説    教     詩篇56篇1〜4節  ヨハネ福音書8章31〜36節

「キリストに在る自由」

2009・01・25(説教09041256)  旧約聖書・詩篇56篇4節において、イスラエルの王ダビデは深い絶望と死に向き合う 経験の中で歌います。「わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に 信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか」。そ して11節にもこのように告白するのです。「わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはあ りません。人はわたしに何をなし得ましょうか」と。  かつてフロムという哲学者が人間の自由の問題を「何々からの自由」ではなく「何々へ の自由」という方向転換の問題として掘り下げました。現代において大切なことは「何々 からの自由」ではなく「何々への自由」という積極的かつ社会的な自由であると言うので す。それは正しいかもしれません。しかしなお「人間の自由」とはそれだけの問題ではな いのではないでしょうか。  人間の本当の自由は、ただ積極的・社会的な自由を追い求めるだけでは見えてこないの です。私たち人間を捕えているものはいちばん根深いところにある「罪と死の支配」だか らです。人間の本当の自由は“罪と死からの自由”の問題にならざるをえないのです。社 会的には地位も財産も名誉も全ての物を欲しいままに手に入れ、しかも犯罪を犯してしま った音楽家がいました。まず罪と死からの自由がなければ、社会的な自由も成り立ちえな いのです。  言い換えるなら、罪と死からの自由という基盤のない所にどんな自由の生活を作ろうと も、それは砂の上に建てた家にすぎないのです。自分の足元が崩れてゆくとき、支えるも のが何も無いという自由は虚しいのです。それこそ今日の日本社会の姿そのものではない でしょうか。日本という国が社会的また経済的に崩壊してゆく中で、そこでなお人間を人 間たらしめるものは何かということです。  そこでこそダビデは、私たちの人生の揺るがぬ基盤がただ「神」と神の「御言葉」にあ ると告白するのです。神がお遣わしになった主イエス・キリストにのみ“揺るがぬ真の自 由”があると宣べ伝えるのです。主に拠り頼むとき「肉なる者」(罪と死)はもはや私たち になんの支配力も持ちえないのです。同じ詩篇56篇の最後の13節でダビデは歌います「あ なたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうち で神の前に、わたしを歩ませられたからです」。この「あなた」とは十字架の主イエス・キ リストのことです。  十字架の主イエス・キリストは言われました。今朝のヨハネ伝8章31節以下の御言葉 です。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたし の弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させ るであろう」。  今朝のこの32節の御言葉「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」は、世界中 の図書館や大学に掲げられる標語のようになりました。わが国でも国立国会図書館の閲覧 室の壁面にギリシヤ語でこの御言葉が刻まれています。白銀台の明治学院の図書館の入口 にも刻まれているのを見たことがあります。もっとも国会図書館のほうでは誰もこれが聖 書の御言葉であるとは知らなかったようです。主イエスが言われる「真理」とは知識や学 問の積み重ねによって得られるようなものではなく、神が私たちに与えて下さった「福音 による新しい生命」そのものなのです。  主イエスが与えて下さる「真理」は私たちを新たにする「福音」であって、知識や学問 のことではありません。たとえ百万巻の書物を読破しようとも、そこに自由があるわけで はありません。ただ「福音」を聴いて信じる人、十字架の主イエス・キリストを信じ告白 して“主の教会”に連なる人のみが「真理」を「知る」者と呼ばれているのです。だから この「知る」という字は「信じる」という意味です。 主イエスははっきりと言われるのです。私たちを生かしめる本当の「真理」は神の賜物 であってこの世の報酬などではないと…。言い換えるなら、私たちが「真理」を獲得する のではなく「真理」そのものでありたもう主イエスが私たちを捕らえて下さる恵みこそ「福 音」なのです。主イエス・キリストが私たちを捕らえて下さるところ、ただそこに私たち を真に生かしめる本当の「自由」があるからです。  それでは、なぜ私たちにとって主イエス・キリストに捕らえられることが罪と死からの 「自由」という“真の自由”を「得させ」ることになるのでしょうか?。たとえ相手がキ リストであっても、私たちが誰かに「捕らえられる」ことと「自由であること」とは矛盾 するのではないでしょうか?。そこにはフロムの言う「何々からの自由」は無いのではな いでしょうか?。なぜ「キリストに捕えられること」が私たちにとって「真の自由」にな るのでしょうか?。 そこでこそ聖書は、特に使徒パウロは「キリストに捕らえられた」者の限りない幸いを 語ります。この世のあらゆる空しい望みとは違う、主にある永遠の望みを物語ります。そ れを解く大切な鍵が今朝のヨハネ伝8章33節以下なのです。 主イエスを快く思わなかったパリサイ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫であっ て、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させる であろうと、言われるのか」と問いました。これに対して主イエスは「よく、よく、あな たがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」とお答えになり、さらに「奴 隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。だから、もし子があ なたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」 と仰せになったのです。  この「家」とは“神の御国”(神の恵みの永遠の御支配)のことです。そして「子」とは 神の御子イエス・キリストです。ですから「子はいつまでもいる」と言われるのは、御子 イエス・キリストが“神の御国の王であられる”(神の恵みの永遠の御支配を私たちの内に 実現して下さるかたである)ということです。私たちは物質的にはどんなに豊かでまた健 康に恵まれようとも「罪の奴隷」であるならその人生は全く虚しいのです。しかもその虚 しさを知ろうともせず罪の支配のもとにあり続ける私たちなのです。キリストはその私た ちの身代わりとなって十字架にかかって下さいました。罪の贖いを成し遂げて下さいまし た。主の十字架の御苦しみと死によって、私たちは罪と死から贖われ(自由にせられ)キ リストの勝利の御手のもとに新しい「神の民」としての歩みを歩み始めるのです。  それなら、まさにこの「勝利の主」たる十字架の主のもとにあること、この主にいま教 会によって堅く結ばれていることが私たちの「救い」そのものなのです。罪と死の支配は 誰も動かしえないものでした。私たちの社会の不確かさや正体の見えない不安もまた、根 本を辿るなら“罪と死の確かさ”に基づいていました。ラテン語の有名な諺に「死は確実 にして、その時は不確実なり」という言葉があります。『確実な死が不確実に(ある日突然 に)私たちを襲うのだ』ということです。私たちは罪と死によって全生涯を縛り付けられ ていました。しかし十字架の主(神の御子イエス・キリスト)のみがこの“確実な罪と死 の支配”を打ち滅ぼして下さったのです。  キリストの恵みの確かさ、キリストの愛の確かさ、キリストの贖いの確かさこそ、私た ちの罪と死の確かさに遥かに勝る勝利だからです。だからこのキリストを「主」と告白し、 主が唯一の頭である教会に連なって生きるとき、もはや私たちは罪と死の支配のもとには なく、キリストの限りない愛と恵みの御支配のもとにあるのです。そのような者として自 分自身をも、また他者の存在をも、そしてこの世界そのものをも新しく主の御手から受け る者とされているのです。  「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と主は言われました。私たちはみな例外なく「罪 の奴隷」です。「罪の奴隷」がいかに社会的自由を(何々への自由を)謳歌しようともそれ は空しい戯事にすぎません。まず何よりも「罪からの自由」(救い)がなければなりません。 人間を人間たらしめる本当の「自由」はそこにしかないのです。まさにその「真の自由」 を私たちに与えるために神の御子イエス・キリストは呪いの十字架を背負って下さった。 滅びとしての永遠の死を私たちの身代わりとして死んで下さったのです。私たちの恐るべ き罪を神の御前に贖い執り成し赦して下さったのです。そして御自身の生命を私たちに与 えて下さったのです。それがキリストの死と葬りの出来事です。「福音」そのものである恵 みです。  私は高校生のころ、同じクラスの友人が急性白血病で急死するという経験をしました。 葬儀に参りますと、葬りは火葬ではなく土葬でした。まさに桶の形をした棺桶を、級友た ちと代わる代わる担いで友人の遺体を墓穴に埋めました。そこには果てしのない悲しみと 救いのない現実だけがありました。それならば主イエスは、その私たちの果てしのない悲 しみと“救いのない現実”のただ中に来て下さったかたなのです。そして十字架の死によ って、その“救いなき現実”から私たちを解放して下さったのです。だからキリストは「神 の国の王」と呼ばれます。神の永遠の愛と御支配を現わして下さった唯一の「王」として、 主は私たちの葬りの現実の中にさえ来て下さったおかたなのです。  それが明らかになった出来事こそキリストの復活です。復活は“死が生命に呑みこまれ たこと”です。罪が恵みによって滅ぼされたことです。起こるはずのないことが起こりま した。罪人(罪と死に支配された私たち)の「真の救い」が「真の自由」がそこに確立さ れたのです。私たちには何の功績もなく、神の御前に誇るべきものもありません。「これに よって自分は救われる」と言うべき何ものも持っていないのです。あるものはただ罪と死 の救いのない現実のみです。しかしまさに主イエス・キリストはその“救いのない現実” のただ中に生命を与えて下さいました。死ぬべき私たちを御自身の生命に満たし、立ち上 がらせ、礼拝の民となし、御国の民として下さったのです。主は御名を信ずる者を、教会 に連なる者を一人の例外もなく永遠の生命に甦らせて下さるのです。  パウロはローマ書6章3節以下でローマの人々に、そこで自分が受けた洗礼の恵みを思 い起こすようにと勧めています。私たちが洗礼によって受けた救いの恵みとは何であった か…。私たちはキリストの死にあずかった。ならば同じように私たちは洗礼によってキリ ストの復活にもあずかる者とされたのだ。いまや私たちはキリストと共に死んだ者として キリストと共に生きる者とされた。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イ エスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けた のである」さらに6章6節「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き 人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちが もはや、罪の奴隷となることがないためである」さらに6章14節「なぜなら、あなたが たは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからで ある」。 私たちは罪の重みをさえ、すべて主の御手に委ねる者とされています。自分で自分を救 おうともがき苦しむのではなく、徹底して勝利の「王」なるキリストに結ばれた者に、い ま教会を通してならせて戴いているのです。それが“洗礼を受ける”ということです。そ れが礼拝者として生きることです。それがキリストの恵みの主権に自分を明け渡すことで す。そのときキリストの愛と恵みの御支配が私たちの人生に確立するのです。罪と死から の本当の自由が、揺るがぬ自由の生活が、そこに造られてゆくのてす。それこそローマ書 6章5節に言われている「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなる なら、さらに彼の復活のさまにもひとしくなるであろう」ということです。 これこそが「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」と今朝の御言葉において主 が告げられた「福音」の内容なのです。私たちはキリストの十字架と復活によって揺るが ぬ「真の自由」を与えられた者として、心を高く上げて、キリストの恵みの主権のもとを 歩み続けて参ります。この世のいかなる力も、罪も死も病も悩みも、もはや私たちを「キ リスト・イエスにおける神の永遠の愛から、引き離すことはできない」のです。このかた によって、永遠の勝利と朽ちぬ生命を戴いているのです。