説   教      伝道の書3章11節  ヨハネ福音書7章32〜36節

「永遠にいます神」

2008・11・02(説教08441243)  今朝、私たちはヨハネ福音書の7章32節以下の御言葉を与えられました。ここに は「永遠なる神」の恵みと救いの御業が語り告げられています。「永遠」すなわち神な のではありません。神こそ唯一の「永遠」であり「永遠なるかた」にいましたもうの です。ですから「永遠」とは、主イエス・キリストにおいてまことの「神」を信じる ことなくしては語りえないことなのです。  昔、波多野精一という哲学者が「時と永遠」という宗教哲学の名著を著しました。 この場合も「永遠」とは主イエス・キリストにおける「神」のことであり、その神の 御業の中にのみ「時」(歴史)があるのです。とりわけ今朝の御言葉においては、私た ちは福音の真理の告知そのものに接しています。人生の知識の問題などではなく、私 たち全ての者を救うキリストの福音のおとずれなのです。  神は「永遠なるかた」であり、御子イエス・キリストも同じです。私たちは時間に 属するものであり、時間の中にのみ存在する者です。ここに神と人との決定的な違い があります。主なる神は時間を超えて存在するかたであり、時間をお造りになったか たです。主なる神が「光あれ」と仰せになったとき、そこに歴史の世界が造られてゆ きました。ですから哲学の世界では「時と永遠」の二つは全然別のものですが、聖書 ではその二つが、神の御子イエス・キリストによって一つのものになったという驚く べき福音が告げられているのです。それは、主イエス・キリストが私たちのただ中に 来て下さったという出来事です。  このことを、最も慰めに満ちた数々の説教として遺した人は、あのニカイア信条で 有名なアタナシウスでした。アタナシウスによれば「時」と「永遠」がキリストによ って一つになったという事実の内に、私たちの完全な救いが現れているのです。キリ ストによって「永遠」(神の御業)が「時」(私たちの滅び)の中に突入した出来事が 私たちの救いなのです。私たちの罪のただ中に神の恵みの真実が現れたのです。救い などありえないところに、まことの救いがもたらされたのです。それが聖書の語る「時」 と「永遠」の関係です。  今朝の御言葉であるヨハネ伝7章33節に、主イエス・キリストは、祭司長やパリ サイ人たちにお答えになって言われました。「今しばらくの間、わたしはあなたがたと 一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。あなたが たはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、 あなたがたは来ることができない」。  この当時のユダヤの人々にとって「祭司長たちやパリサイ人たち」は救われて当然 の「選ばれた人々」でした。「パリサイ」とは「分離された者」(選ばれた者)という 意味です。彼らは自分たちこそ御言葉によって真に聖別され、選ばれた者たちであり、 世の終わりに救われるのは自分たちだけだと堅く信じていました。「祭司長たち」も同 じように考え、民衆もまたそのように思っていたのです。  その自惚れた彼らに対して、主イエスははっきりと「あなたがたは……わたしのい る所に、来ることはできない」と言われました。その「わたしのいる所」とは永遠な る父なる神のみもとです。「天」のことです。つまり主イエスはここでパリサイ人らに 「あなたがたは天の国に入ることはできない」(神と共にある人々ではない)と言われ たのです。ですからこの御言葉を正しく聴くなら「祭司長たちやパリサイ人たち」は みな本当に悔改め、自分自身の義に拠り頼むことをやめて、キリストによる神の義を 戴く者へと生まれ変わらねばならなかったのです。それなのに、彼らは悔改めるどこ ろか、いっそう激しい憎しみと殺意とを主イエスに対して抱くようになりました。こ こに主イエスの“十字架への道”が決定されたと言えるのです。 同じように、主イエスを「捕えようとして」祭司長たちに遣わされた「下役ども」 (神殿の警備兵たち)も、また続く35節以下に記された他の「ユダヤ人たち」も、 パリサイ人のようなあからさまな不信仰ではないにせよ、やはり主イエスの御言葉を 正しく聴いてはいませんでした。この人は(主イエスは)いったいどこに行こうと言 うのか、その言葉の意味は何であろうかと、不審の思いを募らせるばかりだったので す。そこではやはり自分の頑なな心が中心になっています。神の御言葉に心を閉ざし ているのです。キリストが主ではなく、自分が主になっているのです。  言い換えるなら「時」は「永遠」を理解することができなかった。まさにこのヨハ ネ福音書の冒頭、1章10節に記されているとおりのことが起こったのです。「彼は世 にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自 分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」。これこそ主イエス・キリ ストの御生涯でした。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかっ た」。「闇は光を理解しなかった」のです。しかし理解されなくても「まことの光」(キ リスト)は私たちの罪の闇を照らして下さるために来られたのです。私たちの罪のた めに黙って十字架の苦難の道を歩んで下さったのです。  顧みて、主イエスの御降誕から二千年以上を経た今日の、私たちのこの世界の現実 はどうでしょうか。現代を表す色は「黒」であり、漢字に表すなら「落」(おちる)と いう文字が当てはまるそうです。上辺だけの豊かさの陰で、暗く不確かな不安と迷い の支配する時代に私たちは生きています。二千年前のあのベツレヘムの馬小屋を取り 囲んでいた闇よりも、もっと暗く深い闇が今日の私たちの世界を覆っているのです。  しかし今日の御言葉は、その「闇」に生きる私たちに、その「闇」のゆえに恐れて はならない。そうではなく、あなたのために(全世界の救いのために)来られた御子 イエス・キリストを見よと、語り告げているのです。ベツレヘム郊外の野原で羊飼い たちが「畏れた」のは闇ではなく、彼らを巡り照らした神の栄光でした。いま私たち 一人びとりが真実に見るべきもの、それは「永遠なる神」が私たちのために人となら れ、十字架を担われるために世に来られたという事実です。 病気の治療には対症療法と根本治療の二つの治療法があります。対症療法とは、表 面に現れた症状をとりあえずくい止めるということです。ギックリ腰になった人に痛 み止めの注射を打つようなものです。しかしもちろん、それでは本当の治療にはなり ません。対症療法だけでは病気は治らないのです。本当の治療は根本治療によるほか はないのです。単に痛みを抑えるだけではなく、その痛みの原因となるものを突きと め、その病巣を癒すことであります。それでなければ本当の治療とはならないのです。  私たちのこの世界も同じなのです。よく「毒をもって毒を制する」と申しますが、 同じ「必要悪」の原理原則に立つ、いわゆるミリタリーバランスや経済安定の論理、 第三世界やイスラム原理主義問題の解決だけで、世界の真の平和と秩序が築かれるは ずはありません。そこには何よりも根本治療が必要です。その根本治療こそ、まこと の神に対する私たちの「罪」の問題の解決であります。 森有正というわが国の哲学者が…この人は改革長老教会の牧師の家庭に生れた人で すが…二十一世紀の世界における最重要課題は人間の「罪」の問題であると明言して います。これこそあらゆる問題を解く根本治療なのです。しかも森有正はこの「最重 要課題」ほど軽んじられているものはないと語っています。そのことと、今朝の御言 葉の祭司長、パリサイ人、そして群衆の姿とは、重なってくるのです。それこそ私た ちの姿でもあるのです。神がなさろうとする根本治療を拒み、自分の浅はかな知恵に よる対症療法のみにあくせくする私たちの偽らざる姿です。そのようにして私たちは いよいよ窮地泥沼に落ちこんでゆきます。自分で自分を持てあますのです。そして他 者を審きおのれをも審き、絶望の深みへと落ちてゆきます。 今朝の伝道の書3章11節に告げられているように、神は私たちに「永遠を思う思 いを授けられ」ました。しかし同時に「それでもなお、人は神のなされるわざを初め から終りまで見きわめることはできない」のです。そのようにして、伝道の書の「伝 道者」が逆説的に語るように「わたしは知っている。人にはその生きながらえている 間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない」という結果になります。これは驚 くほど、今日の世界状況と似通ってはいないでしょうか。絶望と裏腹にある刹那主義、 快楽主義が、今日の世界を支配してはいないでしょうか。  神は私たちに「永遠を思う思いを授け」たまいました。この「思う」とは「求める」 というヘブライ語です。そして「永遠」とは先にも申しましたように、主イエス・キ リストのことですから「永遠を思う思い」とはすなわち「イエス・キリストを求める 思い」(信仰)のことです。私たち人間は誰でも例外なく、まことの救い主を、イエス・ キリストを求めてやまぬ存在なのです。それに気づかずにいるだけなのです。ゼーデ ルブロームというスウェーデンの宗教学者は「世界の歴史は、まことの神を求める人 類の魂の旅路である」と語りました。「時」すなわち歴史は「永遠」を求めずにはやま ないからこそ「時」なのです。そしてその「永遠」こそ主イエス・キリストなのです。 キリストは歴史の初めであるばかりでなく、その目的であり到達点であられます。旅 路には必ず目的があります。目的地のない旅は放浪であって、もはや旅ではありませ ん。それと同じように、神が御子キリストをお遣わしにならない世界は放浪の世界で しかありません。  私たちは主イエス・キリストを救い主と信じ告白して、教会に連なることによって のみ、自分の人生がもはや放浪ではなく、真の到達点(目的)を持つ旅路であること を知る者とされるのです。神の愛の内に生きる者とされてゆくのです。キリストを信 じ御言葉に従って生きる私たちを、もはや罪と死は支配することはできません。それ は罪と死は「時」だけを支配するのであって「永遠」を支配することはできないから です。キリストという「永遠」が私たちの「時」に、すなわち罪の支配するこの世界 に突入し、そこで私たちの罪を贖いたもうたのですから、もはや罪の闇は私たちを支 配しえず、キリストの主権と真実のみが私たちの人生を照らす「まことの光」なので す。まさにそのような者として、私たちは主の御身体なる教会に連ならしめられてい るのです。  私たちのために「永遠なる神」がなして下さった救いの御業とはなんでしょうか?。 それは「永遠なる神」が、私たちを「救い」へと入れるために独子キリストを世に与 えて下さったことです。私たちの救いのために神が自己犠牲という代価を払って下さ ったことです。それこそ聖書が語る「罪の贖い」の恵みであり、福音の中心なのです。 私たちはいま、その「救い」にあずかる者とされているのです。  私たちの地上の出身地(どこから)はやがて消え去るものにすぎません。しかしそ のいっさいが消え去っても、なおそこで私たちの存在を根底から支え、祝福の生命を 与える唯一つの出来事がある。それこそイエス・キリストによる救いの御業(罪の贖 い)なのです。永遠が時間の中に突入した出来事です。「まことに主が、あなたのため に来られた」という出来事です。私たちの朽つべき「時」をキリストという「永遠」 が贖い、私たちをそのあるがままに神に立ち帰らせて下さったのです。私たちはもは やこの地上の歩みにおいても、また地上の歩みを主にお返しする時にも、少しも変る ことなくキリストのものであり続けるのです。  何のいさおも資格もなきままに、ただキリストの恵みによってここに連なる私たち は、主イエスを私たちの世界にお遣わしになった主なる神のもとに、主イエスと共に 永遠に生きる者とされているのです。そのことを主は「わたしのおる所にあなたがた もおらせるためである」と言われました。「あなたがたのために場所を用意するため に」自分は十字架にかかり、点の父のみもとに帰るのだと言われました。同じヨハネ 伝14章です。求めても捜しても神と共にはありえない私たちを、その罪の支配から 解放して溢れる恵みの支配へと移して下さるために、主は十字架にかかって永遠の贖 いとなって下さったのです。 その主イエスが私たちに「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわ たしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」とお教えになりました。そ して、父なる神と御自分とが永遠に一つであるように、私たちをも一つとなすために、 私たちをこの教会へと招いて下さったのです。同じヨハネ伝17章25節以下に記され た主イエスの、十字架を目前として弟子たちのために献げられた祈りの終わりの御言 葉を聴きましょう。「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたし はあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知ってい ます。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。 それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも 彼らのうちにおるためであります」。  ここに、今朝の御言葉の音信があります。祭司長、パリサイ人、群衆たち、そのど れにも私たち自身の姿があります。しかし私たちはいま、キリストを信じない者では なく、信じ告白し、教会に連なる者としてここに招かれています。キリストの御身体 なる教会に結ばれ、かしらなる主に連なる枝とされているのです。主を信ずる全ての 者に約束された大いなる祝福がここに告げられているのです。それが私たち一人びと りにいま与えられているのです。それが私たちの人生を支え導いています。そしてそ こに、この世界の歴史に、まさに私たちの「時」に与えられた「永遠」なる神の根本 治療があります。「すべての人を照らすまことの光」がいま、私たちと共にあるのです。