説    教   民数記21章4〜9節  ヨハネ福音書8章27〜30節

「十字架の主」

2009・01・18(説教09031255)  今朝のヨハネ福音書8章27節以下の御言葉は、山登りに譬えるなら「分水嶺」と も言うべきところです。まさにここから主イエスの御受難の歩みは、一気に十字架を めざして駆け下って行くのです。弟子たちは、また私たちは、決然と十字架に向かわ れる主のお姿に畏れを抱かずにおれません。そこには私たちの誰もが、いまだかつて 想像もしえなかったひとつの光景が現れます。それは聖なる神が「呪いの十字架」に かかって死なれるという出来事です。「十字架にかけられたる神」の御姿です。  そもそも神は、死ぬことがないからこそ「神」なのではないでしょうか。死ぬもの をもはや「神」と呼ぶことはできないのではないでしょうか。神は不死であり、あら ゆる苦しみや矛盾から自由な存在だと古代ギリシヤの人々は考えていました。イスラ エルの民にとっても同様でした。ユダヤ人にとっても神は唯一永遠なる存在であり、 その永遠とは不変であること、すなわち罪と死の支配から完全に自由であることを意 味したのです。  それなのに、いまや福音書は、その「不死」であり「不変」であるはずの神の姿と は似ても似つかぬ主イエスのお姿を示します。「十字架にかけられたる神」こそ永遠の 救い主であられるという福音です。それは弟子たちにとって大きな「つまずき」でし た。ペテロは主イエスに「たとえみんなの者がつまずいても、わたしはつまずきませ ん」と誓いました。しかし彼も十字架を目前にして三度も主イエスの御名を拒んだの です。「わたしは、あのような人を知らない」と言ったのです。ペテロが語った意味は 「わたしはあのような神を知らない。人々に審かれ、十字架にかかって、死ぬ神など、 もはや神ではありえない」ということでした。  そこで、今朝の御言葉8章27節には「彼らは、イエスが父について話しておられ ることを悟らなかった」と記されています。この「彼ら」とは私たち自身のことも含 んでいます。私たちはキリストに従うときにも、自分に都合が良いようにしか従わな い者なのです。主イエスの“救いの力”を見くびっているのです。神の言葉より自分 を上位に置いているのです。心の中で自分自身を誇り頼みとしているのです。信仰が アクセサリーになっているのです。そのような私たちの姿が、今朝の27節から改め て見えてくるのです。  だからこの「悟らなかった」とは「信じなかった」という意味です。神の言葉を聴 いても信ずることをせず、頑なに心を閉ざし続ける私たちの姿です。神との生きた関 係を失っている私たち人間の姿です。聖書の語る「罪」とは単に生活上の弱さや欠点 のことではないのです。「罪」とは私たちが神に背き、神から離れ、脱落した存在にな っていることです。「神なき者」になっていることです。それは私たちの力ではどうす ることもできません。私たちは人間として「あるべき所にあらず、あるべからざる所 にある者」です。そのような私たちの「罪」の姿をパウロはエペソ書2章3節に「生 れながらの怒りの子」という言葉であらわしました。「また、わたしたちもみな、かつ ては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行 い、ほかの人々と同じく、生まれながらの怒りの子であった」。  宗教改革者カルヴァンは「たとえ世界をつぶさに観察しても、神が父であられるこ とを私たちは決して知りえない」と語りました。この世界そのものが神から背き脱落 した存在だからです。キリスト教はいかなる意味でも自然的宗教ではありません。私 たちは自然(自分)によって救われることはないのです。むしろ私たちという自然そ のものが罪の支配のもとにあるのです。譬えて言うなら、地面の上で滑って転んだと き、立ち上がる方法は幾つもありますが、もしその地面そのものが崩れるとしたら、 そこから立ち上がる方法はないのと同じです。私たちは人生の個々の出来事を解決す る幾つかの方法を持ちても、最も大切な神に対する「罪」を解決する方法を持ちえな いのです。「罪」とはまさしく私たちの足元そのものが崩れることです。比較できる問 題ではなく絶対的な問題なのです。  現代は「癒し」がブームです。人間が(自然が)いかに人間を癒せるかに人々の関 心が高まっています。「ヒーリング」や「セラピー」や「スピリチュアル」という言葉 が頻繁に飛び交っています。しかし「癒し」で私たちは救われるのでしょうか?。答 えは「否」です。私たち人間の「罪」は「癒し」などではとうてい追いつかないほど 深いのです。聖書が語る真の救いは「癒し」ではなく、私たちの「罪」からの救いと 自由を告げるものです。それが「福音」です。だから「福音による救い」と「癒し」 は根本的に違います。「癒し」は転んだ時の立ち上がりかたを教えるだけですが「福音」 は足元の地面が崩れても、なおそこで私たちを支えて下さる唯一のおかた(主イエス・ キリスト)を宣べ伝えるのです。  それでは今朝の御言葉が私たちに宣べ伝える根源的な救いの「福音」とはどのよう なものでしょうか。主イエス・キリストは、続く8章28節にこう語られました「そ こでイエスは言われた、『あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしが そういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さっ たままを話していたことが、わかってくるであろう』」。  ここで大切な御言葉は「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて」と主が 言われたことです。この「人の子」とはイエス・キリストであり「人の子を上げる」 とは“十字架の出来事”をさしています。その十字架の出来事を行なう者は誰か。主 を十字架にかけた者は誰なのか?…それはまさしく「あなたである」と聖書ははっき りと語るのです。それならば、主イエス・キリストが担われた十字架はまさしく私た ちのため、私たちの「救い」のための贖いの御業なのです。  かつてイスラエルに参りましたとき、私はエルサレムの“悲しみの道”(ヴィア・ド ロローサ)主イエスがゴルゴタまで十字架を担われたと伝えられる道で、十字架を背 負って歩む巡礼者たちの姿を見ました。しかしその十字架は実際に主イエスが担われ たものより遥かに小さく軽いものです。それを大人が5人ぐらいで担ぐのです。福音 書を見ますと、主イエスはその十字架の重さに幾度も倒れたまいました。そこで人々 は途中から「クレネ人シモン」という人物に代わって十字架を背負わせたと記されて います。このクレネ人シモンはこの経験がもとになって主イエスを信ずる者になり、 初代エルサレム教会の最初の受洗者となり、家族と共に生涯を忠実な長老として主に 仕えたのでした。  ローマ人への手紙16章13節にパウロは「主にあって選ばれたルポスと、彼の母と によろしく。彼の母は私の母でもある」と親しく挨拶を書いています。その「ルポス」 こそマルコ伝15章21節からわかるようにクレネ人シモンの息子(アレキサンデルと ルポス)のことであり「彼の母」とはシモンの妻のことです。彼らは初代エルサレム 教会におけるキリストの忠実な証し人でした。パウロはこの一家を思い起こしつつ「彼 の母はわたしの母でもある」と書いて、年老いたシモンの妻がどんなに親身にパウロ の伝道を助けてくれたかを感謝をもって語っているのです。  あるドイツの聖書学者が語っていることですが、主イエスの時代、たとえ冗談にせ よ人が絶対に口にしてはならない呪いの言葉があった。それは「十字架にかかってし まえ」という言葉であったそうです。「十字架」とはそれほど強烈かつ決定的な呪いの 象徴だったのです。当時の人々にとっては神に呪われた罪人の終着点”が十字架でし た。十字架にかけられた者にはいかなる“救いの可能性”も無いと堅く信じられてい たのです。  それならば、まさしく主イエスは、その救いなき“呪いの十字架”を私たちのため に担って下さった唯一のおかたです。神の前に「怒りの子」でしかありえなかった私 たちを救うために、私たちの罪の赦しと贖いのために、神の御子みずから父なる神の 「御怒り」を引き受けて下さった、それがキリストの十字架なのです。罪人を審き、 聖なる「御怒り」を下したもう父なる神が、私たち「怒りの子」である罪人を限りな く愛したもうゆえに、その「御怒り」を私たちにではなく、愛する独子イエスの上に お下しになったのです。この想像を絶する神の愛を私たちは戴いているのです。それ によって救われる私たちなのです。 “神が神でなくなる”ことは決してありえないことです。しかし罪によって「神な き者」となり、神から脱落した私たちを救うために、神はまさにあの十字架において、 神ではないお姿をお取りになりました。「神なき者」である私たちの「救い」のために 神みずから「神なき」者となって下さったのです。しかもこの父なる神と子なる神(イ エス・キリスト)とは他なるおかたでありつつしかも一つなる神でありたもうのです。 神は私たちが「罪」の内に滅びることを絶対にお許しになりません。そのために御自 身の独子をさえ与えて下さったのです。神は私たちが神を愛するゆえに私たちを愛し たもうのではなく、その逆に神に叛く「怒りの子」に過ぎなかった私たちを(その罪 あるままに)極みまでも愛して下さったおかたなのです。それゆえに“神の愛”は神 の御怒りを御自身の上に引き受けたもうた愛なのです。神の御怒りを神の愛が負いこ れに撃たれたという出来事こそキリストの十字架なのです。  父なる神は、愛する御子イエス・キリストを十字架につけたもうことによって、私 たちの罪を根本的に解決して下さったのです。ローマ書3章21節以下にパウロが語 るとおりです「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによっ てあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義で あって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。す なわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、 価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるの である。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがない の供え物とされた」。  旧約聖書民数記21章4節以下に、モーセによってエドムの荒野に導かれたイスラ エルの民が、神に対して大きな罪を犯したとき、主はモーセに命じたもうて「火のへ び」を棹の上に上げ、それを仰いだ者が死を免れ生きるようにされたと記されていま す。この「へび」は罪を、また棹の上に上げられた「火のへび」は十字架の主イエス・ キリストを示すものです。この「上げられた」「火のへび」を仰いだ者は一人も滅びな かったのです。それと同じ「上げる」という言葉を、主は今朝のヨハネ伝8章28節 で「十字架」の意味で用いておられるのです。 ただ十字架の主によって救われる私たちです。私たち全ての者のために「上げられ」 た十字架の主を信ずる者は、いま主に堅く結ばれているのです。「価なしに、神の恵み により、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ」ているのです。たとえ 「自分は神の愛から脱落している」と思う人があっても、神の愛はそのようにな人を さえ堅く捕らえていて下さるのです。それゆえ私たちは天と地にある全ての主の聖徒 らと共にローマ書8章37節以下の信仰告白を高らかに歌うものです。 「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これら全てのことに ついて勝ちえて余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在の ものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、 わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはでき ないのである」。