説     教   イザヤ書35章5〜7節   ヨハネ福音書9章1〜7節

「因果応報からの救い」

2009・03・01(説教09091261)  ヨハネによる福音書の第9章には、主イエス・キリストが生まれつきの盲人の目をお 開きになり、見えるようにされたという奇跡の出来事と、それに引き続いて起こったか なり長いパリサイ人との論争が記されています。主イエスが盲人を癒されたという出来 事は、聖書のこの箇所以外にもマルコ伝8章22節以下の「ベツサイにおける盲人の癒 し」や、同じくマルコ伝10章46節以下の「盲人バルテマイの癒し」などが有名です。  ところが、今朝のこのヨハネ伝9章1節以下は二つの点でマルコ伝の記事とは違うの です。第一に、ここで癒されたのは「生まれつきの盲人」であったということ、第二に、 ここでは癒された人の信仰ではなく、ただ主イエスの御業だけが現わされているという ことです。  それはある日の昼下がり、主イエスが弟子たちと共に道を歩んでおられた時のことで した。主はエルサレムの街角で「生まれつきの盲人」をご覧になり、彼にまなざしをお 留めになったのです。「道端」にいたというのですから、あのバルテマイがそうであった ように、この人もまた物乞いをしていたのかもしれません。いずれにせよ、主イエスの まなざしがこの「生まれつきの」一人の「盲人」に注がれたとき、弟子たちはここぞと ばかりに積年の疑問を主イエスに投げかけたのです。それは「先生、この人が生まれつ き盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」 という疑問でした。  生れた時から全く目が見えなかったこの人は、いわばずっと“光のない世界”いや「光」 の存在すら知りえぬ世界に生きてきたのでした。おそらく彼がそれまでに経験した辛さ や苦しみは筆舌に尽くしえぬものであったでしょう。文字どおり「闇の中」を一人でこ の人は歩んできたのでした。  神がお造りになり統治しておられるこの世界に、なぜ筆舌に尽くし難い苦しみや不条 理や悲しみが存在するのか。これは私たち人間にとって解きえぬ深刻な問題です。主イ エスの弟子たちもこの「生まれつきの盲人」を見て、この疑問を主イエスに投げかけた のです。「先生どうしてなのですか」と問うのです。この人が「生まれつき盲人なのは、 だれが罪を犯したため」なのですか。「本人ですか、それともその両親ですか」と訊ねる のです。  実はすでにこの弟子たちの問いの中に、私たちは私たちがしばしば抱く、人生の苦難 の問題に対する一つの“合理的解釈”を見ることができます。それはこの世において人 間が受ける苦しみは、その人が過去に犯した「罪の報い」なのだという考えかたです。 これを「苦難応報説」または「因果応報説」と申します。仏教などで言う「善因善果、 悪因悪果」という考えかたです。特に日本では昔から「天網疎にして人を洩らさず」と 申しました。悪い事をすれば、人は見ていなくても天は必ず見ている。そしてその人に 必ず報いを与える。そういう考えかたです。だからその人が「苦しみ」を受けていると いうことは、すなわちその人が過去に犯した因果の報いを受けているのだということに なるのです。この「因果応報」の考えかたこそ私たち日本人の生活の隅々にまで染みわ たっている人生観だと言えるのです。  実は、古代のイスラエルや旧約聖書の中にも似たような考えかたがありました。特に 詩篇や箴言やヨブ記などを見ますと「苦難応報説」ともいうべき人生観が当時のイスラ エルの人々にもあったことが見うけられるのです。理由のわからない苦しみや悲しみ理 由を何とかして突き止めたいという人間の願いは古今東西変わりがないようです。だか らこの時の弟子たちにとっても、どうしてこの人は「生まれつきの盲人」なのか、その 理由を主イエスに訊ねることによって人生そのものの謎に迫ろうとしたと言えるのでは ないでしょうか。少なくとも面白半分の問いではなかったと思うのです。  しかし、その問いが“面白半分ではなかった”ことが、その苦しむ本人の慰めや解決 になるかというとそれは別です。おそらく弟子たちのこの声はこの盲人にも聞こえてい たでしょう。そしてそれはどんなに深く彼の心を傷つけたことでしょうか。彼が生れて このかたずっと苦しめられ続けてきた“審きの声”をここでも新しく聞いただけのこと です。むしろ明け透けな好奇心のほうが楽なぐらいでした。ましてや弟子たちのこの声 は、この盲人の苦しみや悲しみを共に担おうとするものではないのです。いわば「見え る」という立場にいる者が「見えない」者への哲学的な興味を示したにすぎないのです。 だからその問いに明確な答えが与えられたとしても、それは少しもこの盲人の「救い」 とはならないのです。仮に過去の自分の罪や、親や先祖の罪がわかったところで、それ が現実の彼にとって何の意味があるのでしょうか。  さて、弟子たちはこの盲人の苦しみに対して「(それは)だれが罪を犯したためなので すか」と、その原因と責任が「だれ」にあるかを問いました。しかし主イエスのお答え は全く意表を突くものでした。主イエスは「だれが罪を犯した」のかではなく、その苦 難の意味と目的は何であるかをもってお答えになったのです。それが3節の御言葉です 「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでも ない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」。  主イエスはこの人が「生まれつき」見えないことが「だれの罪」によるのかを問題に はなさいません。弟子たちやユダヤの人々、また私たちさえもがそうであるように、そ れが「本人の罪か、それとも両親(先祖)の罪か」などということを詮索されないのです。 私たちは理由がわからない苦しみに出遭うと、その理由をすぐに過去に求めようとしま す。過去に帰ることに解決があるように錯覚するのです。しかし主イエスは過去に帰る ことではなく、神が与えておられる新しい「時」の到来と「約束」の成就の中に、すで に私たちの人生全体が祝福され、受け止められ、新しい「光」が与えられていることを 明らかにされるのです。  だから一見するところ、主イエスは弟子たちの問いに直接に答えておられないように 見えるのですが、実は最も深く正しい答えを与えておられるのです。それは主が弟子た ちの問いの言葉にではなく、まさにこの盲人の苦しみと悲しみそのものに御手をもって 触れて下さったことでした。見えるはずのないこの人の目に主イエスのまなざしが注が れるとき、そこに私たちの思いを超えた全く新しいことが起こるのであります。主イエ スはこの人の生まれつきの苦しみの原因を過去に求めることではなく、むしろこの人の 見えない目に、御言葉と御霊による永遠の「光」を与えること、つまり過去という冷酷 な運命の堅い扉を開く「神のみわざ」を現すことによって、この人の魂の本当の飢え渇 きに答えて下さったのです。  弟子たちの誰もが、否、私たちの誰もが「生まれつきの」盲目という決定的な運命の 堅い扉の前になすすべもなく佇み、言葉を失い、因果応報(過去の罪)にその答えを見出 そうとするとき、この世界で主イエスただお一人が、その堅い扉を愛と恵みの御力をも って打ち開いて下さり、彼の苦しみと悲しみの全てを御自身の身に担って下さり、彼の 見えないはずの目を癒し「真の光」へと開いて下さったのです。  今朝の御言葉の4節から6節はヨハネによる後の加筆部分で、おそらく14節に繋が る言葉であろうと言われています。それはともかく、ここで私たちが注目すべきは6節 と7節において、主イエスがこの盲人の目に泥を塗られ、その目を「シロアムの池に行 って洗いなさい」とお命じになったことです。特に7節の括弧の中にこの「シロアム」 とは「つかわされた者の意」であると注釈がつけられています。ここで主イエスはこの 盲人に対して御自分が神から「つかわされた」かた、すなわちキリストであることを明 らかにしておられるのです。あるドイツの神学者はこの御言葉について「盲目の男がシ ロアムの水を通して光を受けるように、信仰は“つかわされた者”であるイエスを通し て、啓示の光・救いの光へと我らを導く」と語っています。  まさにこの「つかわされた者」とは「神から遣わされた者」という意味であってキリ ストのことなのです。それならば今朝の御言葉において私たちは、私たちの「救い」は ただ神の御子イエス・キリストにあるのだということを明確に告げられているのです。 今朝のこのヨハネ伝9章の御言葉は「差別意識からの解放」という読みかたをされる場 合があるのですが、そうすると主イエスがここで開いておられる「まなざし」の意味が 不明確になってしまいます。「罪とは差別の別名である」ということになりますと、差別 されている人と差別意識のない人には「罪」はないという奇妙な人間論が成り立つこと になります。私たちに告げられている福音はその程度のものではないのです。  何よりもこの「生まれつきの盲人」とは、実は私たち自身のことなのです。私たちこ そ、たとえ肉体の目は見えていても、本当に大切な「神からの光」(イエス・キリストの 愛と恵み)は少しも見えていないのではないでしょうか。たとえ肉眼は開いていても「霊 の眼」は閉ざされたままなのではないでしょうか。私たちは自分の人生が、絵に譬えて 言うならば彩り豊かな、健康と富と安逸に満たされた、そういう意味で豊かなものであ ることを願っています。しかし実際には自分の人生という名のキャンバスにそうした理 想的な絵は描くことができず、色彩が乏しいことを私たちは嘆くのです。自分の人生は 「なんて暗い絵なのか」とつぶやくのです。しかし、これはジョン・ラスキンという人 の言葉ですが「われに黒のみを与えよ、さらばわれ、それをもて明るき絵を描かん」。ラ スキンという人は19世紀イギリスの思想家で、マハトマ・ガンジー、アンリ・ベルグ ソン、マルセル・プルーストなどに大きな影響を与えた人です。いつも神に信頼し教会 に連なる本物の信仰を持っていた人です。  自分の人生にたとえ「黒」という単一の色しか与えられていなくても、自分はその色 を神から与えられた大切なものとして、自分の人生というキャンバスに「明るい絵」を 描くことができると言うのです。キリストが贖い主であられるからです。だからその明 るさは単なる理想主義や楽天家の明るさではなく、神から遣わされたおかた(イエス・キ リスト)に全ての罪を贖われ、赦され、新たな生命を与えられた恵みを知る者の明るさで す。決して解きえぬ人生の謎のただ中で、苦しみや悲しみのただ中で、そこにこそ響き わたる主イエスの恵みと祝福の御声に立ち上がった者のみが持ちうる本当の明るさです。 その主イエスの御声こそ今朝の3節にほかなりません。「本人が罪を犯したのでもなく、 また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。  主イエスの前に立つ「生まれつきの盲人」とは私たちのことです。私たちの内なる恐 るべき「罪」という闇(神に対する背きと滅びの現実)が私たちの人生を虜にし私たち の神へのまなざしを閉ざしているのです。しかしそこにただ一人のかたが私たちのもと に来て下さり、私たちの閉ざされた目にまなざしを注いで下さいます。そこで「ただ神 のみわざが現れるために…」と宣言して、私たちを過去のあらゆる足枷から自由にし、 いま御自身の恵みの主権において到来している新たな光を見る者として下さいます。私 たちの盲いた眼を開いて下さいます。まさに「神のみわざが(私たちの上に)現れる」 その時を私たちは迎えているのです。 主はまことに私たちに光を与え、御国の民となして下さるために、遣わされた者とし て、あらゆる罪の闇の現実の中に来臨して下さいました。そこでこそ私たちと永遠に共 にいて下さいます。主イエスがこの世の闇に、私たちの罪の闇にまなざしをお留めにな るとき、そこで「神のみわざ」を現して下さるとき、もはや闇はその「光」に打ち勝つ ことはないのです。生まれつきの盲人でしかありえなかった私たちが、そこでキリスト の光に照らされ、キリストの御姿を見る者とされるのです。たとえ黒一色の絵具しか持 ちえない私たちの人生であっても、主がその色をどんなに豊かに用いて下さることか…。 私たちの人生全体を通して、御自身の愛と祝福の豊かさを描くものとてして下さるので す。私たちの人生にキリストの御業が満ち溢れてゆくのです。その幸いを知る者として、 新しい一週間の信仰の旅路へと、心を高く上げて勤しみ進んで参りたいと思います。