説    教  創世記31章51〜54節   ヨハネ福音書8章13〜20節

「救済の権威」

2009・01・04(説教09011253)  新しい主の年2009年最初の礼拝へと招かれています。詩篇65篇11節に「主は御 恵みをもて歳の冠となしたまへり」とあります。この「年の冠」に与えられている福 音の御言葉はヨハネ福音書8章13節以下の音信です。  仮庵の祭の最終日に「わたしは世の光である」と言われた主イエスの福音は、それ を聴く人々の間に大きな波紋を拡げました。多くの人々はその御言葉を受け入れず、 主イエスをキリストと信じることをしませんでしたが、少数ながら信じた人々がいた のです。そこに主イエスに従う群れが(主の教会が)形造られてゆきました。  さて、主イエスを信じない人々の代表はパリサイ派の律法学者たちでした。彼らは 「わたしは世の光である」と言われた主の御言葉に対してあからさまな敵意を示し、 わざと群衆の前で主イエスを罵ったのでした。今朝のヨハネ伝8章13節以下の御言 葉です。「するとパリサイ人たちがイエスに言った、『あなたは、自分のことをあかし している。あなたのあかしは真実ではない』」。  このパリサイ人たちの発言は、証言における“権威の問題”を問うものでした。な んとかして主イエスを失脚させ(あわよくば殺そうと)画策していたパリサイ人らに とって、主イエスが語られた「わたしは世の光である」という言葉は、自分を神と等 しい者とする神聖冒涜であり、許し難い発言だと理解されたのです。  パリサイ人らは「あなたは何という不遜な発言をするのか」と厳しく主イエスを糾 弾したのです。神ならぬ人間が自分を「世の光」などとなぜ言えるのか。ましてあな たは「異邦人の地」ガリラヤの出身であり、学問もなければ権威もない、ただの庶民 に過ぎぬ者ではないか。そのような者が自分を「世の光」などと言うのは、それこそ 神を汚す冒涜の罪ではないかと詰め寄ったのです。  そこでパリサイ人らが、主イエスを糾弾する旗印としたのが「あかし」の問題(証 言における権威の問題)でした。あなたは何の権威によって自分を「世の光」と称す るのか。律法によれば、複数の証人がいなければ証言(証しの言葉)には何の権威も ない。あなたは自分一人で「世の光」と言うだけなのだから、その言葉には何の権威 もなく、あなたは偽りを語る罪人である。まさに“権威の所在”の問題を彼らは論(あ げつら)ったわけです。  もっとも、彼らパリサイ人らにしてみれば、最初から「主イエスの御言葉の真偽を 確かめよう」などという思いはありませんでした。真理に対して公平無私な判断をし ようとしていたわけではないのです。むしろ彼らは最初から、主イエスは律法に背く 罪人であり、その言葉も行いも人を欺くまやかしだと決めつけていました。パリサイ 人らにとって「罪」とは律法に背くことだけでした。生ける神の御言葉はどうでもよ かったのです。その彼らの基準に照らせば、主イエスは罪人でしかなかったのです。  旧約聖書・申命記19章15節に「どんな不正であれ、どんな咎であれ、すべて人の 犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人により、また は三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない」と定められています。 パリサイ人らが持ち出したのはまさにこの規定でした。彼らは主イエスに第三者とし ての「証人」が無いことを問題にし「あなたは、自分のことをあかししている。あな たのあかしは真実ではない」と決めつけたのです。  この、パリサイ人らの傲慢な決めつけに対し、主イエスは今朝の14節以下にこう お答えになっておられます「イエスは彼らに答えて言われた、『たとい、わたしが自分 のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからき たのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わ たしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。あなたがたは肉によって人をさば くが、わたしはだれをもさばかない。しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたし のさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかた が、わたしと一緒だからである。』」。  主イエスは言われるのです。「わたしは、自分が何処から来て何処に行くのかを知っ ている者である」と。人間にとって最大の関心事はまさにここにあるのではないでし ょうか。夏目漱石の「門」という小説に、主人公の青年が鎌倉の円覚寺を訪ねて座禅 をする場面があります。この青年に老師が言います。「まあ、父母未生以前の己につい て考えるのも、悪くはなかろう」と。これが禅の公案(老師から参禅者に出される宿 題のようなもの)でした。「父母が生まれる以前に、おまえは何処に存在したのか」と いう哲学的な問いです。  そこでこの青年(漱石自身)は一所懸命に考えまして、やがて一週間が過ぎた頃、 老師のもとに自分なりの答えを持って行きます。ところが老師は眼光するどく彼を一 瞥するなり「もっと“ぎろり”としたものを持って来い」と言い放つのです。その迫 力に射すくめられ、ほうほうの体でそこを立ち去り途方に暮れる、それは漱石自身の 生きた体験でした。実はここに漱石は、近代の人間が避け難く持つエゴイズムと精神 の弱さの問題を見据えています。近代人は人生のもっとも深い問題に対して「ぎろり とした」確かな答えなど持ちえない存在だということです。  しかし主イエスは、そういう哲学的な問いで私たちの心を射すくめられるようなか たではないのです。それに「答えられない」からといって私たちを立ち去らせるよう なかたでもありません。そうではなく、今朝のこの御言葉においてはまず主イエス御 自身がもっとも確かな答えを私たちに与えておられるのです。御自分の身をもって最 も確かな答えを示していて下さいます。それが「わたしは、自分が何処から来たのか、 また、どこに行くのかを知っている」ということなのです。  譬えて言うならこういうことになるでしょう。私たちが知らない土地に旅をして駅 前からバスに乗るとします。バスには行先が書いてあります。ただそれだけで私たち は具体的にそのバスがどういう道を通って目的地に行くのかを知らなくても、安心し てバスに乗ることができます。運転手はそれを知っているからです。それと同じよう に主イエス・キリストは私たちを永遠の御国へと導いて下さる唯一の導き手(運転手) です。私ちはどんな道(人生)を通ってそこに行くのかは知らなくても、そのことで 不安にはなりません。それは主イエスが知り尽くしておられ、かつ最もよい方法で最 善のルートで私たちを御国へと導いて下さるからです。だから私たちに求められてい ることは二つのことだけです。第一にバスを乗り間違えないこと。第二にバスの運転 手(キリスト)を信頼することです。  それなら、私たちはそこでこそ主イエスが語られた重要な御言葉を受け止めねばな りません。すなわち主がパリサイ人らに語られたことです。「しかし、あなたがたは、 わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない」。これは主イエスを信頼しないこ と(つまり「キリスト」と告白しないということ)です。主イエスが神から出て神に 帰られるかただと信じないということです。「イエスはキリストなり」と信ずることを しないことです。そのときパリサイ人らの歩みは、バスを乗り間違えた乗客と同じに なってしまいます。別の運転手の操るバスに乗って全く違う目的地に着いてしまうの です。  まさにそこから15節の罪が現れてきます。それは私たち一人びとりの罪でもあり ます。「あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれをもさばかない」。主は 「わたしはだれをもさばかない」と言われます。主が審くことをなさらないのに私た ちは「肉によって」すなわち自分の物差しで隣人を簡単に審くのです。一万タラント もの膨大な負債を主に赦して戴いたにもかかわらず、その恵みを見事に忘れてたった 50デナリを返せない隣人を審くのです。自分の目の中に「梁」があるにもかかわらず、 他人の目の「塵」を取らせてくれと言うのです。  それこそパリサイ人の心です。「罪」を自分にではなくいつも他人の中に見出す心で す。そしてほんの僅かな汚れや醜さを目にしてもさも潔癖そうに眉をひそめ、自分が いかにそれと無関係の者であるかをアピールするのです。自分の心を自分で磨き上げ、 ピカピカに光らせて、その光を曇らす一点の汚れもしみも他人から受けたくはないと 願う自己保身の心です。そこに「審き」が生まれます。審きは自己保身の心の現れで す。自分を守ることが他者への審きを生み出すのです。  それこそ、パリサイ人の心であると同時に私たちの心でもあるのではないでしょう か。私たちの心もまた自己保身の原理原則に支配されて頑なになっていることはない でしょうか。私たちもパリサイ人と似てくるのです。私たちは罪から離れようと願っ て罪を離れうる者ではなく、むしろ使徒パウロが言うように「欲するところの善は行 わず、欲しない悪はこれを行う」者です。たとえ修行をしても全く無意味です。罪は 私たちの外にではなくまさに私たちの内側にあるのです。「ああわれ悩める者なるかな。 この罪の身体より我を救う者は誰ぞや」。このパウロの叫びはまことに、私たち一人び とりのものなのです。  それなら、聖書は(キリストの福音は)そこでこそ大きな永遠の確かな答えを、い ま私たちと共にいます贖い主キリストの御口から世に宣べ伝えているのではないでし ょうか。「われらの主イエス・キリストによりて、神はほむべきかな」。キリストのみ が永遠に讃めたたえられますように。なぜならこのおかたのみが、私たちの底知れぬ 罪を担われて十字架にかかりたもうた唯一の救い主だからです。  主イエスは今朝の御言葉の16節に「しかし、もしわたしがさばくとすれば、わた しのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたか たが、わたしと一緒だからである」と語られました。十字架の主イエス・キリストの みが「正しいさばき」を世になしうる唯一の救い主です。私たちを捕らえている罪は キリストの福音によって(十字架の出来事によって)永遠に審かれるのです。解決さ れるのです。それは私たちが負うべき罪の審きを神の御子イエス・キリストが、私た ちに代わって担い取って下さったことです。これこそ福音の真髄なのです。罪なき神 の御子が私たちのために罪を担われ、私たちに代わって永遠の死としての審きを死ん で下さったこと。それがキリストの死の真相なのです。  だからキリストの死は、愛に満ちた素晴らしい人格者であるキリストというかたが、 その愛のゆえに私たちのために死なれたという単なる歴史的出来事ではない。そうで はなくキリストの死は、永遠の滅びとしての死と罪の審きを、このおかたが私たちの 身代わりとなって引き受けて下さったことなのです。それを聖書では「あがない」と 言うのです。だからキリストの死は「あがないの死」と呼ばれます。英語では“アト ンメントと申します。「二つのものを一つにする」という意味です。  神から離れていた私たち、罪の支配にしかなかった私たち、天国行きのバスを乗り 間違えようとしていた私たち、その私たちを救うために御子イエス・キリストは私た ちの罪の底辺にまで降ってきて下さり、そこで呪いの十字架を担われ、永遠の死とし ての罪人の死を御自分の身に引き受けて下さいました。エペソ書2章14節の告げる とおりです。「(キリストは)二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきた らせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字 架にかけて滅ぼしてしまったのである」。これこそ福音そのものであり、私たちが賜わ っている「救い」なのです。  だからパリサイ人らが「あなたの父はどこにいるのか」と主イエスに訊ねたとき、 主イエスは19節にこうお答えになりました。「あなたがたは、わたしをもわたしの父 をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知 っていたであろう」。のちに主イエスは弟子の一人ピリポに「わたしを見た者は父を見 たのである」と語られました。私たちは神について漠然と知る者たちではない。私た ちは主イエスの恵みを知るとき、主イエスを信ずる者として生きるとき、あたかも父 なる神の御もとにありて神の御顔を拝するような確かさをもって父なる神を知る者と されているのです。神はその独り子なる主イエスを私たちのために世にお遣わしにな ったほど私たちを愛したもうかたです。キリストの御言葉、キリストの御業、何より もキリストの十字架において、私たちは神の愛がいかに絶大なものであるか。そして 私たちを救いたもう神の御業がいかに確かなものであるか。それを知りそれを宣べ伝 えその恵みの確かさに生きる群れとされているのです。  私たちはときどき、自分に与えられている“救いの確かさ”を問うことがあるので はないか。自分は本当に救われているのだろうか?。本当に祝福されている存在なの だろうか?。少なくとも自分自身を見つめるかぎりは全く自信が持てません。疑心暗 鬼に陥るのです。迷いを生ずるのです。しかし私たちはいつも、今朝の御言葉の確か さの前に生きる者とされているのです。  それは「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実であ る」そして「わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである」と言われた キリストの恵みの御言葉の確かさです。私たちの救いの確かさ、それはキリストの恵 みの確かさなのです。キリスト御自身の確かさこそ、私たちの救い(また祝福)の確 かさなのです。そして私たちはいつも確信する者たちです。このかたが十字架の熾烈 な愛と恵みをもって永遠に変りなく私たちの救いの「証人」となっていて下さること を…。われらの生きる時にも死ぬ時にも、変ることなき唯一の救い主(慰め)として、 このおかたこそ、私たちの救いの「権威の所在」なのです。私たちの救いの確かさは キリストの確かさなのです。  そこに、私たちはただ恵みによって招かれ、キリストの御身体なる教会に連なる者 とされ、主のご復活の生命に結ばれつつ、神による一つの民とされ、心を高く上げて、 新しいこの年の旅路を歩んで参ります。キリストに贖われた僕として、生命のかぎり、 否、死を超えてまでも…。そこに私たちの幸いがあり喜びがあり、そこにキリストに 根ざした者たるわれらの感謝と自由の生活が造られてゆくのです。