説    教    ヨブ記33章12〜18節   ヨハネ福音書8章12節

「全ての人を照らす光」

2008・12・28(説教08521252)  2008年最後の主日礼拝を迎えました。この礼拝で私たちに与えられた御言葉はヨ ハネ福音書8章12節です。「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世 の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつで あろう』」。  ここに主イエスは「人々に語ってこう言われた」とあります。この表現はすこし“回 りくどい言いかた”です。「語る」も「言う」も同じことではないでしょうか。文語の聖 書でも「かくてイエス、また人々に語りて言い給ふ」となっています。やはりいささか 日本語として不自然な印象を受けるのです。 それは翻訳の問題ではなく、元々のギリシヤ語がそうなのです。原文では“ラレオー” と“レゴー”という、ともに「語る」という意味の言葉が続けて記されています。どち らか一つで良さそうなものですが、そこに大切な意味があるからこそ、聖書はあえてこ のような“回りくどい言いかた”をしているのです。  1545年にルターが訳したドイツ語の聖書を見ますと、今朝の御言葉では「説教する」 という意味の“レーデン”と「普通に語る」という意味の“ゼーゲン”という2つの言 葉が使い分けられています。ルターはこの2つの言葉を注意ぶかく使い分けることによ り、今朝の御言葉の場面を忠実に浮き立たせているのです。  主イエスの御言葉はその全てが福音の説教(救いの音信)です。主イエスは常に神の 御言葉のみを人々に語られました。しかしそれは人々の日常会話からかけ離れたもので はなく、むしろ聴く人々の誰もが理解できる心に届く「普通の言葉」で福音をお語りに なったのです。それが「人々に語って言われた」と記されている意味なのです。  あるとき、主イエスと共に「非常に高い山」に上った、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3 人の弟子たちは、そこで主イエスの御姿がまばゆく輝くのを目の当たりにしました。そ こにモーセとエリヤが現れ主イエスと会話をしたのを聞きました。ところが彼らはその 会話を全く理解できませんでした。地上の事柄ではなく、いと高き神の真理そのものが 語られていたからです。弟子たちは辛うじて、自分たちがどんなに尊く素晴らしい場面 に居合わせているかを理解したのみでした。使徒パウロも第二コリント書12章におい て「口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉」それが福音の本質であると語っ ています。神の御顔を仰ぐとはそういう経験です。神の現臨に居合わせるとはそういう 「言い表し難き」言葉を聴くことです。それは名状しがたく語り得ない言葉なのです。  それでは、主イエスは何と語られたのでしょうか?。「わたしは世の光である。わたし に従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。これこそ主 イエスが説教の言葉として、御自身の御身体なる教会を通して、いま全世界に告げてお られる福音の御言葉です。  イスラエルの「仮庵の祭」の最終日には、かならず行われるイベントがありました。 それは日没と同時に神殿の中庭に置かれた大きな四つの松明に炎が灯されることでした。 その炎は非常に明るくエルサレムの街中を照らしたと伝えられています。それはかつて 出エジプトの時イスラエルの民の荒野の旅を導いた「火の柱」を記念するものでした。 主イエスが今朝の12節の御言葉を人々に語られたのは、まさしくその松明の光がエル サレムを照らし始めた時でした。どんなに明るい松明の炎もやがては消えてゆく一時的 な光にすぎません。それが燃え尽きれば町も人々も再びもとの暗闇に閉ざされてしまう のです。  しかし、主イエスが私たちに与えたもう「光」は決して消えることのない「永遠の光」 なのです。私たちの歩みを照らし永遠の御国へと導く「不滅の光」です。そこでこそ主 イエスは、まもなく消えてゆく松明の光をさして言われるのです「わたしは世の光であ る」と…。あの松明の光はいま見えていても消えてゆくほかはないのです。人々は暗闇 の中を家路につくのです。人々の歩みを深い暗闇が覆うのです。その現実の中でこそ主 は言われます。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ であろう」と。  この「命」とは「永遠の生命」です。「肉体の生命が続く間だけ私たちを照らす光」で はありません。主が私たちに与えて下さる「光」は死を超えてまでも私たちの歩みを照 らし支えるものです。この光は陰府の力さえ打ち滅ぼす“救いの権威”を持つのです。 そのような「まことの光」を私たちは主イエス・キリストによって戴いているのです。  「わたしは、何々である」という御言葉は、ヨハネ伝に数多く出てくる独特な表現で す。私たちが社会生活の中で様々な困難や悩みに出遭うとき、心が悲しみや憂いで塞が れるとき「こうすればあなたの問題は解決する」とか「こうすれば立ち直れる」とか語 ってくれる人はあるでしょう。しかしいったい誰が「わたしはあなたの光である」と語 ってくれるでしょうか?。これこそ使徒パウロの言う「人間が語り得ない言葉」であり、 名状しがたき御言葉なのです。  主はまさに「わたしは世の光である」と語り告げて下さる唯一の“救い主”として私 たちのもとを訪ね、私たちと共におられ、私たちを「命の光」すなわち“永遠の生命” へと導いて下さるかたなのです。同じヨハネ伝の1章9節を改めて思い起こします「す べての人を照すまことの光があって、世にきた」。ヨハネが喜びと讃美をもって全世界に 告げる福音のおとずれは、ただ単に「すべての人を照す光」が存在するという哲学的な 教えではありません。ヨハネはその「光」が「まことの神」として「世にきた」という おとずれを告げるのです。それこそ同じヨハネ伝3章16節に呼応する福音の調べです。 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる 者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。 神は実にその独り子を「賜わったほどに」この私たちの世界を、私たち一人びとりを 愛して下さった。私たちを罪の中に放置なさらず、私たちを救うために測り知れない愛 をもって御子イエス・キリストを与えて下さいました。それこそ福音の本質なのです。 永遠にして聖なる神御自身が、有限にして相対的な、死すべき罪人である私たち人間の 姿になられ、徹底的に身を低くされて、私たちの罪と死のどん底にまで降りて来て下さ り、私たちのために十字架を担われたのです。それが「すべての人を照すまことの光が あって、世にきた」ということなのです。  なぜ主イエスは「世の光」なのでしょう。それはこのかたのみが罪と死に勝利された 十字架の主であられるからです。このかたのみが十字架によって私たちの罪を決定的に 担い取り解決して下さった唯一の救い主だからです。このかたのみが墓に葬られ陰府に まで降りたもうて、永遠の滅びから私たちを贖い神の民として下さった唯一の主であら れるからです。それゆえ今朝の御言葉には主イエスが私たちのために背負って下さった 十字架の重みがかかっているのです。この十字架の恵みによってこそ主は「わたしは、 世の光である」と語り告げていて下さるのです。  今朝の主イエスの説教を聴いていた人々の中に、律法学者たちに審かれ殺されそうに なった、あの名もなき女性も含まれていたことでしょう。彼女は十字架のキリストによ って自分の罪が贖われ、真の赦しと生命を与えられた喜びと感謝の内にこの御言葉を聴 き、主イエスを信じたことでした。あの女性にとって主イエスと出会うまでは人生の歩 みは罪の暗闇に閉ざされていました。虚しい慰めに一時的に縋っても、それはちょうど 「仮庵の祭」の松明のようなもので、それはすぐに消え、以前よりも更に深い暗闇が彼 女の存在を覆ったのです。  その彼女が、罪の淵から主イエスによって贖われ、まことの“救い”を戴きました。 まさしく「世の光」そのものである主イエスによって「命の光をもつ」人生へと生まれ 変わったのです。彼女を審こうとしたパリサイ人らが主の御声によって悔改め、手にし ていた石を投げ捨てたように、彼女もまた自分を「正しい」とする「罪」からキリスト の贖いによって立ち上がらせて戴きました。どのような光も決して照らしえなかった彼 女の魂を「世の光」「すべての人を照らすまことの光」であられる主イエスのみが照らし、 主イエスのみが彼女の存在を罪の重みも含めて受け止めて下さり、死の淵から立ち上が らせて下さったのです。  私たちも、同じではないでしょうか。私たちのもとにもキリストが訪ねて下さったか らです。それこそクリスマスの恵みです。ドストエフスキーが「永遠の暗闇」と呼んだ 魂の暗闇(罪)を誰もが持っています。懐中電灯で夜空を照らしても無意味なように、 私たちは自分で自分の罪をどうすることもできません。その私たちのもとにキリストが 訪れて下さった…。そこで主が一方的な恵みを宣言して下さいます。「あなたは生命の光 を持つ者とされている」と…。キリストが訪れて下さった私たちは、いま「生命の光」 を持つ者とされているのです。  使徒行伝の第14章に、使徒パウロが小アジアのルステラという町で受けた迫害の様 子が記されています。パウロはそこで暴徒と化した群衆によって「石打ちの刑」に遭い ました。人々はパウロが「死んでしまったと思って」パウロの遺体を町の外に引きずり 出したと記されています。ところが20節を見ますと「しかし弟子たちがパウロを取り 囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った」と記されているのです。さら に21節以下にはこうあります「そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって 出かけた。その町で福音を伝えて、多ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、 アンテオケの町々に帰って行き、弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励 し、『わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない』と語った。 また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じてい る主にゆだねた」。  ここで注目すべきことは、使徒パウロは「石打ちの刑」を受け「死んでしまった」と 思われるほどの傷を受けたのですが、そこで歩みが終わったのではなく、立ち上がった パウロはただちに迫害を受けたルステラに「入って行き」福音を宣べ伝えたと記されて いることです。これこそ神のなせる御業ではないでしょうか。たったいま自分が石で打 たれ瀕死の重傷を負わされたその町に、起き上がると同時に再び入って行くのです。キ リストの福音をたずさえ、平和と祝福を人々に与えるために…。それこそ今朝の御言葉 であるヨハネ伝8章12節の生き生きとした実例なのです。「わたしは世の光である。わ たしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 パウロは「世の光」としてパウロを照らし、罪を贖って下さったイエス・キリストに 従う者とされ、その福音を携えつつ生きる者となった時、石打ちの刑をもものともせず もなおそこで立ち上がり、迫害した町に福音を宣べ伝える者として、主の御業のために 用いられたのです。そこに多くの人々がキリストを信じて洗礼を受け、教会が力強く建 てられてゆくことになりました。それこそまことに「やみのうちを歩くことがなく、命 の光をもつであろう」と主が言われた、そのままの歩みなのです。  私たちもまた一人びとりが同じ主を信じ、同じ主に贖われ、従う者とされているので す。私たちこそ「世の光」であられるキリストに出逢っている者たちです。キリストが 十字架をもって贖い取って下さった者たちなのです。その私たちに主は「わたしに従っ て来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と約束して下さる のです。 共に心を高く上げて、主に従う者の歩み、礼拝者としての生活を、平安のうちに歩ん で参りたいと思います。新しい2009年の歩みをも、いっそう祈りを深めて主の栄光 のみを現わす群れであり続けましょう。主はその「まことの光」「世の光」「命の光」を もって日々新しく私たちを照らし、主の道を最後まで歩ませて下さるのです。