説    教 エゼキエル書18章30〜32節 ヨハネ福音書8章21〜26節

「キリストの宣教」

2009・01・11(説教09021254)  かつて植村正久牧師は、地方に旅行をして宿泊されるとき、宿帳に「無職」と書くの を常としていたそうです。それは「牧師」は他のいかなる職業とも違うという志の現れ でした。どこがどう違うのでしょうか。他のどんな職業にも“公人”と“私人”の区別 があります。いわゆる“アフター5”があり、休日があり、退職があります。しかし牧 師はそうではありません。牧師にアフター5はなく、休日も退職もありえず、公人と私 人の違いもありません。その意味ではまさに植村先生が言うように「牧師」は「職業」 の枠には入らないのです。 言い換えるなら、牧師とは“牧師であるという存在”そのものです。存在ですから、 その務めに休みというものはなく、公私の区別もありません。出会った人すべてが伝道 (宣教)の対象です。教会にいても離れていても、世界中どこにいても、人をキリスト に導く牧師の務めは24時間離れることはありません。医者でさえ家に帰れば仕事から (患者から)解放されますが、牧師はそうではないのです。 私の友人に精神科の医者がいます。長老の家庭に育った人です。毎日たくさんの患者 を診察して見ていて気の毒なほど忙しい人ですが、この医者がよく私に「牧師先生の仕 事ほど大変なものはないですね」と言います。私が「どうして?」と訊きますと、彼は「医 者はどんなに忙しくても家に帰れば休めます。しかし牧師先生に休みはないじゃありま せんか」と答えます。私は「なるほどそうか」と改めて思います。もっとも彼の言葉は 「その先生を陰で支える奥様はもっと大変ですよ」と続きます。そこにオチがあったか と私は沈黙するほかありません。  そして、そこでこそ改めて心に銘記することがあります。主イエスの御生涯はどうで あったかということです。主イエス・キリストの御生涯は全く伝道者の御生涯であられ た。それは私たちの等しく認めるところです。しかし私たちは主の御生涯の厳しさとい うものを本当に理解しているのだろうか?…改めてそう思うとき、心許ない私たちの現 実がありはしないでしょうか。 「宣教」とは、出会った全ての人に福音を宣べ伝えることです。それなら主イエスの 宣教の舞台は、まさしく私たち一人びとりの人生そのものでした。私たちは苦しみや困 難に出遭うとき、自分の人生を耐えがたい重荷のように感じることがあるのではないで しょうか。しかし私たちが自分の人生にどんなに絶望しようとも、そこでこそ主イエス が私たちを測り知れない愛をもって愛しておられることを知るとき、私たちは慰めと希 望に満たされ、新しい力を与えられるのです。それが私たちが「キリストの宣教」にあ ずかるということです。キリストは私たちの人生そのものを宣教の舞台としていて下さ います。それはどんなに大きな祝福であり恵みでしょうか。  いままで私たちはずっとヨハネ福音書を通して福音を聴いて参りまして、改めて気が つくひとつのことは、主イエスはあのパリサイ人(律法学者たち)をも救いに導こうと しておられるという事実です。私たちは聖書を読むとき「キリスト対パリサイ人」を敵 対関係のように受け取ることがあります。しかしたとえパリサイ人らがキリストを「敵」 として憎んだときにも、キリストは彼らを限りなく愛して御言葉を宣べ伝えて下さった のです。その代表的な御言葉こそ、今朝のヨハネ伝8章21節以下です。  主イエスはパリサイ人らに対して、まず御自分が父なる神のみもとから遣わされたか た(神のキリスト)であることを明らかになさり、続いて21節にこう言われたのです。 「わたしは去って行く。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪の うちに死ぬであろう。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない」。  これはまことに厳しい言葉です。パリサイ人らは律法の専門家、プロの宗教家集団で す。神につき救いについて誰より良く知っているはずの人々です。その彼らに対して「あ なたがたは神を知らない」と主イエスは断言なさるのです。すなわち今朝の御言葉の少 し前の19節に、主はパリサイ人らにこう語っておられます「あなたがたは、わたしを もわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたし の父をも知っていたであろう」。つまり、主が言われるのはこういう意味です「あなたが たがもし神を信じているのなら、わたしが誰であるかを知っているはずだ。しかしあな たがたは神を信じていないので、わたしについても何も知らない」。  ところがこの言葉はパリサイ人らにとって、聞き捨てならぬ侮辱と受け止められまし た。特に主イエスが21節に「あなたがたは……自分の罪のうちに死ぬであろう」と言 われたことです。主は彼らが持っている罪の問題をいい加減なものとはなさらず、真正 面から救いの御言葉を語られたのです。あなたがたパリサイ人の「救い」などどうでも 良いと主はお考えにならないのです。「あなたがたは……自分の罪のうちに死ぬであろ う」と言われるのは、あなたがたはそうであってはならないと言われる愛の招きの言葉 です。パリサイ人らを救わんとして宣教なさっておられるのです。  しかしパリサイ人らは、主イエスが語られることの意味を全く理解しませんでした。 それどころか22節に彼らは「(このイエスなる人物は)あるいは自殺でもしようとする つもりか」と囁き合ったのです。これこそパリサイ人らの姿であると同時に私たちの姿 でもあるのです。主が私たちを“真の救い”へと招いておられるにもかかわらず、それ を素直に感謝し受けようとはせず、却って邪推をし主を審く私たちの姿です。自分の耳 に都合の良い言葉だけを喜び、理解できないことは頑なに退け、その結果とんでもなく 奇妙な“自分だけに都合の良い福音”を捏造してしまう私たちの姿です。  だいぶ以前の事ですが、ある会合で「説教は人を喜ばせるものだから、牧師は説教で 罪を語るべきではない」という言葉を聞いて愕然とした経験があります。それも“自分 だけに都合の良い福音”でありましょう。理解できないことや嫌われることは退けよう という人間的な取捨選択からは、人を救いへと導く“力ある説教”は生れません。人間 は誰でも都合の良い話に飛びつくものです。自分の罪を白日のもとに晒したくはないも のです。この時のパリサイ人らがまさにそうでした。御言葉に逆らい主イエスの招きを 退けてまで自分たちを正当化しようとしたのです。自分たちは「神を知っている」と言 いながら、実は神の言葉より自分を上位に置いているのです。神に審かれるべき(救わ れるべき)者であるのに神を審こうとするのです。そこにパリサイ人らの、否、私たち 一人びとりの罪の姿があるのではないでしょうか。  そのような私たちに対して、主イエスは今朝の23節以下にこう仰せになります。「イ エスは彼らに言われた、『あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。 あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あ なたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう 者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである』」。  私たちは特に、この最後の24節に大切な音信が告げられていることを聴き取りたい のです。主が「もしわたしがそういう者(キリスト)であることをあなたがたが信じな ければ、罪のうちに死ぬことになるからである」と言われたことです。これは主イエス が神から遣わされたキリストであると信ずる者はもはや「決して罪の内に死ぬことはな い」という“恵みの宣言”なのです。「信じなければ……死ぬことになる」とは「信ずる 者は……かならず生きる」という福音の告知です。「イエスはキリストである」(ベツレ ヘムの馬小屋に生まれゴルゴタの十字架にかかられたイエスはこの私と全世界の救い主 キリストであられる)と「信じる」ことこそ“永遠の生命”を受けることなのです。そ の生命は罪と死に打ち勝つ真の生命です。キリストが私たちに下さる復活の生命のみが 死を滅ぼす唯一の生命なのです。  それならば、ここには唯一の“十字架の主”が立っておられるのです。聖書がさし示 す唯一の救い主がいま私たちを招いておられるのです。いま私たちに宣教の(救いの) 御業をなさっておられるのです。パリサイ人らの罪に真正面から立ち向かわれ、それを 贖おうとしておられる主イエスは、いまここで同じ生命の恵みをもって私たち一人びと りに相対していて下さいます。今朝の御言葉によって私たちは、パリサイ人と主イエス との対話を超えて、いま自分が主に呼びかけられていることを知るのです。  まさに今朝ここに、私たちはパリサイ人らと共に、主イエスの招きのもとに立ってい ます。それを聴いて信ずる者として歩むように、主は私たちに信仰を求めておられます。 主イエス・キリストを「わが神・救い主」と告白し教会に連なり主イエスにお従いする 歩みです。このことを使徒パウロは「キリストに連なる」あるいは「キリストにある新 しい歩み」と語りました。第二コリント書5章17節「だれでもキリストにあるならば、 その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなっ たのである」。この「だれでも」とは「一人の例外もなく」という意味です。誰一人とし て例外なく「キリストにあるならば」(キリストの恵みによって結ばれているならば)そ の人は「新しく造られた者である」とパウロは言うのです。  全く同じことを今朝の24節は告げています。もし私たちが信仰によって教会を通し て「キリストにあるならば」そのとき私たちは「罪のうちに死ぬ」ことは決してないの です。これはまことに驚くべき音信であり、全く私たちの理解を超えた恵みです。それ は譬えて言うならこういうことです。ある人が全生涯かけて築いた莫大な財産を、通り すがりの人に、ただその人が彼を“信じた”というだけの理由で惜しげもなく与えるよ うなものです。いや、それに遥かにまさる驚くべきことです。この世のどんな財産も人 を罪から救うものではありません。しかし主イエス・キリストが十字架によって打ち立 てて下さった恵みの富は、罪と死の支配から私たちを永遠に解放し、御国の民とする力 があるのです。 だからパウロはそれをエペソ書2章7節において「絶大な富」と呼びました。エペソ 書2章1節以下を読みましょう「さて、あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによっ て死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権 をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたので ある。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、 肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であ った。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をも って、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―――あなたがた の救われたのは、恵みによるのである―――キリスト・イエスにあって、共によみがえ らせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあって わたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためで あった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、 あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」。  ここにも明確に告げられています「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さっ たその大きな愛をもって、罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かし」 て下さったと…。私たちは例外なく「罪過によって、死んでいた」者です。このことを 神学者カール・バルトは「人生全体にかかったマイナス符号」と呼びました。たとえ私 たちの人生はどんなに人の目に豊かなものに見えても、神に対する罪が贖われていない かぎり、最初にマイナス符号のついた計算式のようなものなのです。数がふえるに伴っ てマイナスも大きくなるのです。  こういう実話があります。待ちに待った楽しい友人どうしの旅行に出かけたあるご婦 人が、旅先の宿で「自宅が火事で焼けてしまった」という報せを聞きました。それを聞 いたとたん、それまで友達と楽しく語り合っていた婦人の顔は蒼白になり泣きじゃくっ て、もう友人たちが何を語っても上の空になったというのです。これは私たちをその身 に置き換えればよくわかることです。譬えて言えばそれこそ私たち人間の姿なのです。 私たちは帰るべき“永遠の故郷”を失っていることに気がつかないで、ただ漫然とこの 世の旅をしているに過ぎないのです。もしその事実に気がつけば旅行どころではなくな るのです。いかなる慰めの言葉も力を持ちえないのです。帰る家を失った旅はもはや放 浪にすぎません。私たちは例外なく罪によって帰るべき家を失った人生の放浪者なので す。ただそれに気がつかないでいるだけです。気がついたら途方に暮れ絶望するほかは ないのです。  まさにそのような私たちの人生を、十字架の主イエス・キリストは宣教の舞台として 下さいました。そのためにベツレヘムに生まれ、十字架の道を歩んで下さったのです。 主は今朝の26節に「わたしをつかわされたかたは真実なかたである」と言われました。 主は“神の永遠の真実”(十字架と復活の恵み)をもって私たちを救い、私たちの人生の 永遠の基盤は神の愛と祝福にあることを示して下さいました。いついかなる時にも主が あなたの贖い主として共にいて下さるのです。同じく26節に主はこうも言われます「わ たしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである」。  主の十字架を目前にして慌て惑う弟子たちに、主は「あなたがたは、心を騒がせない がよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ伝14:1)と語って下さいました。 「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」とさえ言って下さいます。それ は「主イエスの宣教」が永遠に真実なる神の御言葉のみを私たちに語り、御言葉によっ て私たちに永遠の生命を与えて下さるからです。だから「わたしがどこへ行くのか、そ の道はあなたがたにわかっている」と弟子たちに言われました。 私たちは主イエス・キリストの御身体なる教会に連なり「キリストにあって」生きる とき、実にこのような大いなる祝福と希望に生きる者とされているのです。その「救い」 は「わたしたちから出たものではなく、神の賜物」なのです。ここに集う私たち一人び とりが、そしてまだここに連なっていない多くの人々も、その「神の賜物」である“真 の救い”へと招かれているのです。 「わたしをつかわされたかたは真実なかたである」。そうです、私たちはいまここに、 この「主イエスの宣教」の「真実」(キリスト御自身)に満たされ、主に結ばれ、贖われ た者たちなのです。主が十字架において私たちの罪を贖い、墓にまで降られ、復活され た恵みのゆえに、神の子たる身分を与えられた者として、私たちは心を高く上げて、た だ主にのみ栄光と讃美を帰したてまつり、主の御言葉に養われつつ歩んで参ります。