説     教   創世記15章1〜6節   ヨハネ福音書8章37〜42節

「御父にいます神」

2009・02・01(説教09051257)  私たちはみな「これだけは絶対に譲れない」というものを持っているのではないでしょう か。自分にとって「こだわり」というものがあるのではないでしょうか。それが「良いもの」 ならば問題はありません。しかしえてして私たちは頑なに些細なことに心が捕われているこ とが多いのです。それなくして“自分はもはや自分ではない”と思いこんでいるのです。  イスラエルの民、ユダヤの人々にとって、それは「アブラハムの子孫」と呼ばれることで した。その名称こそ彼らにとって最高の名誉であり「誇り」とすることでした。この名称だ けは誰にも奪わてははならない。もしこれが傷つけられたら生命をかけてでも戦うだけだと 頑なに思いこんでいたのです。  ところがこともあろうに、その最も誇りとし頼みとする「アブラハムの子孫」という名称 を主イエス・キリストは彼らから奪い取っておしまいになる。それが今朝のヨハネ伝8章37 節以下の御言葉です。「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。 それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうち に根をおろしていないからである。わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、 あなたがたは自分の父から聞いたことを行なっている」。  ここで主は「わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の 父から聞いたことを行なっている」と語っておられます。この主が言われる「わたしの父」 とはもちろん“父なる神”のことです。それなら「あなたがたは自分の父から聞いたことを 行なっている」とは「あなたがたは肉なる誇り(自分自身)だけを頼みとしていて、天の父 なる神の御言葉に生きてはいない」ということです。「あなたがたは神の御言葉を聴いてはい ない」それなのに「アブラハムの子孫」だと自称するのはどういうわけか?…と主は言われ たのです。  「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの物語は旧約聖書・創世記12章以下に出てまいりま す。彼は75歳のとき神の御言葉に従い、故郷ハランを出て約束の地(イスラエル)へと旅 立ちました。そのとき彼はまだ「アブラム」という名でしたが、神は彼の信仰による従順を よしとされて、彼に「アブラハム」(諸国民の父)という新しい名を賜わります。それが創世 記17章1節以下にある“アブラハム契約”の出来事です。  「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である。 あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの 子孫を増すであろう』。アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、『わたしはあなた と契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムと は言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の 父とするからである』」。  そして同時に今朝あわせてお読みした創世記15章6節には、アブラハムの生涯における 最も重要な出来事が語られています。それは「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と 認められた」とあることです。“アブラハムの信仰義認”です。使徒パウロはこの御言葉をロ ーマ書4章3節と9節、そして22節と23節、またガラテヤ書3章6節に引用して、そこ から「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」こそ福音の中心であることを語ってい ます。つまりアブラハムは「主イエス・キリストの父なる神」を信じて“義とされた”最初 の人なのです。それゆえに「諸国民の父」すなわち「信仰の父」と呼ばれるようになったの です。  そこでこそ明らかなことは「アブラハムの子孫」とはまさしくこの“アブラハムの信仰” を受け継ぐ者のことなのです。血縁関係や民族の連帯などではない、信仰による一致と「聖 徒の交わり」が問われているのです。主イエス・キリストを「わが主、救い主」と告白する 活きた信仰です。主イエスはユダヤの人々(特にパリサイ人たち)に対して、あなたがたは 「アブラハムの子孫」を名乗るのなら、アブラハムの子孫らしい“まことの信仰”に生きる べきではないかと勧めておられるのです。「羊頭狗肉」になってはいけないと言われたのです。  ところが人々は、この主イエスの御言葉に対して猛然と反発します。自分たちの虚しい「誇 り」が傷つけられたからです。そこで39節に「彼らはイエスに答えて言った、『わたしたち の父はアブラハムである』」。“救われるべき者”は自分たちだけだと言い張ったのです。それ に対して主イエスは明確に告げたまいます。「イエスは彼らに言われた、『もしアブラハムの 子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。ところが今、神から聞いた真理をあなたが たに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっているのである』」。  これは大変な言葉です。主がここで言われる「あなたがたの父のわざ」とは実は「悪魔の わざ」(罪の支配)のことだからです。つまり「あなたがたは信仰によって義とされたアブラ ハムの信仰を受け継いでいない。つまり“父なる神のわざ”を行っておらず“悪魔のわざ” を行なっている。それならあなたがたは“悪魔を父としている”のではないか」と言われる のです。たとえどんなに「アブラハムの子孫」を自称しようとも、主イエス・キリストを信 ずる信仰がなければ虚しいのです。同じヨハネ伝6章29節に主が言われたことを心にとめ ましょう。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。  これを聞いて人々はみな騒然とし、一瞬の内にその場に殺気が漲ったことでした。まこと に不思議なことです。主イエスは私たちが救われるのは「信仰による」のだと告げていて下 さる。私たちの「わざ」(行い)が私たちを救うのではないと語って下さるのです。それなの に人々は自分の「誇り」(わざ)に固執するのです。「わたしたちは不品行の結果うまれた者 ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」と言うのです。この瞬間、 主イエスの十字架への歩みが確定したと言えるのです。しかし主はパリサイ人らをも救おう とされる御心からはっきりと言われました。42節です「イエスは彼らに言われた、『神があ なたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た 者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわ されたのである』」。  ここに主イエスは“福音の核心”とも言うべき大切な事柄を明らかにしておられるのです。 まず第一に、神を御父として信ずる者はかならず、神がお遣わしになった御子イエス・キリ ストを「愛する」者だということです。信仰とは“神を愛すること”だからです。それは、 まず神が限りない愛をもって私たちを愛して下さったからです。だから私たちはその「神の 愛」によって“まことの礼拝者”とされているのです。ニカイア信条に告白されているよう に、私たちは御子(イエス)は御父(神)と同質であると告白します。この「同質」という 字は“ホモウーシオス”というギリシヤ語です。よく似た言葉に「類似」を意味する“ホモ イウーシオス”という言葉がありました。文字にすればたった一文字の違いですがこの違い は限りなく大きいのです。  西暦325年、最初の“世界教会会議”としてニカイア公会議が行われました。その公会議 においてアリウスとアタナシウスとの有名な論争が起りました。「キリストは神ではなく神に 類似した被造物である」と主張するアリウスに対して、当時二十代の青年神学者であったア タナシウスが「それは違う、キリストは神と類似した被造物などではなく、神と同質なおか たである」と反論しました。つまり「キリストは神ではなく人間である」とするアリウスに 対してアタナシウスは「キリストはまことの神と等しいかたである」と反論したのです。 詳しいことは省きますが、ついにアタナシウスの“ホモウーシオス(同質)論”がアリウ スの“ホモイウーシオス(類似)論”を退け、そこに成立したのがニカイア信条です。さら に381年のコンスタンチノポリス公会議を経て、今日私たちが告白している“ニカイア・コ ンスタンチノポリス信条”になりました。今日全世界のキリスト教会がこの“ニカイア・コ ンスタンチノポリス信条”を告白しています。キリストは神と類似な被造物なのではなく、 神と同質なる神と等しいかたである。私たちはただこのかたの十字架による贖いによって救 われる。この福音の真理を聖書に基づき全世界の教会が共通の信仰告白としているのです。 言い換えるなら正統的教会(オーソドックス・チャーチ)とはこのニカイア信条に立つ教会 のことです。このことを主イエスみずから明らかになさっておられるのです。  第二に、主イエスは「神から出た者」であり「神からきている者」です。それならば自分 たちが「アブラハムの子孫」だと自称する人々は、主イエスを喜び迎えなければならないは ずです。アブラハムが“神を信じて義とされた”ように「イエス・キリストを信ずる信仰に よる神からの義」こそ私たちの唯一の「救い」だからです。イエス・キリストの御名のほか いかなる「救い」をも私たちは持たないのです。  かつて折口信夫という国学者がいました。この人は民俗学の権威・柳田国男と双璧をなす 国学の権威であり、釈超空という名で歌人としても有名な人です。仏教や神道、それこそ日 本の神々については隅から隅まで知っている大変な学者でして、日本の思想や宗教について 学ばんとする者は、この人の業績を無視することはできないのです。  この折口信夫は生涯独身でしたが、晩年になって教え子の一人を養子に迎えられました。 ところが、この学問上の弟子でもあった愛するわが子が戦争に召集され硫黄島で戦死するの です。その戦死の報せが折口信夫のもとに届いたとき、彼は箱根の山中の小屋に籠もり手帳 にひとつの歌を書きました。その歌が彼の死後数十年を経て発見されたのですが、それはこ ういう歌です。「人間を深く愛する神ありてもし物言わば我の如けむ」。  この歌の意味はこうです。もしこの世界に人間を真実に深く愛する“まことの神”がおら れ、そしてその神がものを言われるなら、いまの私のように語られるに違いない。その「今 の私」とは誰かというと、独り子を死なせた父親です。独り子を死なせた父親のようにもの を言ってくれる神は、八百万の神の中に一人もいないと折口信夫は言うのです。日本の神(仏 教・神道の世界)の中には独り子を失った父親のごとくにものを言ってくれる神は存在しな いと言うのです。愛する独り子を失った親の悲しみに呼応して下さる神こそ“まことの神” である。そういう意味の歌なのです。  それならば、私たちはキリストの御身体なる教会において、まさにその“まことの神”(御 父なる神)に出会っているのではないでしょうか。まさに“独り子を死なしめたもうた父な る神”がいま“あなたのためにここにおられる”という音信こそ福音なのです。まさに人間 (私たち)を深く真実に愛するがゆえに、その最愛の独り子を世にお遣わしになり、その独 り子を十字架に死なしめたもうた父なる神が私たちの「御父なる神」でありたもうのです。 それが聖書が語るまことの神の御姿です。 やり場のない、救いのない、筆舌に尽くし難い、私たちの破れ果てた現実のただ中に、ま さに独り子を十字架において失いたもうたほどに「人間を深く愛する神」が私たち一人びと りに出会っていて下さるのです。使徒パウロのいう「この御名のほかに救いはない」とは、 まさしくこの神こそが、その独り子イエスを賜わったほどに「人間を深く愛する」唯一の“ま ことの神”であられるということです。  私たちは、この神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、主の御身体なる教会 に連なることによって、名実ともに「アブラハムの子孫」とされるのです。それ以外に神に 義とされ正しい信仰に生きる道はないのです。そのとき私たちはあのルカ伝19章の「取税 人ザアカイ」の幸いに生きる者とされるのです。いかなる救いの望みもなかったザアカイの 家を、主イエスみずからが訪ねて下さいました。そこで御言葉によってザアカイは生まれ変 わった者になりました。キリストを信じ神を愛する僕になりました。そのとき主は彼に何と 言われたでしょうか。「きょう、救いがこの家にきた、この人もアブラハムの子なのだから。 人の子がきたのは、失われたものを訪ね出して救うためである」。  主は、ここの集う私たち一人びとりにも、はっきりと同じ御言葉(同じ祝福)を告げてい て下さるのです「きょう、救いがこの家に(あなたのもとに)きた。あなたもアブラハムの 子なのだから」と…。この救いと祝福を戴いているゆえに、心を高く上げて十字架と復活の 主を仰ぎ、主に従うひとすじの「信仰の道」を歩む私たちとされているのです。