説    教   詩篇32篇1〜2節  ヨハネ伝福音書8章1〜11節

「罪なき者とは誰か」

2008・11・30(説教08481247)  それは突然の出来事でした。主イエスがいつものように、エルサレム神殿の中庭で 人々に御言葉を語っておられたとき、にわかに人々の叫び声や怒鳴り声がしたかと思 うと、大勢の律法学者やパリサイ人らが一人の女性を捕らえて主イエスのもとに連れ て来て、彼女をみんなの輪の真中に立たせ、主イエスに向かって「先生、この女は姦 淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命 じましたが、あなたはどう思いますか」と問うたのでした。  それは余りにも突然の出来事であり、あたりはたちまち物見高い群衆によって人垣 ができました。衆人環視の中で、パリサイ人らに捕らえられて来たこの女性は、恐怖 と絶望と羞恥心に顔面蒼白となり、じっとうつむいたまま動こうともしません。この 生ける屍のごとくに佇むこの女性に、するどい視線を向けながら、さも穢れたものを 目にするように眉根をしかめ、律法学者やパリサイ人たちは主イエスに詰め寄るので す「さあ、どうなのですか。あなたはどのような判決をこの女に下すのか。答えてく ださい」と。  当時のユダヤの法律では、誰かが明らかな罪を犯したとき、それを審く者は律法学 者やパリサイ人でした。だから彼らは自分たちだけでこの女を審くことができたので す。それをわざわざ主イエスのもとに連れて来たのは、そこに巧妙な罠があったから でした。  彼らはここで、主イエスのことを「先生」と呼んでいます。今までにはなかったこ とです。あなたは「先生」(ラビ)でしょう?。神から遣わされた人でしょう?。知恵 ある者でしょう?。だったら答えて下さいと言うのです。このような“罪人”はどう したら良いのですか。モーセは律法の中でこういう女を「石で打ち殺せ」と命じてい ます。あなたはどう思いますか?。モーセの律法のとおりにすべきですか?。それと も打ち殺すべきではないと思いますか?。  今朝の御言葉の6節には「彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実 を得るためであった」とあります。彼らにしてみれば、この「姦淫の場で捕えられた 女」は、主イエスを陥れ失脚させるための絶好の餌食でした。状況はこの女性と主イ エスにとって決定的に不利でした。彼女は姦淫の罪の現行犯で捕えられ、複数の証人 がおり、しかもその証人は律法学者たちでした。彼らにしてみれば判決は一つでしか ありえなかった。「石打ちの刑」です。この女性を町の門の外に引き出し、そこでみん なで石を投げつけて殺すことです。それが律法の正義を行うことでした。  ところが、どうしたことか。主イエスは身をかがめて「指で地面に何か書いておら れた」のです。主イエスが何かものを「書いた」と記されている場面は聖書の中でこ こだけです。この様子を見て無視され、侮辱されたと感じた律法学者・パリサイ人ら は逆上しました。彼等はますます興奮して主イエスに詰め寄りました。どうなのか?。 どうなのか?。さあ答えてみよ!。答えてみよ!。あなたはモーセの律法に従うのか、 それとも律法に叛くのか。この女を石で打ち殺すのか、殺さないのか。いますぐに答 えなさい!。  もしここで主イエスが、いやいや、そんなことをしてはならない。この女を石で打 ち殺すべきではないと言われたら、それはモーセの律法に反することを語ったという 罪で、彼らは直ちにこの女性と一緒に主イエスをも「石打ちの刑」に処することがで きるのです。主イエスを抹殺する宿願を果たすことができるのです。律法に叛くこと は神に叛くことだと考えられていたからです。それでは逆に主イエスが、そうだその 通りだ。このような女は石で打ち殺すべきであると語ったなら、どうなるでしょうか。 その時にはモーセの律法に叛くことにはなりませんが、民衆の支持を失うことになる のです。主イエスの御言葉を喜んで聴いていた人々は、この人も所詮はパリサイ人ら と同じだったのだと、主イエスに失望して去ってゆくことでしょう。そればかりでは なく、主イエスは今まで語ってきた御言葉の撤回を求められるでしょう。あなたは自 分のことを「神から遣わされた者」だと語っていた。しかし今あなたはモーセの律法 の正当性を認めたのだから、今まで語ってきた誤った教えは神の御名において撤回せ ねばならない。そういうことに必然的になるのです。  いずれにしても、どっちの答えを出しても、律法学者やパリサイ人たちは主イエス を葬り去ることができる。あわよくば処刑することができるのです。少なくとも民衆 の支持は永遠に失われるのです。彼らにしてみればこんなに巧妙完璧な罠はありませ んでした。この時ばかりは彼らも、群衆が集まって来るのを快く思ったことでした。 さあ皆の衆よく見ておれ、お前たちが喜んで話を聴いていた“ナザレのイエス”なる 男はこの程度の質問にも答えられない哀れな者なのだ。どっちの答えに転んでも、も うこの男は二度とお前たちの前には立てないのだ。そういう勝ち誇った思いでいきり 立っていたのです。  だから7節を見ますと「彼ら(は)問い続け」たと記されています。勝利はもう百パ ーセント自分たちのものであり、主イエスには惨めな敗北しかないと確信していたか ら、彼らは追及の手を休めようとはしませんでした。こういう時の人間は実に大胆か つ残酷になれます。相手を追い詰める言葉を投げつけ、少しも容赦しようとしません。 人間は正義の名においてこそ残酷になるのです。審いてやまぬ“正義の言葉”が矢の ように飛び交う中を、真中に立たされた女性は顔面蒼白のまま聞いていました。彼女 の運命は呪われた死「石打ちの刑」のみでした。そして主イエスはといえば、黙って 地面に指で何かを書いておられる。もし律法学者やパリサイ人たちの中に、一人でも 正義の名による残酷さを愛の衣で覆うことのできる人間がいたなら、その人は黙って 地面にかがんでおられる主イエスの背中に明白なメッセージを読み取ったことでしょ う。「もう止めなさい」というメッセージを…。  「もう止めなさい」。あなたがたはいかなる権利(正義)の名のもとにこの女性をか くも容赦なく追い詰め審こうとするのか。あなたがたは神の代理人なのか。あなたが たは完全無欠の人間なのか?。あなたがたは自分の中に罪も咎も持たない存在なの か?。生まれてこのかたただの一度も神の前に罪も過ちも犯したことがない人間なの か?。もしそうでないなら「もう止めなさい」。この女性をこれ以上審いてはならない。 すでに生きながらに葬られている彼女を殺してはならない。あなたがたが容赦なく放 つその正義という名の毒矢をしまいなさい。あなたがたが振りかざすその審きの剣を 鞘におさめなさい。主イエスは黙ってそう語っておられたのです。  しかし彼らの中の誰ひとりとして、その沈黙のメッセージに気付く者はいませんで した。私たち人間にとって本当に勇気を必要とすることは、他人に向かって拳を振り 上げることではなく、いったん振り上げたその拳を降ろすことです。正義の名によっ てつがえた言葉の矢をしまうことです。抜き身となった審きの剣を鞘におさめること です。それこそ真に勇気を必要とすることなのです。主イエスはその真の勇気を(神 への信仰を)私たちに求めておられるのです。  主イエスが地面に何を書いておられたのか、古来の聖書学者はいろいろと推測しま した。ただ一つだけ明らかなことは、主イエスは、身の置きどころのないこの女性の 悲しみと絶望を、黙って御自分の身に引き受けておられたということです。彼女と共 に主もまた正義の言葉の毒矢を、黙って身に受けておられたのです。審きの剣によっ て切り刻まれておられたのです。言葉に現わせない嘆きと悲しみをもって、正義の名 を容赦なく振りかざす彼らの罪を、彼女に代わって受け止めておられたのです。そし て主はまさにそこでこそ、今朝の7節の御言葉を語られたのです。  「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で 罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。そしてまた身をかがめて、地面 に物を書きつづけられた」。いまの今まで、律法学者やパリサイ人たちが追及していた 罪はこの女性の罪でした。そして彼女を罠の餌食にして、主イエスまでも陥れようと していたのです。正義と審きは常に自分たちの側にあり、罪と悪は主イエスと女にあ ると考えていたのです。しかし主イエスはそのような、正義に酔いしれる彼らの魂に 福音の光(全ての者を照らすまことの光)を照らしたまいます。私たちは自分の小さ な正義によって、魂が照らされるのではなく、むしろ暗くなるのです。真実が見えな くなるのです。その彼らの魂に、主イエスはまことの光(福音による救い)を与えて 下さるのです。  それは譬えて申しますなら、一瞬の稲光が真っ暗な夜道を照らしてくれることに似 ています。主イエスの御言葉によって一閃の稲妻のように律法学者たちの心が照らさ れたとき、彼らは、自分たちが何をしていたのかを理解したのでした。神の光によっ て現し映し出された自らの姿の何と醜く卑しかったことか。ただ福音の光のみが私た ちの魂を完全に照らし神へと導きます。人間の正義は人生の光とはなりえず、ただ御 言葉と聖霊の光のみが、私たちの人生を導くまことの光なのです。暗く鈍くなり硬直 した魂に、主イエスは福音の光によって、救いによる自由の風を送りこんで下さるの です。  ただ神の御霊によってのみ、私たちは何が神の御心であり、主が求めておられるも のが何であるかを知る者とされます。おのれの正義によって硬直化した私たちの魂は、 本来は聖なるものであるモーセの律法さえ罪の働く道具に変えてしまいます。それが 本来、良いもの、美しいもの、正しいものであればあるほど、そこに大きな罪が入り こむのです。自分が罪の奴隷になっているなど少しも気付かぬうちに、私たちは見事 に罪の奴隷になって人を審くのです。自分が神に成り代わろうとするのです。その恐 ろしさにさえ気がつかないのです。  そこでこそ、主は私たちに言われます「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの 女に石を投げつけるがよい」と…。「あなたがたの中で罪のないものが」と主は言われ ます。罪のない者だけが、この女性に石を投げることが許されるのです。審きを行う ことができるのです。私たちのいったい誰が「罪のない者」たりうるでしょうか?。 「自分は生まれてこのかた一度も人に後ろ指をさされるようなことをしたことがな い」と言いきれる人がいるとします。私はそんな人が幸福であるとは少しも思いませ んけれども、そんな人が本当にいたとして、ではその人が「人に」ではなく「神に」 対してどうであるかと問うならば、その答えは「義人なし、一人だになし」ではない でしょうか。「われは罪人のかしらなり」と答えるのみではないでしょうか。 罪の問題は相対的な問題ではありえません。それは「われは罪人のかしらなり」こ の使徒パウロの叫びを、本当に自分のものとせざるをえないことです。比較すること などできない絶対の問題なのです。それならば、罪の相対化による欺瞞と自己義認と いう魂の暗闇を、福音の光によって見事に照らされた律法学者やパリサイ人らは、9 節にあるように「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、つ いに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」のでした。この「年寄から始 めて」とあることは“神の御言葉を長く聴き続けてきた人”ということです。その者 が最初に振り上げていた拳を降ろした。それに呼応するように、一人また二人とその 場から立ち去ってゆき、ついに女性と主イエスだけが残されたのでした。  主イエスはそこで彼女にお問いになります。「そこでイエスは身を起こして女に言 われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』」。主は言 われるのです「あなたに石を投げうる者は、だれ一人いなかったのか」と。「罪なき者 とは誰か」これこそ今朝の御言葉によって私たち一人びとりに問われていることです。 この問いに対して、私たちはこの女性と共に「主よ、だれもございません」とお答え することができるのみです。本当に、ただそのような答えしかなしえぬ私たちなので す。  言い換えるならば、主イエス・キリストだけがこの女性を、私たちをお審きになる ことができるのです。しかし主はそれをなさったでしょうか?。なさいません。「わた しもあなたを審かない」と主は言われるのです。むしろ彼女が(私たちが)担うべき 罪の滅びを、その審きもろとも、主が御自身の身に引き受けて下さったのです。私た ちが担わねばならない罪の審きと滅びを、神の子イエスみずから十字架において引き 受けて下さったのです。だから「わたしもあなたを罰しない」という今朝の御言葉は、 彼女と私たち全ての者に対する、福音による救いのおとずれなのです。主が十字架に よって私たちの罪の永遠の贖いとなって下さったことです。私たちに新しい復活の生 命を与え、神の国の民(神の恵みの御支配のもとに新しく生きる者)として下さった ことです。  主はまさに「罪人のかしら」なる私たちを救うために世に来られ、御苦しみをお受 けになり、十字架におかかりになりました。このキリストの御手の導きの内にあって のみ、はじめて私たちは、人を審き自分を絶対とする大きな罪から贖われるのです。 キリストの恵みと憐れみの主権のもとを、心を高く上げて歩み始めるのです。今日か らアドヴェント、私たちはこの十字架の主を心を高く上げて待ち望み、主と共に、主 の恵みの御支配の内を歩む者であり続けましょう。