説    教    詩篇103篇1〜5節   ヨハネ福音書8章42〜47節

「生命の福音」

2009・02・08(説教09061258)  何が人間を本当に活かすものなのか、人間は何によって本当に生きた者となるのか、そ れが、古今東西を問わず、人間社会の最も重要な関心事でした。人間はただ物質的に満た されていれば充分なのではありません。むしろ物質の氾濫した今日においてこそ、人間の 心を深く蝕む不幸な状況(精神的な貧困)が多いのではないでしょうか。そこに人間と他 の生物との決定的な違いがあります。私たちは人生の目的を物質の充足に置くことはでき ないのです。目に見えることだけに人生の目的を置くことはできないのです。そこに人間 の問題の本当の難しさがあるのです。  かつて「社会主義」という名の壮大な実験が地球上の国家を東西両陣営に二分して行な われました。マルクスの理論によれば社会主義革命の完成によって人類は永遠に階級闘争 から解放され、搾取と抑圧のない理想的社会が実現されるはずでした。しかし結果はそう ではなく、70年にも及ぶ社会主義革命の実験は大きな混乱と分裂を残して終わりを告げま した。今なお国際社会はその余波である数々の民族主義・新国家主義のイデオロギーと対 決を余儀なくされています。テロリズムや戦争の問題もその中で起っているのです。  人間は何によって“本当に生きた者”となるのでしょうか。この答えは簡単なものでは ありません。それが分からないからこそ今日の社会はかくも混乱していると言えるのです。 現代は真理の分極化、真理乱立の時代です。どこにでも解決がありそうに見えて、何処に も解決がないのが現代です。このような時代に、聖書の御言葉は何を私たちに告げている のでしょうか。私たちは主イエスが語られた福音の御言葉に心の耳を澄ませたいのです。  主イエスは言われます。今朝のヨハネ伝8章43節です。「どうしてあなたがたは、わた しの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないから である」。  ここに主イエスは、御言葉を「悟る」という、聖書では珍しい言葉を用いておられます。 「悟り」というとなにか仏教用語のように思いますが、決してそうではありません。聖書 にも「悟り」が語られています。ただし私たちが思うような意味ではありません。聖書の 元々の言葉で「悟る」とは「耳が開かれる」という意味です。どうか気をつけて下さい「耳 を開く」ではありません「耳が開かれる」という受け身の言葉なのです。キリストが「主」 であられることを知ることです。それが聖書の語る「悟り」なのです。  私たちはここに、主イエスがなさったある癒しの出来事を思い起こします。マルコ伝7 章31節以下です。ガリラヤの海辺で御言葉を語っておられた主イエスのもとに、群衆が 「耳が聞えず口がきけない(ひとりの)人」を連れてきました。すると主イエスはその人 をただ一人「群衆の中から連れ出し」彼の両耳と口とを「エパタ」(開けよ)と言って開い て下さったのです。この人は主イエスの救いによって神の言葉を聴き、主の御名を讃美す る者に変えられました。神の言葉が聴こえるない私たちの耳、神を讃美しえない私たちの 口を、主イエスが「開いて下さった」のです。ここにこそ聖書が語る「悟り」の出来事が はっきりと示されているのです。  それならば、主イエスがユダヤの人々に「あなたがたは、わたしの言葉を悟らない」と 言われたことは、主イエスを「信じない」ということと同じなのです。「悟らない」とは「主 イエスを信じない」ということであり「悟る」とは「主イエスを信じる」ことだからです。 ここに仏教とキリスト教の「悟り」の決定的な違いがあります。仏教の「悟り」は“自分 自身の内なるものに目覚めること”ですが、聖書が語る「悟り」とは“神の御子イエス・ キリストを信じること”です。ただそれによってのみ、御言葉を正しく聴く耳が開かれる のです。「悟り」の主体はイエス・キリストであって私たちではないということが大切です。  まさにこの「悟り」から今朝の御言葉が正しく読み解かれてゆきます。すなわち主イエ スは続く44節に「悪魔」という激烈な言葉を用いて、私たちの「罪」を指摘なさいます。 「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおり を行おうとして思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない彼の うちには真理がないからである」。これだけを読みますといかにも厳しい言葉です。強い叱 責のように聞こえますけれども、主イエスは私たちを限りなく愛したもうゆえにこそ、私 たちを支配している“罪の現実”に対して仮借なき叱責をお与えになるのです。  「悪魔」と訳された元々のギリシヤ語“サターナー”からサタン(悪魔)という言葉が 生れました。その本来の意味は「神に叛かせる者」ということです。私たちを神の御言葉 に叛かせるのです。私たちの人生を支配し、巧みに人の心を撹乱して、神の言葉を聴こえ なくさせ、神に背かせようとするのがサタン(罪)の常套手段です。この世界には神の言 葉なんかより価値あるもの(魅力的なもの)がたくさんあるとサタンは私たちを誘惑する のです。「神の愛」に気づかせなくさせ「神の恵み」を知ることがないように巧みな誘惑を 用いて私たちの心を麻痺させるのです。私たちは知らず知らずの内に主が言われるとおり、 この「悪魔」の「欲望どおりを行なおうと思っている」者にさせられてしまうのです。  この世のどんな知恵も、名誉も、学問も、経験も、知識も、この悪魔の策略に対しては 全く無力です。むしろこの世的な力に富めば富むほど私たちは悪魔の誘惑に陥りやすく、 御言葉に叛く者にされてしまうのです。「彼(悪魔)は最初から人殺しであって、真理に立 つ者ではない。彼のうちには真理がないからである」と主は言われました。私たちこそ「真 理を持たない」点では同じなのです。私たちの力では「罪の正体」を見破ることはできま せん。あたかも「罪」が人を活かすものであるかのように見えてしまうのです。神ではあ りえぬものを神として拝んでしまうのです。そして自分たちは「アブラハムの子」である、 神のわざを行う者であると自惚れ、他者を審こうとするのです。  今朝の44節にあるように「罪」の「本音」は常に「偽り」です。だからキリストが「真 理」の御言葉、人を活かす唯一の神の言葉を語られても「罪」はそれを「悟る」ことがで きません。45節に主は「わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じよう としない」と言われました。これはほんらい逆でしょう。キリストが「真理」を語られる からこそ、私たちはキリストを信じるのではないか。しかし現実には「偽り」を愛する「罪」 が私たちを支配しているので、私たちは「真理」を憎みキリストに叛く者となるのです。 それほど私たちは「さかさまな存在」(ハイデルベルク信仰問答)なのです。今朝の聖書の 御言葉は恐るべき深みにおいて私たちの「罪」の真相を明らかにします。この私たちのど こに「救い」があるだろうかと思われるほどなのですか。  しかし、そこでこそ、今朝の46節以下の御言葉が響くのです。「あなたがたのうち、だ れがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがた は、わたしを信じないのか。神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従 わないのは、神からきた者でないからである」。この厳しい主の御言葉がほかならぬ私たち 一人びとりに向けられていることは明らかです。それならば、この、どこにも“救い”な どありえないように見える私たちの“罪の現実”のただ中にこそ、主イエス・キリストは 私たちを永遠に活かしめる“生命の御言葉”を与えていて下さるのです。聴こえないはず の私たちの耳を、神を讃美しえないはずの私たちの口を、「エパタ」(開けよ)と言われて 「開いて下さる」のです。  旧約聖書のイザヤ書6章には預言者イザヤの召命の出来事が記されています。イザヤは まだ青年であった時(紀元前740年)に主なる神の召しを戴いて預言者とされました。イ ザヤが聖なる神の現臨に接したとき「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わた しは穢れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が 万軍の主なる神を見たのだから」と申しました。しかし主なる神は、イザヤの口と言葉と を「燃える火」をもって清めて下さり、罪の赦しの恵みにおいて、新しい霊の生命を与え て下さいました。その恵みによってイザヤは謹んで応える者となるので。「ここにわたしが おります。わたしを(あなたの御用のため)おつかわしください」と…。  そのとき、主なる神はイザヤにこう言われました「あなたは行って、この民にこう言い なさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはく りかえし見るがよい、しかしわかってはならない。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳 を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、そ の心で悟り、悔い改めていやされることのないためである』」。  これはまことに不思議な御言葉です。預言者の務めは人々に神の御言葉を聞かせ、悟ら せ、見せることではないでしょうか。それなのに主なる神は全く逆のことをお命じになる。 あなたはこの民の心と耳と目を「閉ざして」しまいなさいと言われるのです。それはなぜ かと言うと、彼らは自分自身の心で「もう神の言葉など充分に聞いている」と自惚れてい るからだ。自分自身の心で「神の御心を充分に理解」し、自分自身の目で「神の御姿を見 ている」と思いこんでいるからだ。それではいけない。それでは人は決して活きた者(悟 った者)とはならない。それでは罪の支配から自由になることはできない。むしろ使徒パ ウロのいう「行いによる義」に陥ってしまうのです。自分自身を救いの根拠とすることで す。それではいけないと主なる神は言われたのです。むしろあなたは、その民の耳と心と 目とを「閉ざして」しまいなさいと言われたのです。  ては、主なる神がなされたことは、民の耳と心と口とを「閉ざすこと」だけだったので しょうか。もちろんそうではありません。自分の耳と心と目などいかに頼りにならぬもの であるかを人々にわからせ、人々に本当の「悟り」を与えるために主なる神はイザヤをお 遣わしになったのです。それなら、神の御子主イエスが世に来られたことはなおさらその ためではないでしょうか。主イエスは私たちに本当の「悟り」を与えて下さいます。その 「悟り」とは「イエス・キリストを主と告白する信仰」です。そして主の御身体なる教会 に連なる新しい歩みです。私たちの耳、私たちの心、私たちの目、私たちの行いが、私た ちを救うのではない。救いはただイエス・キリストのみにあるのです。  私たちのあらゆる不確かさを打ち破って、主イエス・キリスト御自身が私たちの確かな “永遠の救い”の唯一の根拠となって下さるのです。それがパウロの言う「イエス・キリ ストを信ずる信仰による神からの義」を受けることです。救いの根拠は私たち自身にでは なく、ただ私たちのために御苦しみを受け、十字架におかかりになり、復活せられた主イ エス・キリストにあるのです。それが聖書が人類に、そしてこの現代社会に力強く告げる 福音のおとずれであり、人をして真に活かしめる“生命の福音”なのです。  再び今朝の御言葉の47節に戻りましょう。「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あ なたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」と主は言われました。大 切なことは、ここに「神から来た」唯一のおかたが“私たちと共におられる”という事実 です。教会は十字架と復活の主の御身体であり、私たちは教会に連なることによって「神 から来た」唯一のおかたに堅く結ばれて信仰の道を歩むのです。それならば私たちは、い まここにおいて礼拝者として神の御言葉に聴き従う新しい生命を与えられているのです。 御言葉に叛かしめるサタンの誘惑に屈することのない、キリストの絶大な勝利の御手にい ま支えられているのです。  それこそ、キリストの教会であり、キリストの教会に連なる私たちの新しい生命なので す。私たちは「行いによる義」によってではなく「イエス・キリストを信じる信仰による 神からの義」によって真に活きた者となるのです。主は同じヨハネ伝の6章63節にこう 言われました「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあな たがたに話した言葉は霊であり、また命である」。主の御言葉こそが「霊であり、また命」 なのです。その御言葉が私たちの全生活を“神の恵みの支配”に根ざす喜びと平安の生活 となすのです。この主の御贖いの恵みによって新しい生命によみがえらされた私たちに、 もはや罪の支配(悪魔)は何もなしえません。キリストの恵みの主権が私たちと共にある からです。キリストの生命が私たちを活かしめるからです。キリストが私たちを救われた からです。この音信こそ、私たちが今日の御言葉を通して新たに聴くべき“生命の福音” の御言葉なのです。