説    教   イザヤ書9章6〜7節   ローマ書3章21〜26節

「クリスマス・神は汝と共に」 降誕節礼拝

2008・12・21(説教08511250)  主イエス・キリストの御聖誕の日は、実は聖書には何月何日と記されてはいません。多 くの教会では西方教会の伝統に従い12月24日と25日をクリスマスといたしますが、東 方教会などでは1月5日や1月6日にクリスマス礼拝を献げる教会も少なくありません。 特に私たちの教会では主日の礼拝を大切にする伝統から、12月24日の前の日曜日を「ク リスマス礼拝」といたします。 いずれにせよ、一年のある特定の日を主キリスト御聖誕の日として礼拝を献げることが 全てのキリスト教会の喜びとなった、そこには大きな意味があるのです。聖書の信仰に生 きることは、クリスマスの祝日を持つことを、かなり早い時期から必要としてきたという ことです。それはなぜか…。ひとつの確かな答えは、永遠と時間、神と人との交わりにつ いての聖書的な信仰は、明確な日にちを確定することを必要としたということなのです。  聖書によれば、永遠はただ時間に対して漠然と接触したというのではなく、永遠なるお かた(神)が私たちのこの世界に、そして歴史の中に、御子イエス・キリストの御降誕に よって(神が人となられるという驚くべき仕方で)介入して下さった明確な出来事こそ福 音の内容そのものなのです。漠然とした観念的な「救い」ではなく、明確に歴史の中に刻 まれた、神がなさった具体的な救いの出来事こそ、クリスマスの喜びのおとずれなのです。  神はこの世界を、そして人類の歴史全体を罪から贖い、救われるために、御子イエス・ キリストを、今から二千年前のある日、世にお遣わしになりました。それこそ、クリスマ スの出来事です。御子イエスは父なる神の永遠の御心の内に神と等しいおかたであったに もかかわらず、みずからを全く空しくせられ、僕の貌をお取りなって、私たちのこの世界 に、しかも最も低く貧しく暗いところに、私たちの罪の世界のただ中に、お生まれ下さっ たおかたなのです。  私たちはクリスマス前の四週間を「アドヴェント」(待降節)として過ごしてきました。 この「アドヴェント」とはもともとラテン語で「迫り来る」という意味の言葉です。そこ から「キリストがあなたのために来られる」という意味になりました。 そのことは、ルカ福音書の19章に記された、エリコの町における取税人ザアカイと主 イエスとの出会いの出来事を見るとよくわかります。あの中でザアカイは、まさに自分の ために来て下さった主イエス・キリストに出会い、キリストを家に迎おえしました。その 様子を見たエリコの町の人々は「彼(主イエス)は罪人の家にはいって客となられた」と 言ったと記されています。はからずもこれがクリスマスの本質を言いあらわしているので す。まさにクリスマスは、神の御子が「罪人」である私たちの「家にはいって客となられ た」出来事だからです。  ドイツのある神学者が、クリスマスの説教の中でこう語っています。私たちは毎年クリ スマスを迎えるたび「羊飼いらは神を讃美しながら帰って行った」という御言葉を聴く。 しかし私たちは本当にこの御言葉を真実に受け止めているだろうか?。クリスマスの祝い が終わればみな帰ってゆく。私たちもいつもと同じ足取りで家路につく。それぞれに帰る 場所がある。天使たちさえ天に帰ってゆく。みな自分の居場所に帰る。しかしただお一人 だけ例外がある。主イエス・キリストだけは御自分の居場所を持たれない。私たちのため に御自分の全てを献げるためにお生まれになった。私たちはそのかたにいま、信仰のまな ざしを注いでいるであろうか。  「しかし、ただ一人のおかたのみは違うのだ。主なる神だけは、御降誕の主イエス・キ リストだけは、私たちと違った道を歩まれる。殺人と分裂、争いと悲劇のなりやまぬこの 世界のただ中に、そこでこそ私たちと共にあることを欲したもうおかたとして、終わりま で私たちと共にいて下さるおかたとして、このおかた(キリスト)のみは私たちとは違う 道を歩まれる」。  「アドヴェント」という言葉は「危険」や「冒険」を意味する外国語の語源ともなりま した。それは何より主イエス・キリストが私たちの救いのために歩まれた道を示していま す。主イエス・キリストは、クリスマスを祝った人々がみな自分の居場所に帰ったように、 天の父のもとに帰られることもできたはずです。しかし主はその道を歩まれなかった。そ の道を選ばれなかった。主イエスは私たちと同じ家路をたどられなかった。主イエスはこ の罪の暗黒の世界のために最後まで御自身を献げたもうおかたとして、私たちとは違う道 をただお一人歩まれたのです。あの十字架の死に至るまで…。そこでこそヨハネ伝3章16 節はこう告げています「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」。  それでは、主イエス・キリストが歩まれたその道によって、私たちのこの世界に、この 歴史の中に、いまどのような喜びの音信が宣べ伝えられているのでしょうか。私たちはど のような救いをいま与えられているのでしょうか。そのことを明確に示す御言葉こそ今朝 お読みしたローマ書3章21節以下です。「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも 律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信 仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差 別もない」。  宗教改革者ルターが「福音の中心」と呼んだこの有名な聖句は、意外にもクリスマスに はほとんど読まれないようです。しかしここに告げられている事柄はまぎれもなくクリス マスの恵みそのものなのです。まず「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法 と預言者によってあかしされて、現された」とあります。この「しかし」とは、私たちを 捕らえていた罪と死の限界を打ち破る救いの出来事を告げる、神の側からの「しかし」で す。私たちは自分自身を顧みるかぎり、どこにも救いの可能性を持ちません。二千年前の ベツレヘムの馬小屋を深い暗闇が取り囲んでいましたが、それよりもっと深い暗闇が今日 の世界を、そして私たち自身を覆っているのではないでしょうか。  神は「しかし」まさにそのような私たちにこそ、愛する御子イエス・キリストをお与え 下さいました。御子イエスはまさしく「神の義」を世に現すかたとして私たちのもとにお 生まれになりました。「律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて」旧約の 時代から人々が待ち望んでいた救い主(全ての人を照らすまことの光)が、私たちのため にベツレヘムの馬小屋にお生まれになったのです。それが「現された」ということです。  それでは、その「神の義」とはいったい何でしょうか。「イエス・キリストを信じる信仰 による神の義」「すべて信じる人に与えられるもの」「そこにはなんらの差別もない」その 「神の義」とはどのようなものでしょうか?。それを知るために私たちは同じローマ書の 3章23節以下を心にとめたいと思います「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の 栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエス によるあがないによって義とされるのである」。  ここに「すべての人は」とあることが大切です。罪によって「神の栄光」を受けられな くなっているのは私たち自身であり、そこに例外なく私たち人間の現実があるのです。そ こに聖書はこの世界を覆う暗闇の根本原因を見ています。「しかし」そこに御降誕の主キリ ストによって「神の栄光」が現わされた(私たちのために与えられた)のです。それは罪 の赦しによる永遠の生命(神との新しい関係)です。私たちはたとえ肉体はどんなに健康 でも、どんなに多くの賜物に恵まれていても、罪によって神から離れたままでは死んだ存 在なのです。そこに争いや分裂や憎しみが生まれ審きが生じます。生命のない空しい人生 です。 「しかし」そこに、最も低く貧しく暗いところに、キリストは私たちのためにお生まれ になりました。このキリストを「わが主・救い主」と信じ、ベツレヘムの羊飼いたちのよ うに喜び迎えるとき(礼拝するとき)私たちの人生は根底から変えられてゆくのです。主 がいつも共にいて下さることを知る新しい喜びの人生です。まことの神を知り、神の御言 葉を聴きつつ歩む新しい生活です。  主は私たちを「罪」から救い御自身のものとして下さるために、ベツレヘムの馬小屋に お生まれ下さいました。その日歴史の意味が変わりました。紀元前からキリスト紀元(西 暦)が始りました。主が十字架への道をただお一人歩まれ、私たちの罪の「あがない」と して御自分の生命を献げて下さったからです。私たちが捕われていた罪と死を見事に打ち 破って、主が新しい生命を注ぎこんで下さったのです。私たちは自分の中に救いの可能性 を持ちえませんが、神の御子イエス・キリストの御力によって、すなわちその「あがない」 の恵みによって私たちは「義とされる」のです。  そうしますと、この「神の義」とは御降誕の主による救いの御業そのものであることが わかります。つまり「神の義」とは私たちのために主して下さった全ての御業をさすので す。それが「神の栄光」なのです。御降誕と十字架の出来事です。 今朝の御言葉で「神の義」とあるところを「救い」または「救われる」と置き換えて読 んでみると、よくその意味がわかります。神との生ける交わりを失っていた私たちがキリ ストの「あがない」によって、神とのまことの交わりに生きる者とされたことです。  だからこそ主は、あのザアカイに言われました「きょう、救いがこの家に来た。この人 もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われていたものを尋ね出して救うた めである」。神からいちばん遠く離れていたザアカイのもとに主が来て下さった。そのこと によって、神から最も遠いはずのザアカイがいま「神の義」による喜びの生命に生きる者 とされたのです。  同じように、まさに例外なく神から最も遠く離れていた私たちを「義」されるために、 主は「あがない」の恵みをもって私たちのもとに来て下さいました。この独り子を信ずる 者は救われるのです。「そこには何らの差別もない」のです。だからクリスマスは「神の義 の顕現」を祝う日です。私たち全ての者を照らす「まことの光」としてキリストがお生ま れになった喜びを、全世界の人々と共に喜び祝うのです。まさにその「光」の中でこそ、 私たちの人生と存在にまことの意味が与えられ、私たちはそのあるがままに、主の御名を 讃美しつつ、主と共に生きる者とされるのです。  私たちはこのクリスマスの出来事において、たとえどんなに破れ多く悲しみに閉ざされ 絶望的に見える人生の現実の中にも、勇気をもって出てゆくことができる者とされていま す。主イエス・キリストにおける「神の義」(いまあなたのために来た救いの喜び)を知る 私たちは、私たちのためにお生まれ下さった御子イエスの御降誕の恵みによって、これか ら後はどんなことがあっても、主が共にいて下さる平安の内を歩む者とされているのです。 キリストが共にいて下さる恵みを知る者として、勇気と感謝をもって生きる者とされてい るのです。  こういう経験をすることはないでしょうか。ごくありふれた小さなお店があるとします。 その店に遠くから非常に有名な人が訪ねて来たことを知って驚くという経験です。もしそ れがアメリカの大統領だったらどうでしょうか。「これは大変な店だ」と見直すのではない でしょうか。それなら私たちのもとには、私たちの人生には、アメリカの大統領どころで はない、神の永遠の御子イエス・キリストが訪れて下さったのです。そして御自分の生命 を献げて私たちの罪をあがない「義」として下さったのです。そこでこそ私たちはどんな に神に愛されているかを改めて知る者とされているのです。  だからこそ私たちは互いに「クリスマスおめでとう」と祝福の挨拶を交わすのです。「主 はあなたのために、また全ての人々のために、お生まれになりました」と喜びの出来事を 語り合わずにおれないのです。御子の御降誕の恵みは私たちの新生の恵みです。どうかキ リストにおける神の「義」の内に新しく生れた者として、全世界の人々と共に、そして天 にある全ての主の証人たちと共に、心から御子の御降誕の恵みを讃え、歩んでゆく者であ りたいと思います。