説    教    イザヤ書7章14節   ルカ福音書2章1〜7節

「余地なきところに」 聖夜礼拝

2008・12・24(説教0851b1251)  2008年のクリスマスを迎えました。クリスマスとはラテン語で「キリストを礼拝す る日」という意味です。ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった神の御子イエス・キ リストを心から喜び迎え、その御前に真実の礼拝を献げる時です。 クリスマスには、二つのクリスマスがあるのです。ひとつは「キリストがお生まれ にならないクリスマス」。もうひとつは「キリストがお生まれになるクリスマス」です。 私たちは形だけのクリスマスではなく、神の御子イエス・キリストを心から礼拝し、 その限りない愛と救いにあずかる「キリストがお生まれになるクリスマス」を迎えよ うとしているのです。 今年を象徴する漢字は「変」という文字だそうです。私たちは改めてこの一年も、 人間の「変な心」(エゴイズム)が世界を支配した年であったことを振返ります。エゴ イズムの“エゴ”とはギリシヤ語で「自分だけ」という意味です。そこに罪の本質が あります。文字どおり「自分だけ」が世界の(また人生の)中心であろうとすること です。  そして世界は「百年に一度」という「変」な大不況の嵐を経験しています。もとを ただすなら、しかしその原因も人間の「自分だけが良ければ…」というエゴイズムの 結果ではないでしょうか。積み重なったエゴイズムが経済格差や派遣労働者の失業を 生み、混乱や憎しみや争いや審きを惹き起こし、戦争の引金にさえなります。解決の 糸口すら見えない深い闇の中に、いま世界は覆われています。数々の犯罪が起こり、 若者たちが麻薬に溺れ、絶望感が拡がりつつあるのです。  そこで聖書はそのエゴイズムの根本原因が、まことの神から離れてしまった私たち 人間の「罪」であることを明らかにします。ひとことで言うなら“自分を神とするこ と”です。そこにエゴイズムの極致があります。自分が「神」にまで成上がり、他者 を支配しようとする自惚れた「変な心」です。そこに、神が喜びたもう愛と理解と寛 容は失われ、憎しみと報復の連鎖反応が生れます。そこに人々は希望を失い、自分だ けを愛し、自分だけを守ろうとします。それがこの世界を覆う暗闇の原因になってい るのです。  では、私たちの主イエス・キリストは、どこにお生まれになったのでしょう?。主 キリストはまさに、この世界の暗闇のただ中にお生まれになったのです。主がお生ま れになったのはユダヤのベツレヘムという村の片隅の馬小屋の飼葉桶の中でした。世 界で最も貧しく低く暗く寒いところに、最初のクリスマスが訪れたのです。神は大切 な御自身の独り子を「この世界は醜い駄目な世界だ」と言って送らなかったのではな く、まさに「醜い駄目な世界」(私たちの変な現実)のただ中にこそ、お遣わし下さっ たのです。暗黒の中にキリストはお生まれになりました。  さきほどお読みしましたルカによる福音書2章1節から7節までのところに、主イ エス・キリスト御降誕の出来事が告げられていました。時のローマ皇帝アウグストの 無謀な命令によって、ヨセフは「いいなづけの妻マリヤ」を伴いガリラヤのナザレか ら遠く離れた「ユダヤのベツレヘム」までの旅を強制されます。それは臨月を迎えて いたマリヤにとって生命がけの旅でした。しかしようやく辿り着いたベツレヘムには、 彼らを迎える宿屋は一軒も無かったのです。だからマリヤは馬小屋で「月満ちて」男 の子を産みました。主イエスの御降誕です。  出産は母親にとっても、生れてくる赤ちゃんにとっても、生命の危険を伴う一大事 です。だから大勢の人が協力し、生命の誕生を「場所を備えて」迎えます。しかし主 キリストの御降誕は違いました。今日の御言葉の2章7節を見ますと「客間には彼ら のいる余地がなかった」と記されています。神がお与えになった最大のプレゼントで ある御子キリストの御降誕をお迎えする場所を、私たちのこの世界は(私たちの人生 は)どこにも持たなかった。私たちの中にはどこにも「余地」がなかったのです。  普通なら「余地」がなければ、キリストはお生まれにならないはずです。私たちも 飛行機や新幹線の切符を買うとき「もう余地がありません」と言われれば諦めるので す。しかし主なる神はそうではなかった。その「余地なきところ」に御子をお送りに なられるのです。それほどまでに、私たちを極みまでも愛して下さったのです。キリ ストは私たちの「余地なきところ」にこそ来て下さったのです。  クリスマス・カードの絵を見ると、飼葉桶の中に眠りたもう御子イエス・キリスト の周りを、ヨセフとマリヤ、そして馬や牛、羊やヤギ、豚や鶏などが囲んでいる場面 があります。たった一本のロウソクが主イエスのお顔を照らしています。中世ドイツ のデューラーという画家もそのような光景を描いています。それは現実の光景であっ たと思います。今日でもイスラエルのベツレヘムの冬はとても寒く、雪もよく降りま す。身を覆う産着さえない、世界で最も貧しく低く暗く寒いところに、主はお生まれ になったのです。  「客間には彼らのいる余地がなかった」。この御言葉は今日なお続く私たち人間の底 知れぬエゴイズムを現わしています。主イエスの御降誕をお迎えするのに、どこにも 「余地」などない世界の現実です。しかし、まさにそのような「余地なきところ」に こそキリストはお生まれ下さいました。それがクリスマスの出来事です。それは“神 の愛の奇跡”です。「余地なきところ」が「神ともにいます場所」になり、暗黒の中に 神が訪れて下さったという奇跡です。「余地なき」世界の現実の中にこそキリストはお 生まれになった…これが奇跡でなくして何が奇跡でしょうか。 私たちはこのクリスマスの出来事によって、神から限りない祝福を戴いているので す。それは「どんな時にも神があなたと共におられる」という祝福です。私たちはこ ういう経験をします。自分が大きな苦しみに出遭い、孤独の中で重荷を背負うとき、 誰か一人でもよい、傍らにいて共に涙を流し、理解してくれる人がいれば、それだけ で私たちは勇気と希望を持つことができます。しかしその人も私たちの罪と死までは 担えません。どんなに親しい友人も、死の彼方まで一緒にいることはできません。し かしキリストは永遠に変わらず、死の彼方にまで私たちと共にいて下さるまことの 「主」なのです。  ヨハネは「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と告げました。果 てしない闇の中に「すべての人を照らすまことの光」が来たのです。たとえこの世界 をどんなに大きな「罪」が支配しているように見えても、実はこの世界は、神が御子 イエス・キリストを与えて下さったほど、神に愛されている祝福された世界であり、 私たちの存在もそうなのだということ。「あなたのために御子がお生まれになった」そ の恵みを改めて知る時こそこのクリスマスです。  この御子イエス・キリストは私たちのために、十字架への道を歩んで下さいました。 私たちの罪を贖い、真の自由と平和と幸いを与えるために、あらゆる御苦しみを受け、 ご自分の生命を献げ尽くして下さいました。ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった 主イエスは、まさに十字架にかかるためにお生まれになったのです。私たちの罪を徹 底的に担われ、私たちに御自身の生命を与え、私たちといつまでも共にいて下さるか たとして、主は十字架への道を歩んで下さったのです。  私たちはこのクリスマスの祝福の光のもとに新しく自分の人生を“恵みの賜物”と して戴いています。キェルケゴールという哲学者は「クリスマスの恵みを知ることは あらゆる絶望からの解放である」と語りました。それはキリストが、私たちの絶望そ のものである「罪」さえも担って十字架にかかって下さったからです。このキリスト の愛と恵みを知る者は、どのような人生の現実の中にもなお勇気と慰めをもって出て ゆくことができるのです。祝福の「余地なき」所にさえ、神の祝福を語る者とされて いるのです。  それゆえ私たちは全世界の人々と共に、そして天に召された全ての主の証し人たち と共に、声をあわせて「クリスマスおめでとう」と祝福を告げ合います。「おめでとう。 主はあなたのために、そして全ての人のために、お生まれになりました」と。私たち は心からなる感謝をもって、ともに御降誕の主の御前にひざまずき、主を礼拝する者 となりたいと思います。