説    教     詩篇1篇1〜6節   ヨハネ福音書7章37〜39節

「生ける水の主」

2008・11・09(説教08451244)  「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わ たしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹 から生ける水が川となって流れ出るであろう』」。この主イエス・キリストの御言葉こそ、 今朝私たちに与えられている福音のおとずれです。  主イエス・キリストが「大声で叫ばれた」という場面は、ほかにどのようなところがあ るでしょうか?。それは何よりも、あの十字架の上でありました。主は十字架の上で大声 で「わが神、わが神、何ぞわれを見棄てたまひし」と叫ばれたのです。それはほんらい私 たち罪人が神の前に叫ぶべき祈りを、私たちの身代わりとなって叫んで下さったことです。 私たちのために罪の赦しと贖いをなしとげて下さったのです。それならば、今朝の御言葉 においても主イエスが大声で「叫んで」おられるのは、この御言葉こそ、私たちの罪の赦 しと贖いとに直接にかかわる福音だからです。  そのほかにも、旧約聖書のイザヤ書40章において、バビロン捕囚から解放たれたイス ラエルの人々は「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高き山に上れ」そして「高く声を 上げよ。声を上げて恐れるな」と命じたもう主なる神の御言葉を聴きました。また新約に おいては、使徒パウロはコリントにおいて「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな」と 命じたもうた主の御声を聴きました。  福音を宣べ伝える僕、そして福音に仕える教会は、世に阿り人を恐れて声を落とすよう なことがあってはなりません。「叫ぶ」とは福音に忠実である者の必然的な歩みであり祈り の姿勢です。私たちはこの姿勢をいつも変わらず持ち続けておらねばなりません。御言葉 を正しく聴く者であり続けることです。  主イエス・キリストは、まさに声を上げて叫ばれたことにより、私たちに真に耳を澄ま せて聴くべき大切な福音の真理を語っておられます。私たちにとって生命そのものである 神の御言葉です。神の御言葉が私たちの人生を支配し、勝利する幸いと喜びをお告げにな ります。それこそが、主イエスが「叫んで言われた」理由なのです。  さて、そこで主は何と「叫ばれた」のでしょうか。「だれでもかわく者は、わたしのとこ ろにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける 水が川となって流れ出るであろう」。これこそ、主がいま私たち一人びとりに語っておられ る御言葉なのです。  まず、主はここに「だれでも」と言われます。主は福音によるまことの救いに、全ての 人を招いておられます。どのような人も、福音によるまことの救いから除外されてはいま せん。教会に全ての者が招かれているのはその理由からです。教会の唯一のかしらは主イ エス・キリストです。この主の御前に(御言葉のもとに)全ての人が招かれているのです。  しかし同時に、その「だれでも」とは「かわく者」をさしています。これは「渇いてい ない者は来なくてよい」という意味ではなく「誰もが渇いている」という意味であり「渇 いている者はすべて、私のもとに来なさい」という招きです。旧約の預言者アモスは、人 間が経験する最も恐ろしい飢饉、それは「神の御言葉への飢饉である」と申しました。他 の飢饉なら私たち自らが解決できます。しかし御言葉への飢饉は私たちでは解決できず、 他の何ものによっても満たすことはできません。だからそれは最も恐ろしい飢饉なのです。 しかも人間はその飢饉に陥っていることを自覚しないでいるのです。自分はすでに満たさ れている、安心だと錯覚し自惚れているのです。そこには私たちの罪の姿があります。  同じヨハネ伝の第4章に記された、サマリヤのスカルの井戸ばたにおける主イエスと一 人の女性との対話を思い起こします。あそこで主の口から「生ける水」と聴いたとき、彼 女には最初それが何のことだが理解できませんでした。むしろ彼女に一杯の水を求められ る主イエスのお姿に、常識の常識を打ち破る出来事が起こっていることを感じたのです。 敵対関係にあったサマリヤ人の女性に対して、当然のことのように一杯の水を求める主イ エスのお姿に、孤独と絶望に閉ざされていた彼女の魂は激しく揺さぶられるのです。そこ に「生命の水」を巡る魂の対話が始まりました。  主は言われます「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが 与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、そ の人のうちで泉となり、永遠の生命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ伝4:13〜 14)。この対話はいつしか“真の礼拝”の問題へと移ってゆきます。まことの神をいかに 真実に礼拝し、御言葉の糧にあずかるか、それこそが人間にとって最大の問題なのです。 その“真の礼拝”がなければ、その人は「御言葉の飢饉」の内にいるのです。そのことを 主イエスとの対話の中で、次第に彼女は理解してゆくのです。自分がどんなに御言葉に飢 え渇いている存在であるかを知るのです。それは私たちも全く同じなのです。  それならば主イエス・キリストは、まさに私たちの魂の根本的な飢渇きを満たしたもう 唯一の神の御言葉であられます。まことの神のまことの独子として世に来られたおかたで す。だからあのサマリヤの女性にとって「あなたと話をしているこのわたしが、それであ る」と主が言われたとき、彼女の魂はそこで真実に潤され満たされたのでした。死んでい た者がキリストの生命によみがえり、失われていた者がキリストの愛に見いだされ、病ん でいた者がキリストの恵みに癒されたのです。主が言われたとおり「生ける水」である神 の御言葉が「泉」となって、彼女をその根本的な渇きの絶望から立ち上がらせたのです。  今朝の御言葉の最初に記された「祭の終りの大事な日」とは、年に一度の「仮庵の祭」 のメインイベントが行われる日でした。この日、朝早くから大勢の人々が神殿の「祭司の 庭」に集まりました。一年でこの日だけ特別に、一般の人も至聖所と祭壇の間にある「祭 司の庭」に入ることを許されたのです。そこでは大祭司が夜明けにシロアムの池から汲ん できた水を祭壇の上に注ぎ、祈りの言葉を唱えます。主イエスが今朝のこの御言葉を大声 で「叫んで言われた」のは、まさにこの荘厳な儀式の真っ最中であったのです。  大祭司は儀式を台無しにされたと怒り、主イエスを逮捕するために神殿の警備兵を差し 向けました。しかし警備兵たちは命令に叛き、主イエスを手にかけようとはしなかった。 45節を見ますと「さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたの で、彼らはその下役どもに言った、『なぜ、あの人を連れてこなかったのか』。」この尋問に 対する警備兵たちの答えは「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでし た」というものでした。  ここで、人々のうちの少なからぬ者が、神殿の警備兵たちでさえ、主イエスの御言葉に 真実に耳を傾ける者になっているのです。主イエスの御言葉を聴く人々の中から、はっき りと二つの姿勢の違いが現れてくるのが、このヨハネ伝7章37節以下の場面なのです。 つまり、主イエスの御言葉を聴いて信じる者たちと、信じない者たちとの違いが現れてい るのです。しかしそこでなお大切なことは、その両者の違いがどうであっても、主イエス はそこで変ることなく、ただ御言葉のみを語り続けておられるという事実です。言い換え るならば、人々が飲むにせよ拒むにせよ、主イエスはそこで変ることなく「活ける水」だ けを注いでおられ、ただそこにのみ全ての人々を招いておられるということです。  今日よく、いろいろな教会で「伝道の成果が上がらない」ことが議論されています。教 勢は全国的に低迷しています。伝道のための方策を練ることも大切かもしれません。しか し伝道は実利採算を目的とするこの世の事業とは根本的に違います。私たちがいつも忘れ てならない大切なことは、伝道とは主イエス・キリストの御臨在に仕え、活ける水」であ る神の御言葉を宣べ伝える“神ご自身の御業に仕えること”だということです。主イエス はそれを、実らない無花果の木になお水を遣り続ける園丁の姿に譬えておられます。果樹 園の主人は怒るのです。そんな実のならない木は切ってしまえと言うのです。園丁は懇願 して申します。あと三年、いや一年だけ、待って下さい。それでもし駄目なら、切って戴 いても結構ですと。この忍耐と祈りこそ今日の伝道にもっとも必要なことです。私たちが 注ぐべきもの、語り続けるべきものは「活ける水」のほかにはありえないのです。ただそ こにしか「永遠の生命に至る実」は実らないのです。  私が洗礼を授けていただいた牧師先生は、森下徹造というかたでした。この森下先生の 生前、先生がおられたのと同じ教区に、私の後輩である若い牧師が赴任して来ました。そ の若い牧師がある日森下先生を訪ねて、しきりにその教区の伝道が成果を上げていないこ とを非難しました。最後まで黙って聴いておられた森下先生は「君、『伝道に王道はなし』 ですよ。伝道とは地道に倦むことなく、ただ御言葉のみを語り続けることです。そして本 当の教会を建てることです。それ以外に本当の伝道はありません」と言われたそうです。 その若い牧師は高慢の出鼻を挫かれて大いに反省し、自分はあの時の森下先生のひと言に よって、本当に目を開かれたと私に語ってくれました。今でもその牧師はその教区の小さ な教会で、まことに立派な牧会と地道な教会形成をなさっておられるのです。  神の御言葉のみが、教会を通して、礼拝の中で生き生きと宣べ伝えられるところ、ただ そこにのみ今朝主が言われた「その腹から生ける水が川となって流れ出る」という驚くべ き出来事が、御言葉を聴いて信じる全ての者の人生に現実のこととなります。まさにその 「御言葉を宣べ伝える」「伝道のわざ」を通して現れるものは聖霊による救いの御業です。 聖霊とは私たちを罪から救い真の生命を与える神の力強い御働きです。それが御言葉によ って私たちに豊かに与えられるのです。ですから今朝の御言葉は39節において、主イエ スはその「生ける水」という言葉を「イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさ して言われたのである」と語っています。御言葉によって神の力強い救いの御業を宣べ伝 える伝道、そしてそのような「生ける水」を真実の教会形成によって世に証してゆくこと、 それこそが、私たちのなすべき本当の伝道の務めであり責任なのです。  今朝、あわせて拝読た旧約聖書。・詩篇第1篇に私たちは「生ける水」である御言葉と 聖霊に潤された者の、新しい生活の幸いを見るのです。「悪しき者のはかりごとに歩まず、 罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主 のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えら れた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところはみな栄え る」。  この詩篇が語る事柄は、私たち人間は「悪しき人」と「さいわいな人」という二種類に 分別されるということではありません。そうではなく、私たちは誰一人として例外なく「悪 しき者」であり「罪人」です。しかしそのような私たちが「主のおきて」すなわち「主の 御言葉」を「よろこぶ」とき、そこに「流れのほとりに植えられた木」のような「さいわ い」の生活がはじまるのです。大切なのは、私たちの資格や条件や功績ではなく、ただ「生 ける水」である主の御言葉を聴いて信じる信仰のみです。主の御言葉が、またその「生け る水」の与え主なるイエス・キリストのみが、私たちの人生の唯一の主であられることが 大切です。キリストの愛と恵みに支配された者として生きることです。それこそ教会生活 者の幸いであり喜びなのです。  そのような信仰者、キリスト告白者の歩みが「流れのほとりに植えられた木」と呼ばれ ているのです。御言葉に飢え渇き、しかもそれを満たすいかなる力も持ちえない私たちが、 ただキリストに結ばれることによって「流れのほとりに植えられた木」とならせて戴くの です。私たち自身は“強い木”などではありませが、主なる神はそのような私たちを御自 身の聖なる教会に連ならしめ、御子イエス・キリストという「流れのほとり」に植えて下 さったのです。そこで「生ける水」に潤され、その「生ける水」を証しする幸いを与えて 下さいました。私たちはどのような時にも「生ける水」なるキリストに根ざす者とされて いるのです。そこに私たちの本当の喜びがあり、感謝と讃美の生活が造られてゆきます。 私たちに満ち溢れる愛と恵みによって永遠の生命を与えて下さった神を真実に礼拝し、神 に仕えて生きる者とされて参りたいと思います。