説    教   創世記12章1〜4節 ヨハネ福音書8章52〜59節

「永遠なる神」

2009・02・22(説教09081260)  主イエス・キリストは非常に謙遜なかたです。決してご自分の側から進んでご自分 が「キリスト」であり「神の御子」であることを明らかにはなさいません。しかし主 イエスの謙遜は、真理を損ない福音を曲げ人々をして道を誤らせる者たちに対しては 毅然として語るべきことをお語りになる“本当の謙遜”でした。主イエスの謙遜は父 なる神に対する全き従順でありましたゆえに、福音を曲げ人間を損なわんとする力に 対しては主イエスは決然と対峙せられ、神の御心を世に明らかになさったのです。  今朝の御言葉において、パリサイ人たちは主イエスに対して「あなたが悪霊に取り つかれていることが、今かった」と口を極めて主イエスを非難しています。その理由 は51節と52節に示されているように、主イエスが「わたしの言葉を守る者はいつま でも死を見る(味わう)ことがないであろう」と仰せになったことでした。いつの時 代にも神の言葉は罪の力にとっては“つまずきの石”ですが、悔改めて神に立ち帰る 人々にとっては神の建物(教会)を建てる「隅のかしら石」となるのです。御言葉の前 に罪の力がつまずき倒れるところ、そこに“神の救いの御業”が現れ教会が建てられ てゆくのです。  そこで今朝の御言葉です。主の御言葉を聞いたパリサイ人らは主イエスを嘲笑い高 ぶって言いました。おまえはついに馬脚を現した「アブラハムは死に、預言者たちも 死んでいる。それだのに、あなたは『わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わう ことがないであろう』と言われる」。そして53節以下にこう申したのです「あなたは、 わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだでは ないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。これこそパリサイ人た ちが主イエスに突きつけた核心を突く問いでした。もっとも彼らは主イエスからお答 えを聞く以前に、既に自分たちで答えを用意しています。だからこそ主イエスを「悪 霊に取りつかれた者」と嘲笑ったのです。その答えとは「ナザレ人イエスはキリスト などではありえない」というものでした。  「信仰の父」アブラハムでさえも死んで葬られ、預言者たちもみな同じように死ん だではないか。それなら“人に生命を与える”というあなたはアブラハムよりも偉大 な者なのか?…そのように彼らは罵ったのでした。キリスト(神が世に遣わされた救 い主)ではありえない者が、どうして人に“死を超えた生命”を与える言葉を語りう るだろうかと罵ったのです。  マタイ伝の16章13節以下に、ピリポ・カイザリヤで主イエスが十二弟子たちにお 訊ねになった大切な問いが記されています。それは主イエスが弟子たちに「人々は人 の子(主イエス)をだれと言っているか」とお訊ねになったことでした。弟子たちは 口々に答えて申しました。「ある人々はバプテスマのヨハネだと言い、他の人たちはエ リヤだと言い、またはエレミヤのような預言者だ、と言っている人もいます」。すると 最後に主イエスは弟子たちにこうお訊ねになったのです「それでは、あなたがたはわ たしをだれと言うか」。  信仰生活において大切なことは、周囲の人々や社会がイエス・キリストについてど う評価しどのように理解しているかということではありません。大切な唯一のことは、 いつも私たち自身がどのように主イエスを信じ・告白しているかということなのです。 この点がしっかりしていないと、私たちの信仰生活は社会の風潮や時代の趨勢に翻弄 される浮草のようになってしまいます。政治家はいつも世論の支持率を気にするもの ですが、教会に生きる私たちキリスト者が仮初にも社会の支持率とキリストへの従順 を天秤にかけることがあってはなりません。  先週神戸で行われた「第55回全国連合長老会宣教協議会」は明治から昭和初期に かけての日本基督教会の指導者・植村正久牧師についての学びでした。珍しいことで す。私は感動しつつ主題講演を聴きました。私たちの教会の友愛会でも昨年かなり丁 寧に植村正久牧師の説教を読みました。それはとても幸いな経験でした。そこには今 日の私たちが受け継ぎ、また継承すべき教会形成と信仰の姿勢が明確に示されている と思います。熊野義孝先生は「日本キリスト教神学思想史」の中で植村正久の神学を 「戦いの神学」と言い表しました。それは植村の生涯を通して静かな毅然たる勇気あ る数々の戦いが主の真の教会形成のためになされたからです。 特に1891年(明治24年)の第一高等中学校における内村鑑三の「教育勅語不敬事 件」に対する擁護論、1893年(明治26年)の井上哲次郎との教育論論争、そして1902 年(明治35年)の海老名弾正とのキリスト論論争などが特筆されるものです。その いずれもが決して過去の事件ではなく、今日の教会形成にも繋がる大切な問題である と思います。ひと言で言うならばそれは「本当に神の言葉を聴き、キリストを主と告 白するならば、そのとき私たちは真に自由な者となる」という問題でした。逆に言う なら私たちが正しく御言葉を聴いておらず、キリスト告白者として堅く立っていない とき、私たちを数々の因習や観念が支配するのです。  たとえば植村牧師は1891年の「教育勅語不敬事件」の擁護に関して、この問題は 突き詰めて言うなら“人間の良心を冒しうる権威はこの世に存在するか否か”の問題 であると見抜いています。教育勅語に敬礼をしないことが国家を侮辱するという考え そのものが短絡に過ぎないと語ります。「吾人は新教徒として、万王の王なる基督の肖 像にすら礼拝することを好まず。何故に人類の影像を拝すべきの道理ありや。吾人は 上帝の啓示せる聖書に対して低頭拝礼することを不可とす、また之を潔しとせず。何 故に今上陛下の勅語にのみ拝礼をなすべきや。人間の儀礼には道理の判然せざるもの 少なからずと雖も、吾人は今日の小学中学等に於て行はるる影像の敬礼、勅語の拝礼 を以て殆ど児戯に類することなりと言わずんばあらず…陛下を敬するの意を誤まり、 教育の精神を害し…(明治の御代に)不動明王の神符、水天宮の影像を珍重すると同 一なる悪弊を養成せんとす。吾人は敢て宗教の点より之を非難せず。皇上に忠良なる 日本国民として、文明的の教育を賛成する一人として、人類の尊貴を維持せんと欲す る一丈夫として、かかる弊害を駁撃せざるを得ず。之を駁撃するのみならず、中学校 より、また小学校より、是等の習俗を一掃するは国民の義務なりと信ずるなり」。  「それでは、あなたはわたしをだれと言うか」との主の厳粛な問いかけに対して、 弟子たち(つまり教会)を代表してペテロが答えたのです。「あなたこそ、生ける神の 子キリストです」と。その告白に生活と存在の全体をもっていつも忠実であり続ける 私たちとされているのではないでしょうか。私たちは改めてこのヨハネ伝8章31,32 節を心に留めざるをえません。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あな たがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真 理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。  実は今日のこのヨハネ伝8章52節以下の御言葉において、問われているのはパリ サイ人のほうであって主イエスではありません。パリサイ人たち、否、私たちこそ主 イエスから「あなたがたは、わたしをだれと言うか」と問われているのです。私たち が「あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」と主イエスを問うのではな いのです。主イエスの問いにこそ答えねばならない私たちなのです。それならここで もパリサイ人たち、否、私たちは本末転倒した姿を主の御前に曝しているのではない でしょうか。主に問われている私たちがその問いを無視して、逆に主を試みようとし ているとすれば、それこそ私たち自らが「悪霊(罪)の支配を受けている」と言わざ るをえないからです。  そこでこそ、主は永遠なる神として救いの福音を告げていて下さいます。主イエス はパリサイ人らをさえ救おうとされるかたです。私たちの眠った良心を目覚めさせ、 悔改めと永遠の生命へと導くために、御言葉を大胆にお語りになります。そこでこそ 御自分がいかなるおかたであるかを鮮やかに示したまいます。それが今朝の54節以 下の御言葉です。「イエスは答えられた、『わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わ たしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であ って、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。あなたが たはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言 うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知 り、その御言を守っている。あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見よう として楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ』」。  ここに決定的な福音の真理が明らかにされました。私たちを救う“永遠なる神”の 御心が示されたのです。アブラハムはキリスト・イエスの「日」を「見ようとして楽 しんだ」のです。この「楽しんだ」とは「神を信じ頼みとした」という字です。アブ ラハムはイエス・キリストの父なる神を信じ、来るべきキリストの来臨を待ち望む信 仰に生きた人なのです。だからこれを聞いたパリサイ人らは自らの非を悟り、悔改め て主イエスを信じなければならないはずでした。しかし逆にパリサイ人らは主イエス に「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」と逆上して問うた のです。アブラハムの時代から千年以上も過ぎている。それなのにあなたはどうして 「アブラハムを見た」などと言えるのかと怒り猛ったのです。  主イエスは彼らのこの逆上した問いにも決定的な慰めの御言葉をもってお答えにな ります。それが58節です。「よく、よく、あなたがたに言っておく。アブラハムの生 れる前からわたしは、いるのである」。これを聞いたパリサイ人らが主イエスに石を「投 げつけ」て殺そうとしたことは、彼らが主イエスのこの御言葉にいかに大きく“つま ずいた”かの現れです。主イエスはまさにこの御言葉によって、御自分が歴史を超え た存在、すなわち神と等しいおかたであることを公に言い表されたのです。御自分が 永遠の昔から父なる神と共におられる“永遠なる神の御子”であられることを明確に されたのです。しかしパリサイ人らにとって、まさにこれこそ神を冒涜する言葉に聞 こえたのでした。  使徒パウロは「十字架の主イエス・キリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、 ギリシヤ人には愚かなもの」であると語っています。とりわけ神の「義」と「聖」な ることを信じるユダヤ人にとって、その神の御子が朽つべき人の子の姿で世にお生ま れになり、呪いの十字架を担って死なれたということは「つまずき」以外の何物でも ありませんでした。しかしそれは人間が自分で自分を救いうるとする律法の立場を守 る限りにおいてです。私たち人間の罪は律法の立場などではとうてい救われないほど 大きな根深いものです。むしろ律法によっては罪が増し加わるばかりなのです。パウ ロはこの「律法」こそ私たちそのものだと理解しています。つまり“律法によっては 私たちは救われない”とは“私たちの内には私たちの救いは無い”ということです。 それが律法に限りなく忠実であったパリサイ人サウロ(のちの使徒パウロ)の結論で した。この世界の内側には世界と人間の救いは存在しないのです。  それならどこに、私たちとこの世界の本当の「救い」があるのでしょう?。みなさ んはサルとネコの子供の運びかたの違いをご存知でしょうか。サルは子ザルが母ザル にしがみついています。それに対してネコは子ネコが母ネコに運ばれています。その 違いが私たちの「救い」にも譬えられると思います。私たちの信仰は“サル型”では いけないのです。子ザルのしがみつく力が弱ったり、疲れたり、子ザルが病気になれ ば、母ザルから落ちてしまうからです。それに対して“ネコ型”は違います。たとえ 私たちが何もできなくても、弱ったり、病気になっても、母ネコが子ネコを運ぶよう に、主は私たちを最後まで運んで下さるのです。繋がっていて下さるのです。 そのことを主イエスは同じヨハネ伝15章5節に“ぶどうの木と枝の譬え”でお語 りになりました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたし につながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結 ぶようになる」。この15章5節でいちばん大切なことは「また、わたしがその人とつ ながっていれば」という主の約束です。最初の「人がわたしにつながっており」とは 私たちの信仰告白です。キリストを信じ教会に連なって生きる生活です。しかしそこ にさらに大きな主の約束が響いています。それが「わたしがその人とつながっておれ ば」ということです。これは私たちのために主が担われた十字架をさしています。私 たちの信仰生活の唯一の永遠の基盤は十字架の主の一方的な恵みにあるのです。私た ちの側の信仰の深さや確かさではなく、キリストの恵みの真実の確かさに私たちの「救 い」があるのです。  主イエス・キリストは、永遠なる神の、永遠なる御子であられる。ニカイア信条に あるように「神と同質」なるかたです。だからこそこのかたによる「救い」は私たち のあらゆる罪の力をも打ち砕き、私たちを罪の支配から自由にし、死を超えた新しい 復活の生命を、信ずる者すべてに与えるものなのです。  だからパウロは第二コリント書5章17節に語っています。「だれでもキリストにあ るならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべて が新しくなったのである」。「キリストと結ばれる人は誰でも」と聖書は告げているの です。誰でも無条件でキリストと共に、キリストの永遠の恵みの主権のもとを歩む者 とされているのです。だから私たちはあのアブラハムのように主イエスを信頼し、主 イエスに結ばれた者とされていることを喜び受け入れるのです。そうできるのはただ 「恵み」によるのです。キリストを主と告白し教会に連なって生きるとき、私たちは 主にありて「勝ちえて余りある」者とならせて戴けるのです。  そのおかたこそ、私たちの唯一永遠の救い主なのです。永遠なる神の御子のみが、 十字架という決定的な救いの恵みをもって私たちと共にいて下さり、また世にある全 ての人々を等しく招いておられるのです。そこに私たちの尽きせぬ喜びがあり、慰め があります。この主を信じ告白し、主の復活の御身体なる教会に連なって生きる私た ちの人生そのものに、主にある喜びと慰めが満ち溢れてゆきます。その喜びと慰めに おいて、いよいよ心を高く上げて、主に従ってゆく私たちでありたいと思います。