説    教    詩篇130篇1〜8節  ヨハネ福音書8章1〜11節

「生命を与える恵み」

2008・12・07(説教08491248)  群衆が見ている前で、律法学者やパリサイ人らによって容赦なく審きの場へと引き 出された女性は、ヨハネ伝の8章を見るかぎり、名前も分からなければ、どういう境 遇の人であったのか、どういう状況で捕えられたのかも不明です。ただわずかに知ら れることは、彼女がおそらくエルサレムの市民であったということ、そして今朝の御 言葉の4節においてパリサイ人らが言うように「姦淫をしている時につかまえられた」 女性であったということです。  いわばこの女性は“匿名の人物”です。私たちは「匿名」と聴くと「自分とは無関 係である」と感じるのですが、聖書ではそうではありません。彼女が匿名の人物であ るということは、そこに私たち自身の名を当てはめて御言葉を聴くように、私たちが 招かれていることです。どこまでも私たち自身の問題なのです。「罪」とはほかならぬ ここに集う私たちの問題だからです。  たから私たちは「自分はこの女性のような罪を犯したことはない」という自負や自 惚れを盾に今朝の御言葉を聴くことはできません。あるいは二千年前にこういう「罪 の女」がいて、危ないところをキリストによって助けて戴いた。キリストはまことに 愛と赦しに満ちたかたである。私たちはどうかそのキリストの愛と赦しを肝に銘じて 生きてゆこう…という結論に導くものでもありません。私たちはそのような社会道徳 的な聖書の読みかたをする群れではありません。  律法学者・パリサイ人らが主イエスに対して投げかけた問いは、まことに巧妙かつ 狡猾な「罠」でした。姦淫の罪で捕まえられた女性は(男性でも同じなのですが)モ ーセの律法によれば「石で打ち殺されねばならない」とある。そこで「あなたは、ど う思いますか?」というのが彼らの問いでした。もし主イエスが「いやいや、そんな ことをしてはならない」と答えれば、神聖なモーセの律法に叛いた「罪」で、主イエ スをこの女性と共に石打ちの刑に処することができるのです。またもし逆に主イエス が「そのとおりである。石打ちの刑にしなさい」と言ったなら、そのとき主イエスは 民衆の支持を失って失脚することになるのです。いずれにしても、彼らは主イエスを 葬り去ることができる。将棋に譬えるなら、完全に詰められた状態です。そのような 一挙両得、巧妙無双の「罠」を、彼らは主イエスに仕掛けたのです。  ところが、主イエスの反応はまことに意外なものでした。彼らが問い続ける間じゅ う主イエスは身をかがめて地面に指で何かを書いておられた。虚仮にされたと思った パリサイ人らはますます勢いづき、執拗に主イエスに詰め寄ります。そこでついに主 イエスは身を起こされて、ただ一言彼らに言われました「あなたがたの中で罪のない 者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた再び身をかがめて、地面にも のを書き続けられたのです。  それまで、律法学者・パリサイ人らは「罪」というものを“自分の外側にあるもの” だと考えていました。いわば自分を安全圏内に置いて、外側にいる人間だけを非難糾 弾していたわけです。「パリサイ」という言葉は「分離された者」という意味です。何 よりもそれは「罪から分離された者」を意味しました。自分たちは「罪」のない清く 正しい人間である。「分離された者」(パリサイ人)である。この女は罪にまみれた汚 らわしい憎むべき存在する価値のない人間である。そういう決定的な価値観・倫理観 を彼らは持っていました。  ところが、ここに主イエスの御言葉が、あたかも天からの閃光のごとくに、彼らの 暗い魂を一瞬にして照らし出しました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女 に石を投げつけるがよい」。この御言葉によって彼らははじめて、自分の外側にではな く自分の内側に「罪」を問われました。神に対する罪です。眠っていた彼らの良心は そこではじめて朝日に照らされたように目覚め、暗くなっていた魂に聖霊の息吹が注 ぎこまれて、御言葉の光に照らされたのでした。  その結果、彼らは年長の者から順に、手にしていた石を投げ捨て、その場から立ち 去ってゆきました。ついには主イエスとこの女性の二人だけがそこに残されたのです。 主イエスは身を起こしてこの女性にお訊ねになります「女よ、みんなはどこにいるか。 あなたを罰する者はなかったのか?」。彼女は主にお答えします「主よ、だれもござい ません」と。そして今朝の御言葉の最後のくだりを見ますと、主イエスによって祝福 の宣言がなされます「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯 さないように」。  私たちが今朝のこの御言葉を読むとき、もっとも陥りやすいひとつの誤りは、この 出来事を単なる「愛による赦しの物語」として読むことです。人間には赦しが大切で ある。「ならぬ堪忍するが堪忍」である。それをして下さるかたこそイエス・キリスト である。それは一面において事実でしょう。しかしそれだけではこの御言葉は単なる 社会倫理にすぎなくなります。「人生において最も大切なものは、愛による赦しである」 という社会道徳訓の教えになってしまうのです。  あるいは、こういう解釈もできるかもしれません。この赦しは主イエスだからこそ できたのだという解釈です。もし仮にこの女性に夫がいたとして、彼女が本当に姦淫 の場で捕えられたものならば、その夫は「わたしもあなたを罰しない」と簡単に彼女 に言えたでしょうか?。あるいはわが子を殺された親に向かって「犯人を赦してあげ なさい」と言えるでしょうか?…絶対に言えないでしょう。むしろ罰を求めるのでは ないでしょうか。譬えるなら時代劇の「大岡裁き」のようなもので、難問・珍問・怪 事件に対してどんなに見事な審きがなされたとしても、大岡越前守は少しも痛まない わけですから、だからあのような見事な裁きができたのだろう、そういう理屈も成り 立つわけです。  主イエスもそうなのでしょうか。部外者だから彼女の「罪」を「お咎めなし」とし て赦すことができたのでしょうか。そうではありません。決してそういうことではな いのです。何よりも私たちは「主よ、だれもございません」と答えた11節のこの女 性の言葉に注目したいのです。この彼女の言葉に対して主イエスは「部外者だから」 簡単に(無責任に)「わたしもあなたを罰しない」と“赦しの宣言”を与えておられる のではないのです。なによりも、ここに私たちは“極みなき十字架の恵み”(生命を与 える恵み)を読み取らねばなりません。それはこの女性もまた、彼女を審こうとして いた律法学者・パリサイ人らと同じ罪を犯していたということです。それは「罪」を 相対化して神に対して自分を正当化するという「罪」です。使徒パウロやルターの言 う「自己義認の罪」です。そしてそれこそ、私たち人間の最もしぶとい「罪」なので あります。  そもそもこの女性は、どういう思いで「主よ、だれもございません」と語ったので しょうか?。それまで死刑の宣告を受けていた女性です。顔面蒼白となり硬直してい た彼女の顔に、みるみる生気が甦った瞬間があったとすれば、それは彼女が恐るおそ る目を上げて、自分の周りにもう誰もいないと分かったその瞬間ではなかったでしょ うか?。彼女は思ったことでしょう「ああ!自分はもう審きを受けずに済むのだ!」 と。あの偽善者面をした冷酷無慈悲な律法学者たちに、石で打ち殺されずに済むのだ!。  そう感じたとき、彼女の脳裏に改めて彼らの理不尽な仕打ちへの怒りが湧き起こっ たとしても当然だったでしょう。それこそ「ざまあ見ろ」という思いさえあったかも しれない。善人づらしたあの連中も結局は自分にも「罪」があることを認めたではな いか。その証拠に誰一人としてここに残ってはいないではないか。硬直した彼女の顔 に僅かでも喜びがなかったとは言い切れません。彼女は急いで主イエスのほうを振り 向いて叫んだのではなかったか「主よ、だれもございません!」と。  しかし、その時です。まさにその時なのです。彼女が改めて自分の「罪」に気がつ いたのは…。彼女の良心は主イエスのまなざしに接してはじめて目覚めたのではなか ったでしょうか…。彼女は気がついたのです「このかたは違う!」と…。それは「こ のかた(主イエス)は私に石を投げることができる」という事実です。「このかただけ は私を審くことができる」という事実です。この事実に彼女は改めて気がついたので す。そこでこそ本当に目覚めたのです。  「罪」の本当の問題は、ただ人間どうしの横の関係だけでは終わらないのです。そ れは聖なる神の御前における問題なのです。相対的な横の繋がり、つまり倫理道徳上 の問題として「罪」を扱っている限りは、私たちは決して「罪」を自覚することはな いのです。むしろそれは絶対的な生ける神の御前における問題なのです。それはただ 絶対者なる神のみがお審きになることができるのです。  そのことが彼女にわかったのです。「罪」の問題を神の御手に委ねようとせず、いつ もそこで自分を他者と比較して「正しい」としようとする私たちは、自分を「罰する 者」が「誰もいなかった」という目に見える事実だけで勝ち誇ってしまう愚かな存在 なのです。そこに自己義認の「罪」が拡大されてゆきます。いつだって「どんぐりの 背くらべ」になるのです。この問題は私たちの力ではどうにもなりません。落ちてゆ く自分を自分で受け止めることができないのと同じように、自己義認の「罪」に陥る 私たちを自分ではどうすることもできません。それを受け止めて下さるかたがおられ なければ、私たちはどこまでも果てしなく落ちてゆくだけです。パウロの言う「ああ われ悩める人なるかな」は人類共通の悲痛な魂の叫びなのです。  まさにそこでこそ、その果てしなく落ちてゆかざるをえない私たちの存在の重みを、 主イエス・キリストは御自分の生命をもって、あの十字架の贖いをもって受け止めて 下さったかたなのです。誰一人として贖いえない私たちの「罪」を主イエスだけがこ とごとく受け止めて下さったのです。それがあの十字架の出来事です。この十字架に よる救いの出来事によって(あなたのために十字架を担いたもうたおかたとして)主 は「わたしもあなたを罰しない」と告げて下さるのです。  主は私たちに石を投げうる唯一のかたなのです。もし神の義が貫徹されねばならな いのなら、その石は容赦なく私たちに投げられるべきなのです。しかしまさにその審 きを、主は、御自分の身に引き受けて下さいました。それがあの十字架の出来事なの です。主は御自分は痛まない安全な所にいて、私たちを安易に赦したもうのではあり ません。まさに私たちの受けるべき罪の審きを、御自分がことごとく引き受けて下さ るおかたとして(十字架の主として)私たちに「わたしもあなたを罰しない」と宣言 して下さるのです。だからこそ、それは私たちの“永遠の救い”となり“生命を与え る恵み”となるのです。そこにはイエス・キリストが私たちの罪のために担い取って 下さった、あの十字架の重みの全てがかかっているのです。  その十字架の恵みによってのみ、私たち人間は本当に自由な者となって、喜びと感 謝に満ちた生命の歩みを生きはじめるのです。キリストの恵みの御手の内に健やかに 生きはじめるのです。もしこの女性が、自分を肉体において処罰しうる者が誰一人「い なかった」という事実だけで満足して家に帰っていたなら、そこには彼女の救いは無 かったのです。そうではなく、彼女は自分の罪のただ中でキリストに出会った…。彼 女の犯した「罪」のただ中に来て下さったキリストの真実に触れた…。そこで肉体だ けではなく魂も滅ぼすことのできるおかたの真実に触れた…。真の罰をお与えになる ことができる唯一のおかたに出会ったのです。  そのかたが彼女に、御自分の十字架の恵みの全てをもって「わたしもあなたを罰し ない」と宣言して下さるのです。「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と 告げて下さり、彼女を祝福して下さったのです。彼女の(私たちの)罪を担って十字 架におかかりになったかたが(十字架の主が)私たちに言われます「お帰りなさい。 今後はもう罪を犯さないように」と…。私たちはここにキリストの測り知れない赦し を受け、その真実の赦しによって平安の内に勇気をもって生きるように、それぞれの 生活へと遣わされてゆきます。それはどのような時も十字架の主が共にいて私たちを 導き支えて下さる新しい生活です。  主は私たちに言われるのです「私があなたと共にいる」と。だから「あなたはもう 罪の支配のもとにはいない」と。それが「今後はもう罪を犯さないように」という主 の祝福です。あなたはもう罪に支配されてはいない。罪に支配されることがありえな い。それほど豊かに確かに永遠に私の恵みのもとにあなたはあり続ける!。あなたは 私の愛する者だ!。そのように主は私たちに語り告げていて下さるのです。まさにこ の十字架による赦しの主を、その測り知れぬ“生命を与える恵み”のゆえに、今朝の 詩篇130篇の詩人と共に「畏れかしこみ、主を待ち望む」私たちとされているのです。 私たちは「その御言葉によりて望みをいだく」のです。 朝ごとに夕ごとに、生命あるかぎり、生命を超えてまでも、私たちは十字架の主に 拠り頼み、その御言葉に従い養われて参ります。そこに私たちの変らぬ喜びがあり、 平和があり、自由と希望と勇気と幸いがあるのです。