説    教   哀歌3章37〜40節   ルカ福音書5章1〜11節

「希望への分水嶺」

2008・12・14(説教08501249)  待降節第3主日の礼拝を迎えました。相撲に譬えるなら「待ったなし」というところです。 主イエスの来臨を私たちは「待ったなし」で迎えようとしているのです。すでにこの礼拝が そうです。私たちは御言葉と聖霊によりいまここに現臨しておられる主イエスの御前に立つ 者とされています。アドヴェントとは「主が来りたもう」という意味です。悔改めて信仰に 立つよりほかにない私たちです。  この大切な礼拝において、私たちに与えられた御言葉は旧約聖書・哀歌3章37節以下で す。哀歌はあまり礼拝説教の御言葉として取り上げられるところではありません。私の記憶 する限りでも祈祷会や婦人会またはナオミ会などで若干触れることはありましたが、こうし て礼拝説教において取り上げたことは無かったかもしれません。  なによりも「なぜ待降節に哀歌なのか?」と不思議に思われるかも知れないのです。「哀歌」 とはその名のごとく「哀しみの歌」という意味だからです。ドイツ語では「嘆きの歌」と訳 します。クリスマスの喜びと相容れぬもののように思えるのです。かつてエルサレムが敵国 バビロンによって蹂躙され滅ぼされたとき、その廃墟の中で生れた「哀しみの歌」が哀歌で す。  文語訳では「ああ悲しいかな」で始まる詩の形で統一されています。無上の哀しみの歌が いつしか整った詩の形を取るようになったのは、哀歌が後代エルサレム滅亡の記念の日の礼 拝で、讃美歌として歌われるようになったからです。神を讃美する讃美の歌声と私たちの罪 の悔改めの祈りが、ここではひとつになっているのです。  ところで哀歌は文語訳では「エレミヤ(の)哀歌」と呼ばれるように、はっきりと預言者 エレミヤの作と理解されていました。口語訳では「エレミヤ」の文字がなくなってただの「哀 歌」となったわけですが、哀歌はやはりその内容から見ても預言者エレミヤとの深い関係を 無視することはできません。  紀元前586年にエルサレムを首都とする南王国ユダが、バビロンの王ネブカドネツァルに よって滅ぼされ、国じゅうの主だった人々がみな敵国バビロンに奴隷として連れ去られる悲 劇が起こりました。有名な「バビロン捕囚」の出来事です。このユダヤ民族史上最大の苦難 の中にあって、預言者エレミヤはそこに単なる歴史の一事件ではなく、神の愛による「救い のための審き」の出来事を見ました。古代の戦争においては、ある国が戦(いくさ)に負け るということは、その国が信じている神の敗北を意味しました。それでエルサレムの人々は、 言い知れぬ屈辱を敵から受けたのです。「お前たちの神は負けたではないか」と罵られたので す。  当時の多くのユダヤ人はこの“エルサレム滅亡”と“バビロン捕囚”いう敗北と屈辱の原 因を、政治的な失策や軍事同盟の失敗、あるいは経済政策の間違いや国際外交の不手際に求 めました。敗北の理由を自分たちの外側に求めたのです。しかしエレミヤは違いました。エ レミヤはそれこそ私たちが御言葉に叛いたことに対する「神の愛による審き」だと語ったの です。敗北の理由は外側にではなくまさに我々の内側にあると語ったのです。神が敗北され たのではなく、我々の罪がこの敗北の原因であると語ったのです。その罪を神が審きたもう た結果こそこの滅亡の出来事である。それがエレミヤの預言の中心的なメッセージでした。  これをユダヤの同胞たちに語ることは、エレミヤ自身の身の危険を招くものでした。神の 御言葉を正しく語る者は、それを正しく聞かない者たちによる迫害を受けねばなりません。 事実エレミヤは国外追放の処分を受けます。この苦しみをエレミヤは同じ哀歌の3章13節 以下にこう記しています。「彼はその箙の矢を、わたしの心臓に打ち込まれた。わたしはすべ ての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となった。彼はわたしを苦い物で飽かせ、にがよ もぎをわたしに飲ませられた」。  同時にこの苦しみの中で、エレミヤは「神の欺き」ということをさえ語ります。エレミヤ 書の20章7節以下です。「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従い ました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。わたしは一日中、 物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、 『暴虐、滅亡』と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりにな るからです」。  このような暗黒の中で、預言者はどのように「まことの光」を人々に宣べ伝えることがで きたのでしょうか。どうして、絶望の中で立ち上がり、御言葉をのみ語ることができたので しょうか。  それは、歴史を支配され、罪を正しく審かれ、この暗黒の世界に御自身の独り子をさえお 与えになる、神の限りない恵みの御業を信じる者とされたからです。哀歌にもエレミヤ書に も“イエス・キリスト”という文字は一度もあらわれてきません。しかし今朝の哀歌の御言 葉を通して、私たちはそこに御降誕の主イエス・キリストの恵みの出来事があざやかに示さ れていることを知るのです。  川端康成の小説「雪国」の冒頭に「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であつた」 という有名な一節があります。山の分水嶺を挟んで明と暗がはっきりと分かれている経験で す。今朝の哀歌の第3章で申しますなら11節から20節までが「暗」の世界であり21節か ら24節は「明」の世界です。その二つの世界の中心にまさに山の分水嶺として立っておら れるかたこそ御降誕の主イエス・キリストなのです。この御降誕の主キリストを見つめ待ち 望みつつ、それをエレミヤは哀歌において、特に3章の21節において「しかし」という言 葉であらわしています。  「しかし、わたしはこの事を心に思い起こす。それゆえ、わたしは望みをいだく。主のい つくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、 あなたの真実は大きい」。  この「しかし」は限りなく重い「しかし」です。私たちの現実を観るなら、私たちは自ら の罪によって敗北し滅びるほかはない者です。滅亡と暴虐とはまさに私たちの内側にあるの です。それが私たちの外側の世界の悲劇をも生み出します。そして私たちはその悲劇に対し て無力でありなす術を持ちえません。罪の嵐が全てのものをなぎ倒してゆくのを手をこまね いて傍観するのみです。それが私たちの現実なのです。  しかし、そこにこそエレミヤはあの大いなる「しかし」を宣べ伝えます。それは御降誕の 主イエス・キリストを信ずる者のみが語りうる「しかし」です。この世界はどこにもこの「し かし」を持ちえません。持ちうるのは因果関係(原因と結果)という現状認識のみです。「し かし」とはこの世界のいかなる暗黒の現実にもかかわらず、否、それだからこそ、神が御子 イエス・キリストをそこにお遣わしになった。この驚くべき“恵みの逆説”を知る者のみが 語りうる「しかし」です。エレミヤはただそれをのみ宣べ伝えているのです。  私たちはここに併せて拝読したルカ福音書第5章1節以下の御言葉を重ね合わせます。こ こにも主イエスのなされる「しかし」が告げられています。ガリラヤ湖で夜通し働いたにも かかわらず“しかし”何も獲れなかったペテロたち漁師に、主イエスは「沖へこぎ出し網を おろして漁をしてみなさい」と言われました。ペテロは「先生、わたしたちは夜通し働きま したが何もとれませんでした。“しかし”お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答え ました。主イエスの“しかし”にペテロが(弟子たちが)「しかしお言葉ですから」信仰をも って応えるとき、そこに新しいことが起るのです。想像を超えた神の御業が現わされるので す。  漁の経験や知識から言えば、ペテロは主イエスとは比較にならないベテラン中のベテラン であり、主イエスは素人に過ぎません。その主イエスが漁において敗北したベテランの漁師 ペテロたちに「もう一度、沖へこぎ出して網を下ろしてみよ」と命じたもうのです。常識を 覆す無理難題な要求です。ペテロは無視しても構わなかったのです。「何を言ってやがる」と 一笑に付しても良かったのです。  しかしペテロは主イエスのこの「しかし」に賭けました。この常識はずれの無理難題の“し かし”(神のなされる御業)に自分の全てを賭けたのです。ですからペテロが「しかしお言葉 ですから」と申したのは経験や知識から出た言葉ではなく、この世界のあらゆる罪の現実に 対して大いなる「しかし」をもって迫り来られる主イエス・キリストに対する信仰の応答な のです。そこで御業をなしておられるのは主イエス御自身でありペテロではありません。主 イエスは大いなる御自身の「しかし」をもって、ペテロの絶望を希望に変えて下さったので す。  私たちはどうでしょうか。私たちもまた今朝の御言葉によってペテロと共に、あるいは廃 墟に立つエルサレムの人々と共に、神が備えて下さった分水嶺(イエス・キリスト)の前に 立つ者とされています。神がいま告げておられる「しかし」の前に立つ者とされています。 そこでこそ問われていることは私たちの“信仰の応答”のみです。キリストか私たちに出会 って下さるとき、悔改めが生じます。私たちもまたペテロと共に叫ばざるをえません。8節 です「シモン・ペテロは、主イエスのひざもとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れ てください。わたしは罪深い者です』」。 どうか私たちはこの2008年のアドヴェントにあたりまして、みずからの信仰を深く省み、 来臨の主の前にペテロのように「主のひざもとにひれ伏す」者となり、心からなる悔改めを なす者たちでありたいと思います。「悔改め」とはおのれを離れて神に立ち帰ることです。キ リストのなされる「しかし」に従うことです。「主よわたしから離れてください」としか言え ない私たちです。まさにその私たちに主が近づいて来て下さったのです。私たちを極みまで も愛し、十字架におかかり下さるかたとして、主は私たちといま共にいて下さいます。  主は罪という名の廃墟にたたずむ私たちに新しい生命を与えて下さいます。主みずから分 水嶺となって私たちを罪の支配から解放し、御自身の永遠の恵みの御支配のもとに移して下 さいます。私たちを神の国の民として下さるのです。そこにクリスマスの喜びがあり、全て の民に宣べ伝えられている大いなる祝福があります。この祝福こそクリスマスのおとずれで す。私たちはいまその喜びのもとに立つ者とされているのです。  御言葉によって打ち砕かれ、信仰に立つ者とされて、私たちは始めて真実に「主に立ち帰 る」者の歩みを歩みはじめるのです。  ある所に、二人の人が祈りのため宮に上りました。一人はパリサイ人、もう一人は取税人 でした。パリサイ人は傲然と目を上げ、取税人の罪を糾弾し、自分の正しさと自分の清さを 誇りました。しかし取税人は目を天に向けようともせず、呻くようにただひとこと「神よ、 罪人のわたしをお赦しください」と祈りました。主イエスは言われました「よく言っておく。 神に義とされて家に帰ったのは、あの取税人であって、パリサイ人ではなかった」(ルカ福音 書18:14)と。  この取税人もまた、神が御子イエス・キリストにおいて現わされた「しかし」に心からの 祈りをもって従った人でした。パリサイ人は自分の正しさだけを誇っていたので神の憐れみ と祝福が見えませんでした。しかし取税人はただ神の正しさだけを見、自分が罪人であるこ とを告白したので、彼はまさに神の正しさによって打ち砕かれ、信仰に立つ者とされたので す。そこに両者の分水嶺がありました。いまここにおられる主イエス・キリストを信じると き、神ご自身が私たち一人びとりに祝福の御業を現わして下さるのです。  キリストの恵みと慈しみのもとに、健やかに立つ者となりましょう。そのことなくして私 たちは人間たりえない。自分をも他者をも審くことから自由にはなりえないのです。どうか もろともに喜びと感謝をもって、来りたもう御降誕の主をお迎えし、主によって私たちのた だ中に、そしてこの全世界に、真実の救いと平和がもたらされていることを、心を高く上げ て信じつつ、福音に聴き従う新しい生活をする私たちでありたいと思います。