説    教   詩篇77篇11〜15節  ヨハネ福音書8章48〜51節

「贖い主なる神」

2009・02・15(説教09071259) 主イエス・キリストはパリサイ人や律法学者たちをも救おうとなさいます。だからこ そ彼らに福音をお語りになります。しかし主が語られる御言葉を彼らは聴く耳を持と うとはせず、却って主を貶める言葉を投げつけてくるのです。それが今朝お読みしま したヨハネ伝8章48節以下の御言葉です。  ここにパリサイ派の人々は、主イエスのことを「悪霊に取りつかれている」と非難 しました。すなわち48節に「ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、『あなたはサマ リヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか』」と 記されているとおりです。  自分たちの主張が通らないとき、相手を“悪霊に取りつかれている”と非難するの はなにもパリサイ人だけではなく、すべて独善的かつ短絡的な人々の取る常套手段で す。自分こそ“絶対の真理”だと主張する者にとって、反対する相手はすべて“悪” であり、自分たちこそ“正義”なのです。だから彼らは主イエスのことを「悪霊に取 りつかれている」と非難しました。加えて、主イエスはここで「サマリヤ人」とも呼 ばれています。  主イエスは現実には「サマリヤ人」ではなく「ナザレ人」であったはずです。しか し主イエスがパリサイ人らによって交際を禁じられていたサマリヤを通って旅をされ、 しかもスカルの町で出会われた女性と対話をされ、彼女を信仰へと導かれ、また多く のサマリヤ人たちを救いへと導いたことがパリサイ人らの逆鱗に触れたのでした。だ からここで彼らが「あなたはサマリヤ人(ではないか)」と主イエスに語ったのは「あ なたはあの忌まわしく恥ずべきサマリヤ人の友ではないか」という意味なのです。あ なたは“あのサマリヤの汚れた連中”の「友」であるなら、それこそあなたは本当に 「悪霊に取りつかれている」とわれわれが言うのは「当然ではないか」とパリサイ人 らは申したのです。  私たちの教会で青年会が再開されて半年あまりが経ちました。とても幸いなこと です。しかしその前にこういう段階がありました。メンバーである青年たちと共にマ ルコによる福音書をかなり丁寧に学ぶということをいたしました。マルコ福音書の中 にも「悪霊」あるいは「汚れた霊」という言葉が出てきます。「いったいこれは何をさ しているのか?」が問題となりました。私はそこではっきりと「それは人間の(私た ちの)“罪”をさしている」のだと申しました。私たちはたとえどんなに強く頼もしく 見えても「悪霊」つまり「罪」の力に対しては全く無力なのです。常に敗北する以外 にありません。 ドストエフスキーがその名も「悪霊」という小説を書いていますが、あそこでも悪 霊の正体は人間を神の愛の御支配から引き離し永遠の滅びへと至らせる“罪の力”で す。あそこでドストエフスキーが描く主人公スタヴローギンの姿は、いわゆる悪魔的 (デモーニッシュ)な力を振るう人間ではなく、むしろ虚無と不信に陥った無力な人 間の姿であり、その無力さのゆえにこそ「悪霊」の支配に身を委ねてしまう私たちの 姿なのです。だから誰でもが「悪霊」の支配を受けてしまう、受けざるをえない。そ こにドストエフスキーが見抜いた人間の真相があるのです。  だからこそ、そこでこそ、いつも聖書の御言葉が告げている確かな事実が(福音が) あります。それは主イエス・キリストは、私たちの罪の唯一の「贖い主」として、い つも「悪霊」や「汚れた霊」に勝利しておられる。その恵みの勝利の御手の中に私た ちを捕えていて下さるという事実です。主が私たちと共におられて救いの御業をなさ るところ、そこに「悪霊」の力は打ち砕かれ、私たちは主の確かな恵みに支えられて 歩む者とされるのです。 だから、本当に大切な唯一のことは「悪霊」(罪)の力に対して神の御子・主イエス・ キリストのみが永遠に勝利しておられるという福音の事実のみです。しかもこのおか たは、ただ力において「悪霊」に勝利されただけではない。私たちのために呪いの十 字架を背負って下さったことにおいて、その御苦しみと死の深みのゆえに、罪に対し て永遠に勝利したもうたおかたなのです。  そこで、聖書が私たちにいつも明確に語っていることは、私たちが十字架の主イエ ス・キリストを「贖い主」と信じ告白し、主の御身体である教会に連なって生きると き、私たちは常に変ることなくキリストの愛と恵みの御支配のもとにあるのであって、 もはや「悪霊」(罪)はキリストのものとされた私たちに何の支配も持ちえないという 決定的な勝利の音信(おとずれ)なのです。これを使徒パウロは「キリスト・イエス による絶大な勝利」と語りました。言い換えるなら、ここでパリサイ人たちは主イエ スを「悪霊」と罵っておりますが、実は彼らこそその「悪霊」すなわち「罪」の支配 から解放されるべく、キリストによって「絶大な勝利」のもとに招かれている者たち なのです。ところが彼らはその大切な事実を悟ろうともせず、むしろ真理の御言葉に 対して耳をふさぎ、主イエスこそ「悪霊に取りつかれている」と口をきわめて非難す るのです。  それならば、私たち人間はなんと神の前にさかしまな存在なのでしょうか。神の子 を「悪霊」と呼び、自分たちは「悪霊」の支配を受けながらそれを認めようとはしな いのです。小林秀雄というすぐれた評論家が戦前に書いたある評論の中で、現代人は 「悪霊」という言葉をせせら笑うけれども、ではドストエフスキーの「悪霊」に描か れたスタヴローギンのような人間が存在しないかどうか答えてみよと語っています。 そこで小林秀雄が語るのは当時台頭しつつあったヒトラーの姿です。スタヴローギン とヒトラーとの驚くべき類似性を観よ…。彼は虚無と不信によって捕えられた無力な 人間であるゆえに、悪霊は彼において「信じがたいほどの猛威を世に振るうであろう」 と。事実はそのとおりになりました。  それならば、聖書において私たちが直面する私たち自身の姿はなおさら、無力であ るゆえに「悪霊」(罪)の支配を受けてしまう人間の姿なのではないでしょうか。私た ちは今朝の御言葉によって厳粛な二者択一を迫られています。信仰の決断を求められ ているのです。キリストの御支配を拒み、罪の支配に留まり続けるのか。それともキ リストの恵みの御支配のもとに立ち「キリスト・イエスによる絶大な勝利」によって、 罪の支配から解放された「新しい人」になるのか…。この選択の前に中立な(責任を 持たない)人間は一人もいません。「罪」は私たちの外にではなく、私たちの内にこそ あるからです。そして十字架のキリストがあなたのためにいま「贖い主」として来て おられるからです。  今朝の御言葉の49節以下をご覧下さい。「イエスは答えられた、『わたしは、悪霊 に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたは わたしを軽んじている。わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが 別にある。そのかたは、またさばくかたである。よく、よく言っておく。もし人がわ たしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう』」。  まずここに主イエスは、罪の本質は神を「軽んじる」ことにあると言われます。こ の「軽んじる」とは「叛く」とか「従わない」いう意味の言葉です。かつて1812年、 ナポレオンによるロシア遠征が百年に一度という大寒波によって55万人にも及ぶ犠 牲者を出して敗退しました。そこに前兆がありました。渡り鳥の群れが例年よりも早 く南に向かう“しるし”に、異常に厳しい冬の到来を予知した一人の兵士がいたので す。しかし一兵卒の意見にすぎぬということで「軽んじた」ためにあの悲劇が起こっ たのです。生きてフランスに帰れた兵士はわずか2万人だった言われています。歴史 においてそのような実例は枚挙に暇がありません。神の御言葉に聴き従うことにおい てはなおさらではないでしょうか。「叛き、従わない」私たちであってはならないので す。  さらに、主イエスはこうも言われます「わたしは自分の栄光を求めてはいない。そ れを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである」と。この「さばき」 とは「悪霊」すなわち「罪」に対する審きです。実は私たちは罪を正しく審きえない 者です。そもそも罪の中に存在し、罪を離れては存在しえない私たちが、どうして罪 を正しく審くことができるでしょうか。そして罪を審きえないとは、自分自身の中に 罪を解決するいかなる力も持ちえないということです。自分の中に救いの可能性を持 たないということです。しかし、主イエスは父なる神の「栄光」のみをお求めになり、 父なる神の御救いのみを世に現されるおかたなのです。  これを譬えて言うならば、レンズに譬えることができるでしょう。レンズの役目は 光を通すことです。そのためにはレンズは透明でなければなりません。本当に透明な 不純物のないレンズは、自分は少しも輝かずただ光だけを通します。不純物が多く混 じったレンズ(ガラス)ほど自分が輝くものです。灯台の光を遠くまでまっすぐ届か せるためには不純物のない非常に透明度の高いレンズが必要です。それと同じように 主イエス・キリストは「自分の栄光を求めない」おかたとして、あたかも純粋に透明 なレンズのように、神から遠く離れて暗黒の中にある私たちのもとにまで福音の真理 の光をまっすぐ届かせて下さるのです。御自分が輝かず、私たちを神の民として輝か しめるために、主はあの十字架を担われたのです。罪に対して無力でしかありえない 私たちを、主は御言葉の光によって父なる神のもとに立ち返らせて下さり、私たちの 罪を全て贖い、尊い救いへと導いて下さいました。  その救いの「絶大な勝利」の恵みによって、主イエスは今朝の51節にこう言われ るのです。「よく、よく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はい つまでも死を見ることがないであろう」。これはなんと驚くべき言葉でしょうか。否、 なによりもパリサイ人らが驚いたことでしょう。こともあろうにこの「悪霊に取りつ かれた」イエスは、自分の言葉が人々に“死に打ち勝つ生命”を与えるものだと語っ ている。人間の言葉がどうして死に打ち勝つ生命を与ええようか。あのアブラハムも モーセも洗礼者ヨハネもみな死んだではないか。それなのにこの人は自分を神に等し い者だと言うのか…。そのように彼らは思ったのです。実際にこの主イエスの51節 の言葉によって、来るべき十字架が確定したと言ってもよいのです。やがてあの大祭 司カヤパの法廷においてパリサイ人らは口々に証言をすることになるのです。「この ナザレのイエスは、自分を神に等しい者だとした。これは十字架の死にあたる罪であ る」と。  しかし、まさに主の御言葉が私たちに“死に打ち勝つ真の生命”を与えるものであ るからこそ、私たちはイエス・キリストによって罪と死から贖われ、救われるのでは ないでしょうか。確かに人間の言葉には死に打ち勝つ生命はありません。パリサイ人 らの言うとおりです。しかし主イエスは永遠なる神のまことの御子(独り子)であら れます。神と等しいおかた、ニカイア信条の言葉で言うなら「神と同質」なるかたで す。神と同質であるとは、このかたによって私たちは神の限りない愛と恵みを知る者 とされているということです。神は漠然とした存在ではなく、イエス・キリストを信 ずる者は神と共にある者とされ、イエス・キリストの御身体である教会において御言 葉を聴く私たちは、主の御手から生命の糧を戴いて、罪と死に打ち勝つ新しい生命に 生きる僕とされているのです。  それゆえ教会においては、特に私たち長老教会においては「神の御言葉の3つの形」 ということが重んじられました。神の御言葉は、?書き記され読まれる神の言葉であ る聖書、?宣教される神の言葉である説教、?食べられる神の言葉である聖礼典(聖 餐)という「3つの形」で私たちに与えられるのです。そして聖書と説教と聖礼典の 3つは連続性を持っています。その連続性こそ“聖霊によるキリストの現臨”です。 十字架と復活の主が私たちと共に、生きていまここにおられることです。御言葉が正 しく宣べ伝えられ、正しく聴かれるところに、キリスト御自身が現臨しておられるの です。そこに罪と死の支配は力を失い、キリストの愛と恵みの御支配が打ち立てられ てゆきます。そこに、私たちが本当に人間として生きるべき真の自由と平安と喜びに 満ちた新しい生命があります。そこに私たちはもちろんのこと、すべての人々が招か れているのです。  「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないで あろう」と主は言われました。まことにその通りです。この言葉こそ、私たちがその まま信じ受け入れるべき福音です。そして主の御言葉を「守る」と訳された元々の言 葉(テレオー)は“御言葉を聴き続けて生きる信仰の姿勢”をあらわします。御言葉 を、聖書と、教会の説教と、聖礼典においてお語りになる主に、私たちのまなざしを 注ぎつつ主に従う歩みをすることです。それこそ礼拝者としての生活です。その礼拝 者としての歩みの中でこそ、私たちは生命を与える福音の御言葉による新しい歩みへ と導かれてゆきます。そこに私たちの魂の放浪は終わりを告げ、主が賜わる平安と勇 気と希望に満たされて、主の御支配のもとを歩む、新しい人生が造られてゆくのです。  かつてインドに一人の伝道者がいました。神学校で教育を受けた人ではなく、教会 によって「贖い主」なるキリストの恵みを知り、洗礼を受けて新しくされた人です。 彼は市場や人々が集まる所に出かけていって、そこで出会う人々に「あなたはどうし て、こんなに素晴らしい贖い主のことを知らないのですか?」とキリストの愛と恵み を宣べ伝えました。その働きによって数千人もの人々が教会に導かれ洗礼を受けたそ うです。私たちは真似をする必要はないかもしれません。しかし贖い主キリストの愛 と恵みとを知れば知るほど、私たち自らの生活が祝福を物語るものへと変えられてゆ くのです。その恵みと幸いに、いま生きる私たちとされているのです。