことです。その逆に、肉眼が見えていたはずの人々は、キリストの姿は見えていました がキリストを“救い主”と信じなかったのです。キリストが見えていなかったのです。 ここに逆転が起こっています。見えなかった者がキリストを見る者とされ、見えている はずの者たちがキリストを見ていないということです。 それは、こういうことではないでしょうか。私たちは教会に通いはじめて洗礼を受け た頃の自分を思い返してみるとよいのです。それは礼拝を通して語られる聖書の御言葉 によって救い主なるキリストに“出会った”という経験です。言い換えるなら、私たち もまた生まれつき「まなざし」が見えなかった盲人であったのに、キリストが私たちの 「まなざし」を開いて下さった恵みによって、キリストを“救い主”と信ずる者とされ たことなのです。  しかしそれなら、私たちの信仰の歩みは、ただそこで止まってしまって良いのでしょ うか? ファウストのように「時間よ、止まれ」と自分に命ずるだけで良いのでしょうか? そうではなく、またそうであってはならないでしょう。私たちはただキリストを信じて 洗礼を受けた恵みに「とどまる」だけではなく、むしろ私たちはそこからいつもキリス トを見つめて生きる「新しい歩み」を始めてゆくのです。それがキリストを「告白する」 ということです。だから信仰の歩みを「信じ、告白する」と聖書では申します。この「告 白する」ことこそ、主に開いて戴いた「まなざし」(教会に連なる生きた信仰)によって、 人生のあらゆる歩みの中でキリストを見上げてキリストに従ってゆく新しい生活をする ことなのです。「キリスト告白者としての生活」です。それこそが教会生活なのです。教 会とは使徒パウロが言うように「ただキリストを信じることだけではなく、キリストの ために苦しみを受けることをも、恵みとして賜わっている」ことを知る群れだからです。  同じことをパウロはローマ書10章9節以下にこう語っています「すなわち、自分の 口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえら せたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白 して救われるからである」。  もちろん、私たちが罪から贖われて「救われる」のはキリストを救い主と「信じる」 信仰によることです。だからこそパウロは「心に信じて義とされる」と断言するのです。 この「義とされる」とは“神の民とされる”ということです。罪と死の支配のもとにあ った私たちが神の永遠の愛と恵みの主権のもとに迎えられ、真の自由を与えられたとい うことです。死と滅びの支配の中から、キリストの復活の生命の支配のもとに移して戴 いたということです。  北鎌に東慶寺という有名な「駆け込み寺」があります。昔は女性の地位が低く、非道 な夫から離縁したいと思っても、女性の側からは何もできませんでした。しかしそんな 女性が鎌倉の東慶寺に「駆け込んで」三年間奉公すれば、寺の権威によって女性の側か らの離縁が成立したのです。ある一人の女性が残虐非道な夫に耐えかねて東慶寺に逃げ ようとしました。あと少しで山門を潜るというところで追手に捕らえられそうになった。 咄嗟にこの女性は簪を門の内側に投げこんだ。当時の住職であった覚山という尼僧は、 たとえ簪一個であってもこの女性のものが寺の内側に入った以上、寺に入門したことで あると言って、この女性を保護したという逸話があります。  それなら、われらの主イエス・キリストはなおさらではないでしょうか。主は教会に 集い教会に連なる者たちを、二度と再び罪と死の支配に引き戻されるようなかたではな いのです。だからこそパウロの言う「信じて、義とされる」という言葉は重いのです。 キリストを信じて教会に連なることは、私たちがキリストの恵みの支配のもとに「入門 した」ということです。“キリストの主権”という永遠に揺るがぬ門の内側に「駆け込ん だ」ことです。そのような私たちをキリストは絶対に罪と死の支配から保護し守って下 さるのです。  それでは私たちは、もうここにいれば安全だ大丈夫だと言って(つまり自分はもう「義 とされた」からと言って)安穏としているだけで良いのか? そうではないと思います。 今度は私たちが、キリストに対する喜びと感謝の生活を造ってゆくのです。それが「口 で告白して救われる」とパウロが語っていることです。この「救われる」とは「キリス トの救いの恵みが、私たちの生命そのものになる」という意味です。私たちはキリスト を信じて「義とされた」ことによって既に救われている。それは確かです。キリストの 主権の中に「駆け込んだ」瞬間からキリストの庇護のもとにあるのです。だから安心し て良いのです。だからこそ、さらに「キリストの救いの恵みが、私たちの生命そのもの になる」まで信仰生活は前進してゆかねばなりません。キリストによって救われた私た ちは、キリストへと向けてさらに成長してゆかねばなりません。それが「口で告白して 救われる」ということなのです。  それは今朝の御言葉の、この「まなざし」を開かれた人の姿そのものなのです。この 人は視力が回復したことだけで「よし」とはしなかった。その開かれた「まなざし」に おいて(日々の生活において)キリストを告白しキリストに従う歩みを始めていったので す。「心で信じて、義とされる」のみならず「口で告白して、救われる」者へと成長して いったのです。 彼は疑う人々に、自分が救われた経緯を語りはじめます。身の危険をもかえりみず、 救われた証しをするのです。そして12節を見ますと、人々は彼に「その人はどこにい るのか」と問うています。彼は「知りません」と答えています。この「知りません」と は「誰か私にそのかた(キリスト)を教えて下さい」という意味です。ここに彼の切実な 願いがありました。救われた者として、キリストの恵みが自分の生命そのものとなった ことを喜び、キリストの恵みが日々の生活の中に現わされてゆく、そのような新しい人 生を歩む者になりたいと願ったのです。  キリストに従う者になりたい。それがこの人の切なる願いでした。そこで人々は彼を パリサイ人のもとに連れて行きます。パリサイ人ならキリストを知っているに違いない と思ったのです。しかし期待は見事に裏切られました。パリサイ人たちは彼をひと目見 るや否や、その日が安息日であるということを理由に「その人は神からきた人ではない。 安息日を守っていないのだから」と言い、イエスがキリストであることを否定したので す。しかし民衆の中に「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行なうことができ ようか」と主張する者たちがあり、そのようにして「彼らの間に分争が生じた」と16 節には記されているのです。  ついに業を煮やしたパリサイ人らは17節に、この人を直接に尋問します「おまえの 目をあけてくれたその人を、どう思うか」。彼ははっきりと答えます「預言者だと思いま す」。これは素晴らしい答えです。この人はおそらく「キリスト」という言葉を知らなか ったのでしょう。しかし自分に「まなざし」を与えて下さったかたのことを「預言者だ と思う」と告白したのです。この「預言者」とは「神から遣わされたかた」という意味 です。「神の御言葉をもって私を救って下さるかた」という意味です。私はあのかたがど このどなたであるかを知らない。しかし私は確信する。あのかたこそ神から遣わされ、 神の御言葉を私たちに語って下さり、私たちを救って下さるかただということを…。そ のかたの御言葉によって、私は神が見えなかったのに、神を見る「まなざし」を開いて 戴いた。まことの神を信じる者へと生まれ変わらせて戴いた。だからどうか、あのかた の居場所を教えて下さいとパリサイ人たちに願ったのです。  それならば、ここに集うている私たちはどうなのでしょうか? 私たちは主イエスの御 姿をいつも御言葉によって「見ている者たち」ではないでしょうか? 私たちは主のおら れるところを「知っている者たち」ではないでしょうか。すなわちキリストは“教会の 主”であられ、それゆえに聖霊によって、いつも私たちと共におられるかたです。それ ならば、私たちは今朝の御言葉のこの人のように、キリストの御跡に従いたいといつも 願っているでしょうか? 私たちは自分の生活の全体がキリストの恵みの満ち溢れる場 所であるときちんと自覚しているでしょうか? 私たちはこの人と共にキリスト告白者 として健やかに立っているでしょうか?  キリストに従うことは、私たちが聖人君子のようになり、欠点も恥もシミも汚れもな い完璧な人間になることではありません。もしそうならば誰一人としてキリストの弟子 とはなりえないでしょう。そうではなく「キリストに従う」とは今朝の御言葉のこの癒 された人のように、自分に目を向けるのではなく、ただキリストにのみまなざしを注ぎ、 キリストを「わが主、救い主」と告白する者になることです。  この人も、物乞いをしていた一人のみすぼらしい人間にすぎませんでした。しかしそ のみすぼらしい姿のままで、彼はキリストに従う新しい信仰の歩みを始めるのです。自 分は恥ずかしい人間だからキリストに従うことなど出来ないというのではないのです。 主に開いて戴いたその「まなざし」(キリストへと開眼させて戴いたその目)をもって、 ひたすらにキリストの愛と真実、恵みと慈しみの豊かさ、確かさに生き続ける者となる のです。バッハのカンタータにあるように「さればわれ再びイエスよりまなざしを離さ ざるべし」。キリストから「まなざし」を離さない。私を捉えていて下さるかたを見つめ て生きるのです。そのとき私たちの日々の生活そのものが、キリストの恵み、キリスト の生命、キリストの愛の満ち溢れる場所とされてゆくのです。  私たちがいま何を持っているかではない。主が私たちに何をなさってろうとしておら れるか…ただそれだけが大切なのです。私たちがどのように自分を誇りうるかではなく、 主が私たちに何を見させて下さるかが大切なのです。私たちの確かさではなく、キリス トの救いの恵みの確かさだけが大切なのです。私たちがより頼むものではなく、キリス トが私たちを贖って下さった事実のみが大切なのです。  主は私たち全ての者のために十字架にかかられ、御自分の生命の全てを献げ尽くして 下さいました。ずたずたに破れ傷ついた、恥と悩みとに満ちたその御姿においてこそ、 私たちの罪を決定的に担い取って下さったのです。私たちはこの日この礼拝において、 心新たに十字架の主を仰ぎ見る者とされています。そこに私たちの、そして全世界の救 いがあるからです。そこにあらゆる閉ざされた「まなざし」が真理へと向けて開眼して ゆく唯一の道があるのです。そのことを信じ告白する者として、いっそう喜びと感謝を もって主イエスに従いゆく私たちでありたいと思います。