説    教     ミカ書5章2節   ヨハネ福音書7章40〜44節

「キリスト・神の子・救い主」

2008・11・16(説教08461245)  エルサレムの人々の間に、主イエス・キリストの御業と御言葉について様々な評価が 起こり、人々の間に「分争」が生じました。なによりもそれは、主イエスが「だれでも かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と語られたことであります。年に一度 のユダヤの「仮庵の祭」の最終日にエルサレム神殿の中庭で、主イエスはそれこそ「立 って、叫んで言われた」のです。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その 腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 主は「私を信じる者は」と言われます。しかしこの「信じる」とは、ただ主なる神に 対してのみ用いられる言葉です。では主イエスの外見はどうかと申しますと、みすぼら しい服をまとった一人の人間にすぎません。このことに多くの人々はつまずきを覚えた のです。  この者は、ガリラヤの大工・ヨセフの息子イエスではないか。その母の名前も我々は 知っているではないか。その兄弟たちは我々と共にいるではないか。またこの者にはパ リサイ人のような教育も権威もないではないか。貧しい庶民にすぎないではないか。そ のような者がどうして「わたしを信じる者は…その腹から生ける水が川となって流れ出 るであろう」などと言えるのか。そこに、人々の戸惑いとつまずきの原因がありました。  今朝の御言葉の40節以下に、それはいっそうよく現れています。すなわち「群衆の ある者がこれらの言葉を聞いて、『このかたは、ほんとうに、あの預言者である』と言い、 ほかの人たちは『このかたはキリストである』と言い、また、ある人々は、『キリストは まさか、ガリラヤからは出てこないだろう。キリストは、ダビデの子孫から、またダビ デのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか』と言った」とある ことです。  そして43節を見ますと「こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた」とあ るのです。キリストの御業と御言葉をめぐって、果てしない議論が続いたということで す。さらに44節には「彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれ ひとり手をかける者はなかった」ともあります。このように多くの人々が“主イエスと は何者か”ということをめぐり「(果てしない)分争」の中にあったのです。  主イエスは「わたしが来たのは、平和をもたらすためではなく、剣を投げこむためで ある」と言われたことがあります。まさにその御言葉を思い起こさせる場面です。いっ そのこと主イエスを「捕え」て処刑しようという動きさえあったのです。しかし、最後 の44節を見ますと「だれひとり手をかける者はなかった」と記されています。パリサ イ人や祭司長たちの強い圧力にもかかわらず、人々は主イエスに手出しすることはあり ませんでした。同じ7章の30節に、その理由としてヨハネは「イエスの時がまだきて いなかったからである」と記しています。この「時」とは、十字架の時であります。  そして、主イエスはそれを、この同じヨハネ伝の中で「わたしが栄光を受ける時」と 語っておられます。御自分が全ての人の罪の贖いとして十字架におかかりになる「時」 を、主イエスは「栄光の時」とお呼びになりました。「栄光」とは神がなさる救いの御業 です。神がなさる救いの御業が、罪と死の支配を打ち破って世に現される「時」が来る のです。それこそ十字架のその「時」であると主は言われたのです。それならば、この 「(イエスの)時」とは「十字架の時」であり、まさしく私たちの救いの「時」なのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。今朝のこの御言葉を私たちはどのように 読むのでしょうか。人々は「分争」に陥りつつも「だれひとり(主イエスに)手をかけ る者はなかった」。これを逆に読むならば、こういうことにならないでしょうか。まさに 人々が主イエスに手をかけた「時」に、あの十字架がゴルゴタの丘の上に立てられたの です。そして人々は声を限りに「十字架につけよ」と叫び、主イエスに十字架を背負わ せたのです。「分争」とは「分かれ争う」と書きます。それこそまさに十字架の出来事へ と繋がる私たちの罪の姿ではないでしょうか。人間どうしが互いに、自分だけが正しく 絶対であると主張して譲らないことです。  お隣りの国、中国では、自動車一台あたりの交通事故による死者の数が日本の約50 倍だそうです。なぜかと言いますと、自動車も歩行者も、互いに道を譲らないからだと 聞きました。日本の交通事情も決して褒められたものではありませんが、基本的な交通 ルールがまだ中国では確立していない。それで死者の数が日本の百倍ぐらいになるので す。いずれにせよ、自分の進む道を絶対として譲らないところに、必然的に衝突が生じ ます。自動車なら交通事故が起こり、人間同士がいがみ合うとき、そこに「分争」が生 じるのです。  それならば、主イエス・キリストが私たちのために担って下さったあの十字架は、ま さしく人々が、自分だけが正しく絶対であると主張してやまないその「分争」によって (おのれを義としてやまぬ道筋の果てに)立てられたものなのです。今朝の御言葉のこ の場面ではまだ十字架の「時」に至っていませんので「だれひとり(主イエスに)手を かける者は」ありませんでした。しかし既にこの「時」の「分争」によってやがて主が 担われるあの「呪いの十字架」が着々と整えられ、準備されていたのであります。  同じ新約聖書ヤコブ書の3章には、私たちがひとつの泉に譬えられています。「泉が、 甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか」(ヤコブ3:11)と語られて います。ヤコブは言うのです「わたしたちは、この舌で父なる神をさんびし、また、そ の同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろ いとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない」と。まさに その「あるべきでない」ことをなす者が私たちではないでしょうか。今朝の御言葉に現 わされた人々の「分争」の姿は、ほかならぬ私たち自身の姿なのです。私たちこそ主イ エスの十字架を造った張本人なのです。それこそ「呪いの十字架」を造った者なのです。  スイスの神学者カール・バルトが、あるクリスマスの説教の中で次のように語ってい ます。幼子イエス・キリストを入れた飼葉桶と、キリストが担われた十字架とは、同じ 森の木から切り出されたのではないだろうか?…と言うのです。ベツレヘムはエルサレ ムに近い場所ですからその可能性は大きいのです。するとこういうことにならないでし ょうか。この「森」とは私たちの社会であり「木」とは私たちのことなのです。私たち の社会そして私たち自身、まさにその私たちがクリスマスを祝い、同時にキリストに呪 いの十字架を背負わせているということです。まさに「さんびとのろい」が同じ穴から 出ているのです。そこに私たちの「罪」の姿があるのです。  今朝の御言葉に示されている、主イエスを取巻く群集のさまざまなキリスト理解に、 私たちは今日の社会の縮図を見ます。大切な事柄、人間を救う真理に対して、いつも相 対的な評価しか下しえずにいる現代社会の姿です。ある人々はキリストを「たたの人に すぎない」と言い、またある人々は「社会革命家だ」と言い、またある人々は「愛の偉 人だ」と言います。しかしそこで決定的なことは、ここで人々がいかに勝手な解釈を主 張しても、その是非はともかく、そこに最終的に生じていることが「分争」に過ぎない ということです。まさにその「分争」の行き着く先に、あのゴルゴタの十字架が立てら れたのです。  それならば、まさに主イエスはその十字架を黙って担って下さいました。罪なき神の 御子が、罪の極みにある私たちのために、贖いの「呪いの十字架」を背負われ、人々の 嘲りと蔑みの中で、測り知れぬ御苦難を受けて死んで下さったのです。墓に葬られる者 となって下さり、陰府にまで降りて下さったのです。いと高き神が陰府に降られたので す。そうまでして私たちの罪を贖って下さったのです。「あるべきでない」ことのみをし ている私たちの罪を赦すために、神の御子みずから「あるべきでない」十字架を担って 死ぬ者となられ、墓に葬られ陰府にまで降って下さった。それが十字架の出来事なので す。  私たちは、ちょうどその逆なのです。神に対してはもちろん、隣人に対しても「ある べきでない」ことのみをなしている者です。その結果として自分が担うべき人生の重荷 をさえ担えず、自分を虚しく正当化するのみです。あくまでもおのれを義しとする私た ちです。そして他者を審き自分にも絶望するのです。身も心も病んでゆくのです。疑心 暗鬼に陥り生命を失うのです。それなのに、自分は満たされている、自分は正当である と、自分を擁護するのです。  使徒パウロは「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信ずるだけではなく、彼の ために苦しむことをも、恵みとして賜わっている」と語りました。私たちの信仰生活は 逆になってはいないでしょうか。主にのみ十字架を負わせまつり、わが身とわが生活は 安逸を求めるものになっていないでしょうか。主は「だれでもわたしについて来たいと 思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言わ れました。私たちはキリストに従うこと(自分の十字架を負うこと)を恥としていない でしょうか。主が私たちに日々担うようにと求めておられる「自分の十字架」とは“信 仰の生活”です。信仰の生活、教会に結ばれた礼拝者たる生活のみが、キリストに従う 私たちの健やかな生命の歩みなのです。  信仰生活には、この世で様々な困難(戦い)が伴います。しかし私たちは既に主イエ スが勝利して下さった戦いに召されている者たちです。信仰生活の戦いは勝敗が決まら ない出たとこ勝負ではなく、既にキリストが総大将として決定的な勝利をして下さって いる戦いです。だから私たちは安んじて主に従うことができるのです。日々「自分の十 字架」である“信仰の生活”に勇気を持って生きる者とされているのです。罪の力も死 の支配も、キリストのものとされた私たちに何の手出しもできません。私たちはキリス トの溢れる恵みの主権のもとに堅く守られ、立たしめられているのです。その恵みが鳴 り響く場所、それは他でもない、日々「自分の十字架を負うて(キリストに)従う」信 仰の生活であり礼拝者の歩みです。 互いに互いを審き合う「分争」の罪の姿は、あの十字架において頂点に達しました。 私たちは神の独子が十字架にかからなければ贖われ得なかったほどの罪の持主なのです。 まさしく主はそのような私たちの罪の重荷を担われ、十字架への道を歩んで下さいまし た。全ての者の罪を贖う“十字架の主”として主は来て下さいました。私たちを「神の 民」として下さるために…。 御言葉に叛く私たちを生命の糧に養われ、神を讃美しえない者をまことの礼拝者とな し、罪と死の支配の内にあった者を復活の生命によみがえらせ、失われていた者を見い だし、死んでいた者が生まれ変わって、キリストと共に歩む者として下さるために…。 それが私たち一人びとりにいま起こっている神の救いの御業なのです。そのために主イ エスは十字架を「わたしが栄光を受ける時」と呼ばれ、その御苦しみの杯の全てを一滴 も余さず呑み尽くして下さったのです。 あの十字架の全ては、私たちの罪の結果です。それを主イエスは黙って担い取って下 さいました。私たちの生み出す「分争」(呪いと絶叫の嵐)の中を黙して歩んで下さいま した。十字架において「すべて事、終わりぬ」と宣言して下さいました。いま、あなた のもとに救いが来たと、十字架の恵みをもって宣言して下さいました。だから、私たち は主を仰ぎつつ歩んで行きます。十字架の主を「神の子、救い主」と信じます。そこに 私たち唯一完全な救いがあり、生命があり、平安があります。そこに私たちの新しい歩 み、礼拝者たる日々の歩みが、造られてゆきます。主が勝利されなかったいかなる戦い もなく、主が共にいて下さらないいかなる瞬間もありません。私たちの歩みはいつも、 主イエス・キリストの御手の内にあります。新しい週も、感謝と讃美をもって主を仰ぎ 主に従う私たちでありましょう。