説    教    出エジプト記23章1〜3節  ヨハネ福音書7章45〜53節

「揺るがぬ愛と恵み」

2008・11・23(説教08471246)  主イエスを捕らえて連行せよと、祭司長やパリサイ人らに命じられた「下役ども」つま り神殿の警備兵たちは、命令に反して、主イエスを連れて来ることをしませんでした。そ れで祭司長・パリサイ人らは非常に憤り、彼らに「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」 と問い質したのです。それが今朝の御言葉の最初の45節に記されていることです。  この「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」という言葉はそれほど乱暴には聞こえま せんけれども、彼らにしてみれば内心、地団太を踏むような思いで口走ったことでした。 主イエスを捕縛して暗黙裡に処刑するという彼らの願いを実行する絶好の機会を逃してし まったのです。だから祭司長たちの憤懣やるかたなき思いは、命令に叛いた「下役ども」 へと向けられたのです。  祭司長・パリサイ人らは、おおぜいの群衆が主イエスの語られる御言葉に耳を傾けてい るのが面白くなかったのです。自分たちの権威が侵害されと思ったのです。自分たちは律 法の専門家であり権威ある者である。その自分たちをさしおいて、富も名誉も教育も権威 もない、ナザレ人イエスの説教に耳を傾けている民衆が愚かに思えてならなかったのです。 彼らにとって民衆は「律法をわきまえない」「呪われた」者たちでしかなかったのです。  「下役ども」が自分たちの命令に叛いたのも、彼らがどうしようもない愚か人間だから だと祭司長らは考えました。しかし「下役ども」(神殿の警備兵たち)は祭司長たちにこう 語ったのです。46節です「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。 彼らは主イエスが語られる“福音の真理”に心打たれたのでした。神の御言葉のみが私た ち人間に真の自由と平安と喜びと祝福を与えます。祭司長やパリサイ人らの言葉にはそれ がなかったのです。  主イエスが語られる御言葉は直接に、人間の魂の最も奥底にある根本的な飢渇きに触れ、 それを潤す力に満ちた福音でした。そのことに「下役ども」は心打たれたのです。神の御 言葉によって頑なな心を砕かれたのです。だから彼らは自分たちの身の安全をも省みず敢 えて祭司長・パリサイ人らの命令に叛いたのでした。それよりも主イエスに充分に御言葉 を語って戴きたいと願ったのです。もっと主イエスの御言葉を聴きたいと願ったのです。  そこで47節を見ますと、パリサイ人たちが堪りかねたように彼らを叱責している様子 がわかります。「パリサイ人たちが彼らに答えた、『あなたがたまでが、だまされているの ではないか。役人たちやパリサイ人の中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。 律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている』」。この最期の言葉は彼らの本心を現わ しています。彼らは苦々しく舌打ちをし、吐き捨てるように「律法をわきまえないこの群 衆は、のろわれている」と語ったのでした。 ところで「この群衆」と訳された元々の言葉は「地の民」(アム・ハ・アレツ)という言 葉です。旧約聖書のエズラ記4章4節に由来があります。紀元前6世紀後半、バビロン捕 囚後のエルサレム第二神殿の建設事業のさい、その工事をさまざまな手段で妨害した「地 の民」がいたことをエズラは記しています。そこから「地の民」という言葉は神の御計画 を妨害する“呪われた(穢れた)人間”という意味で用いられるようになりました。パリ サイ人たちは、まさにこの言葉を用いて「下役ども」をはじめ、主イエスの御言葉に耳を 傾ける「群衆」を呪ったのです。  つまり、彼らが祝福するのは、自分たちの命令に叛かない人間であって、神の言葉を聴 く人間ではありません。ここに祭司長・パリサイ人らの決定的な間違いがありました。彼 らは神の言葉を聴いていなかったのです。だから神の言葉を喜んで聴く人々を「地の民」 だと言って呪ったのです。もちろん群衆も皆が正しく主イエスの御言葉を聴いていたわけ ではありません。興味本位で集まっていた者も大勢いたのは事実です。しかし少なくとも 「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」という、この思いだけ はみな一様に抱いていたのではないでしょうか。そしてそこから、新しいことが始まって ゆくのです。それは私たちの思いを超えた、神の驚くべき救いの御業です。  今朝の御言葉の後半50節以下に、すでに同じヨハネ伝の3章にも出てきたニコデモが 登場して参ります。「パリサイ人のひとり」で「ユダヤ人の指導者」であった人です。ニコ デモという名は「勝利の民」という意味です。何が勝利するのか、神の御言葉が勝利する のです。だからニコデモは今朝の御言葉において、仲間であるパリサイ人らの独断を戒め、 御言葉に根ざした正しい判断を求めています。すなわち51節以下に「わたしたちの律法 によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばく ことをしないのではないか」とあることです。これは今朝併せて拝読した旧約聖書出エジ プト記23章1節に出てくる事柄です。「あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。 あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になってはならない。あなたは多数にしたが って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数にしたがって片寄り、正義 を曲げるような証言をしてはならない。また貧しい人をその訴訟において、曲げてかばっ てはならない」。  ニコデモは言うのです。われわれがいま主イエスにしていることは、この律法に反する ことではないのか。われわれはキリストについて偽りのない判断を持っているのだろうか。 もしそうでないなら、まずわれわれ自ら主イエスの語る言葉を正しく聞き、その「したこ とを知った上で」はじめて「さばく」べきなのではないかとニコデモは言うのです。しか し祭司長・パリサイ人らは聞く耳を持ちませんでした。すなわち最後の52節にはこう記 されています「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者 が出るものではないことが、わかるだろう」。  ガリラヤからは預言者(神の御言葉を語る者)は決して現れない。これが頑なな彼らの 信念であり思いこみでした。彼らにとっては神の福音より人間の権威が、御言葉より出身 地が、正しい行いより自分たちの意志が、聖書より自分の考えが、より大切だったのです。 自分が真理を判定する基準になっているのです。自分を基準とするとき、自分の思う通り にならない者は全て悪であり罪であり反逆者です。「地の民」であり呪われた人間なのです。  それは何と恐ろしいことでしょうか。しかもこれは、他の誰彼の問題ではなく、まさに ここにいる私たち自身がかくも恐ろしい罪を自らの内に持つのです。自分を基準として他 を審く「罪」です。御言葉が勝利するのではなく、自分の勝利を人生の目的とする「罪」 です。この罪から自由である者は一人もいません。使徒パウロはこのことを「義人なし、 一人だになし」と申しました。「われは罪人のかしらなり」と申しました。「かしら」とは 「第一等の者」という意味です。“比較することはできない”という意味です。罪を論ずる とき、他と比較して論ずるのは、罪そのものが全然わかっていない証拠なのです。  何よりも罪の問題は、人間相互の倫理・道徳の問題に止まりません。それはかならず神 に対する問題、相対的な比較を超えた“絶対の問題”とならざるをえないのです。罪の問 題が絶対の問題であるとは、人間の力では絶対に解決できないということです。相対的な 人間存在には絶対的な問題を担う力は無いのです。それは絶対者なるおかた(神)のみが 解決できるのです。そのおかたこそ神の御子イエス・キリストであります。イエス・キリ ストを抜きにして「罪の問題」を扱うとき、私たちは絶対に絶望と死に向かうほかはない のです。  主イエスがこの「罪」の世界に来られたということは、絶対に絶望と死に向かうほかは ない私たちを、絶対に救って下さるためなのです。「罪」に対して無力であり、絶対に罪と 死に支配される以外にない私たちを、御子イエス・キリストのみが絶対に、十字架におい て贖い取って下さり、私たちを絶望と死から救って下さったのです。十字架はそこで私た ちの絶望と死が打ち滅ぼされたことの徴です。それがキリストの十字架なのです。  主イエスの時代、ガリラヤは「暗黒の地」と呼ばれていました。それならば、まさに「地 の民」である私たち罪人の「暗黒の地」のただ中に、神の御子は訪ねて来て下さったので す。「異邦人を照らす光」「全ての人を照らすまことの光」となって下さったのです。救い のありえないところに、まことの救いをもたらして下さったのです。だからこそ、私たち はここに集うているのです。主が御自分の生命をもって贖い取って下さった主の教会に、 何の価もなくして招かれ連ならしめられているのです。キリストの生命にあずかる者たち とされているのです。  私たちは聖書に現れた人間の罪の姿を、いったい誰のことかと周囲を見回すことなど決 してできません。それはまごうかたなき私たちの姿なのです。そこにこそ主イエスは来て 下さいました。私たちの罪の重みを、あの十字架の御苦しみと死と葬りをもって担い取っ て下さったのです。それならば、主イエスの葬りは“私たちの罪と死の葬り”です。まさ にその墓から主は復活された。絶望と死のみが支配する場所を、生命と喜びの支配する場 所に変えて下さいました。そこに私たちの信仰が成立ちます。主イエス・キリストに従う、 私たちの新しい生活が始まります。主から親しく御言葉を聴きつつ、御言葉に養われつつ、 御国へと向かって歩んでゆく、私たちの新しい歩みが造られてゆくのです。  教会をあらわす英語“チャーチ”はもともと「主のもの」という意味のギリシヤ語から 来ています。そしてそのギリシヤ語は「主の家族」とも訳せます。つまり「教会」とはほ んらい「主の家族」という意味なのです。私たちは家族によって養いを受け、責任を与え られ、責任を果たし、慰めと喜びと幸いを受け、そこに起こるさまざまな苦しみや病気、 悩みや悲しみを共有し、互いに励ましあい、互いに支えあいつつ、家族の絆を深めてゆく のです。そこに人生の本当の喜びと幸いがあるわけです。  私たちはこの葉山教会という「主の家族」の一員とされました。この家族の唯一の「か しら」は主イエス・キリストです。そこで私たちは主の御手から豊かな導きを受け、礼拝 者としての訓練と喜びを深め、そこに起こる様々な出来事をも、互いに祈りを深めつつ、 励ましあい支えあって、共に主の道を歩んでゆきます。それは「主のもの」(主の所有)で あることによって真の自由を持つ新しい人生です。イスラエルでは羊に持主の焼印が押さ れていました。その羊を奪うことは、その持主を相手にすることです。同じように、教会 に連なり「主の家族」とされた私たちを奪う力には、父・御子・聖霊なる三位一体の神が 相手をなさるのです。まさにこの「主の家族」こそ、私たちがそこから世の戦いへと送り 出され、そして何度でも帰ってゆく「揺るがぬ愛と恵み」の満ち溢れる場所であり、私た ちの信仰の成り立つところなのです。  そして、ここでこそ私たちは今朝の46節の「下役ども」の告白の言葉「この人(主イ エス)の語るように語った者は、これまでにありませんでした」との驚きの声を、みずか らの声として持つのではないでしょうか?。「これまでになかった」とは、私たち自身の生 活、また人生の中には、決してありえなかったということです。私たち自身の生活や私た ちの人生からは絶対に出てこない、生命の言葉、罪と死の支配から人間を贖う恵みが、た だ主イエス・キリストにのみあるということ。私たちの唯一の「かしら」は主イエス・キ リストであられる。私たちが「主の家族」であるということは、いつも新しく、この僕た ちの驚きの声を共有することなのです。  そのとき、私たちは人生の中で、もはや私たち自身が勝利することを願うのではないの です。神の御言葉のみが、キリストの恵みのみが、キリストの生命のみが、私たちを支え 新たにし祝福する、本当の勝利であることを知る者として、私たちは「主の家族」の一員 とされているのです。私たちの豊かさは、罪人を救いたもうキリストの恵みの豊かさであ り、私たちの幸いは、絶望と死の支配を生命に変えるキリストの祝福の幸いであり、私た ちの喜びは、あるがままに私たちを招いて下さるキリストの御跡に従う者の喜びなのです。  そこにいま、私たちは新たに招かれています。そこに連なる者とされています。そこに 根ざす僕とされています。そこに生き続ける「主の家族」とされています。そこに私たち は、人生の本当の力と慰めを受け、心を高く上げて主の道を歩んでゆく。全世界の主の民 と共に、また、既に天に召された主の聖徒たちと共に、新しく与えられたこの一週の歩み をも、変ることなき主の主権のもとを、歩み続けて参りたいと思います。