説    教    イザヤ書65章1〜2節  ヨハネ福音書7章25〜31節

「キリストの出身地」

2008・10・26(説教08431242)  「出身地」と聞いて私たちは、どういうことを思うでしょうか。誰にでも「出身地」 があります。自分が生れ育った環境というものがある。私たちがそこから養いと教育を 受けた文化があります。それはないがしろにすべきものではありません。しかしキリス ト者にとって「出身地」を大切にするとは、決してただそれだけの問題ではないはずで す。  パール・バックというアメリカの女流作家がいます。中国東北部の貧しい農村を舞台 にした「大地」という壮大な物語を書いた人です。彼女の作品に「父母の思い出」とい う小さな美しい随筆集があります。彼女の両親は中国に遣わされた宣教師であり、彼女 はその両親のもと中国で生まれ育ちました。子供の頃は遊び友達は中国人ばかり。英語 よりも中国語のほうが堪能であったと、幼い頃を回想しています。  このパール・バックが、この美しい随筆の中で、中国の豊かな自然や、人々との出会 いにもまさって、最も印象ぶかいこととして、大きな感謝をもって描いているのは、毎 日の家庭の中で献げられていた両親の祈りの姿です。それを回想しつつ彼女は、そこに 「自分は人生において最も豊かなもの、崇高なもの、最も大切なもの、最も勇気あるも の、最も慰めに満ちたものが何であるか、幼心にはっきりと理解した」と語っています。 そして更にこう書いています。「両親にとっては、たとえ故国からどんなに遠く離れてい ようとも少しも問題ではなかった。この地球上のどこにいても、神が共におられ、その 地に使命を与えておられるゆえに、そこが彼らの故郷であり、彼らの『出身地』であっ たと、いまはっきりと感じている」。  そして、さらにこうも語っています「自分にとって真の出身地とは、まさにこの“両 親の祈り”であり、私はそこから神の祝福を受けて人生へと旅立った。その美しい思い 出と感謝のゆえに、私は両親と共に、神に栄光と讃美を献げざるをえない」。  さて、主イエス・キリストの「出身地」は、いかなるものであったでしょうか。そし て、主イエス・キリストの恵みによって教会に連なり、御言葉に生きる私たちの「出身 地」とは、いったい何処でありましょうか。この大切な問題について、今朝の御言葉ヨ ハネ伝7章25節以下は、私たちに明確な御言葉を語っています。私たちは地上の出身 地は持ちますが、それ以上の、真に持つべき出身地を見失っているのではないか。この 最も喜びに満ちた幸いから、私たちはいとも簡単に落ちてしまっていはしないか…。そ れをはっきりと示すのが今朝の御言葉です。ここには、人の付合いを大切にし、合理的 で賢明なように見えるけれども、しかし実はたいへん傲慢な、神を讃美することからは 最も遠くなっている人々の(私たちの)偽らざる姿が示されています。前の24節まで に示されている人々の混乱と疑いが、ひとつの極致に達しているところがこの25節以 下なのです。  まず25節には「さて、エルサレムのある人たちが言った」とあります。この「ある 人たち」というのは、律法学者の中でも、穏健派を自認していたサドカイ派の人々であ ったと思われます。何が真理であり、何がそうでないか、見極める分別があると自認し ていた人々です。そこで、26節までのところを見ますと、彼らは主イエスについて「こ の人は人々が殺そうと思っている者ではないか。見よ、彼は公然と語っているのに、人々 はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとう に知っているのではなかろうか」と語ったと記されています。  ここに彼らが「役人たち」と申しましたのは、エルサレムの最高法院(七十人議会) の議員である人々のことです。宗教と政治と裁判に関する最高の権威を持つ人々です。 この議員には、特に選ばれた律法学者や神殿の大祭司が任命されました。この「役人た ち」は「この人(主イエス)が神から遣わされたキリストであることを、本当に『知っ ている』のではなかろうか」と彼らは思ったのです。なぜなら、公然と神殿の中庭で説 教をしておられる主イエスを、誰も手にかけようとはしなかったからです。本当なら神 殿の聖域で勝手に説教しているイエスを、石打ちの刑に処することができたはずす。し かし誰もそうしないのは、たぶん最高法院の議員たちが主イエスを保護しているからに ちがいないと、彼らは考えたのでした。  ここでも彼らが第一に考えているのは、政治的な駆引き、力と力の関係でした。もし 最高法院の議員(役人たち)の意志に逆らって、主イエスを殺そうとすれば、きっと自 分たちの立場が危うくなるだろう。ここはひとつ我慢して、黙って傍観しているのが得 策だと考えたのです。つまり、彼らにとって重要なのは、神の真理の問題ではなく、自 分たちの立場を守ることであったのです。  こうした自己保身の姿勢から、そこにもう一つの人間の思惑が現れるのが今朝の御言 葉の27節以下です。それは「わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている」と いう思いです。実はこの思いが、彼らをキリストに対して“つまずかせた”のです。自 分たちは主イエスの出身地を知っている。それは“ガリラヤのナザレ”ではないか。こ の者はナザレ出身の大工ヨセフの子、その母はマリアではないか。われわれはこの者の 素性について詳しく知っているではないか。ならば旧約の預言者たちも語っているよう に「ガリラヤからキリストは出ない」はずだ。つまり、この者がガリラヤ出身だという 事実だけで、この者がキリストではないことがわかる。彼らはそのように考えたのです。  もう一つ、彼らの心を捕らえていた問題がありました。それは「隠されたキリスト」 という、当時のユダヤの人々の間に流布していた考えかたです。どういうことかと申し ますと、キリストはかならず超自然的な仕方で、突然「謎の人物」として世に現れるの だという考えかたです。預言者ダニエルやマラキがそう証言していると言うのです。キ リストは決して出身地を知られることはないはずだと言うのです。キリストはある日突 然、天から降りて来られるはずだと考えたのです。つまりエルサレムの住民に「ナザレ」 という出身地が知られている以上、このイエスがキリストだという可能性はありえない と彼らは判断したわけです。だからこそ27節に「しかし、キリストが現れる時には、 どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない(はずだ)」と語ったのです。  このように、律法学者たちは神の真理の問題を、ただ言い伝えと世間の常識と自己保 身とによって扱おうとしました。それは同時に、私たち自身の姿でもあるのではないで しょうか。私たちもまた同じように「キリストの出身地」を問題にするからです。そう 聞きますと私たちは「いや、そんなことはない」と答えるでしょう。もちろん私たちは 「ナザレ」だの「ガリラヤ」だのという地名を詮索することはしないかもしない。しか し、自分の人生にとって、キリストを信じることが損か得か、プラスかマイナスか、利 益かそうでないか、そのような人間本位、自分中心の考えで、信仰の問題を(教会生活 の姿勢を)決めてしまうことがないでしょうか。 信仰が自分にとって喜びであり利益である間はキリストに従う。しかしひとたび信仰 が喜びではなくなり、重荷を伴うものになれば、たちまちそれを捨て、教会から離れ、 キリストに従わなくなってしまう。それは、本当に私たちとは無縁の姿でしょうか。実 は私たちこそ、キリストの出身地で躓いている(審いている)律法学者たちと同じ姿を しているのではないでしょうか。 出身地を問うということは、その出所由来の正統性を問うことです。しかし信仰(神 の真理)にとって、地上の出所由来は問題となりうるのでしょうか。答えは「否」であ ります。地上の出所由来は信仰には全く関係ありません。それは神の御言葉を聴いて生 きる生活とは全く別次元の問題です。たしかに私たちは、初対面の人に会うと、その人 の出所由来を問題にしたがります。アメリカで大統領を護衛するシークレット・ポリス (SP)の中にたまたまアラブ系の人がいました。その人がアラブ系であるというだけ の理由で、大統領専用機への搭乗を拒否されたという事件がありました。これなども出 身地を問う最も愚かな一例です。「どこどこの出身」というだけで十把ひとからげに扱う のです。その人の人格を見るのではなく、出身地で色分けして判断するのです。  しかし信仰の世界、神の真理の領域において(私たちの本当の人生にとって)地上の 出所由来は問題にはなりません。むしろ私たちが本当に問うべき「出身地」はこの地上 とは別の処にあります。「私たちはいったい何処から出て何処に向かう存在なのか」。こ の人生の最も大切な問いに対して、私たちが答えるべき地名は、この地上のどこかにあ る地名ではないということです。そのようなものが私たちの人生の礎ではないのです。 私たちの人生の本当の唯一の永遠の礎は、この地上のどこかの場所ではなく、ただ父な る神のみもと「天」にあるのです。そうでなければ、私たちはこの地上での人生を真の 勇気と平安、慰めと希望をもって歩むことはできないのです。  イギリスに最初にキリスト教が伝えられたのは、西暦4世紀の半ばごろ、コロンバと いうエジプトのコプト教会出身の宣教師によってでした。いまでも彼が上陸したスコッ トランドのアイオナ島には、イギリス最古と伝えられる教会が建っています。ほとんど 同じ時期にアンドリュウスという人がケルト族に福音を伝え、この二つの流れがイギリ スの独自なキリスト教会(ローマ・カトリックの支配を受けない教会)を生み出すこと になりました。その4世紀半ば頃の話として、こういう物語が伝えられています。当時 のイギリスは7つの国に分かれていた。その中のノースアンブリアという国の国王が、 キリスト教を受け容れるべきかどうか悩んでいた。そこで王は国じゅうの哲学者や賢人 たちを招いて議論をさせたのです。  議論は延々と続いたけれども、結論は出なかった。すると、それまで黙って話を聴い ていた一人の老賢人が立ち上がり、王にこう語りました「王よ、私たち人間の一生は、 まことに儚く、矢のように過ぎゆくものです。それは譬えて言うなら、家族が灯火を囲 んで食事をしているとき、開いている窓から雀が入ってきて、反対側の窓から出てゆく ようなものだ。一瞬の間だけ光に照らされたその姿が、どこから来てどこに消えたのか、 誰も知らない。同じように私たちは、自分がどこから来てどこに向かう存在なのか誰も 知らない。この最も大切な人生の問題に、キリスト教が確かな答えを与えるものならば、 王よ、私たちはこれを信じなければなりません」。このひと言によってノースアンブリア はイギリスで最初にキリスト教を信じたのです。  私たちは、どこから来て、どこに向かうべき存在なのか。この最も大きな問いに対す る答えは、この地上の出身地からは与えられません。それはただ主イエス・キリストが 与えて下さる、最も確かな「出身地」だけが唯一の答えとなるのです。このことについ て使徒パウロはローマ書11章36節に「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰 するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」と讃美しました。私たち は「真の神」であられるキリストが「真の人」となられたことを忘れてはなりません。 キリストの神性だけを信じることは、阿弥陀仏のような非歴史的信仰になり、そこに は倫理と歴史は造られず、信仰は観念的なものになります。逆にキリストの人性だけを 信じることは、道徳的律法的社会的信仰となり、それは歴史の中に吸収されてゆくほか ありません。主なるキリストは「マコトニ神、マコトニ人」であられると告白するニカ イア的な正しい信仰を、私たちは「出身地」とする伝統ある教会に連なっていることを 感謝したいのです。キリストは真の神として天から遣わされ、ベツレヘムに人としてお 生まれになり、十字架の道を歩まれ、最後は十字架上に御自分の生命の全てを献げ尽く して下さったのです。  この十字架のキリストによる罪の贖いによって、私たちは罪と死の支配から解放され、 キリストの復活の生命の御支配のもとに生きる者とされ、教会に連なる幸いを与えられ ました。信仰の道を勇気と平安をもって歩む者とされているのです。そのような十字架 の主によってのみ、使徒パウロは「万物は神からいで、神によって成り、神に帰するの である」と語るのです。だからこの言葉は「キリスト告白」なのです。キリストの主権 の内に新しく生れる、キリスト者の幸いを告げているのです。主はあのニコデモに「だ れでも新しく生れなければ、神の国にはいることはできない」と語られました。しかし、 この世の出身地のことだけを考えていたニコデモは「(主よそれは無理です)人は年をと ってから、もういちど母の胎内に入って、生れ直すことができるでしょうか?」と問う たのです。 それに対して、主ははっきりと言われました「よく、よく、あなたに言っておく。だ れでも水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は 肉であり、霊から生れる者は霊である」。そして何よりも、今朝の7章28節以下の御言 葉において、主ははっきりと語っておられます。「あなたがたは、わたしを知っており、 また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではな い。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。 わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたが わたしをつかわされたのである」。  主は言われるのです。あなたがたは(私たちのことです)、私の出身地だけを問題にす る。しかし、あなたがたが本当に知るべき、また持つべき出身地は、真実なる神のみで ある。その神によって新しく生れた者とならなければ、人間は誰も決して、生きた者と はなりえない。だからあなたがたは、神を信じる者になりなさい。神の愛と真実の内に 教会に結ばれ、新しく生れた者となりなさい。そうすれば、私の出身地があなたの出身 地となるであろうと、主はそのように私たちに告げておられるのです。  主は「あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている」と言 われました。私たちは本来、神を知りえず、知るすべさえ持たない者です。しかしキリ ストは真に神を知っておられます。そのキリストが私たちに神を示して下さいます。教 えて下さいます。否、そのキリストが十字架によって私たちの罪を贖い、私たちを神の もとに立ち帰らせて下さるのです。神との交わりを持ちえず、義とされえなかった私た ちが、イエス・キリストの十字架によって、真の神の民とされ、キリストと共に生きる 者とされてゆくのです。 これこそ、新しく生れる幸いであり、これこそ私たちの本当の「出身地」なのです。 まさにこの「出身地」、パウロの言う「天の国籍」というまことの出身地を持つ者とされ て、私たちはいかなる時にも、どのような経験や境遇においても、慰めと平安に満たさ れた者として、自分の生涯、また隣人に対しても、慰めと祝福を携えてゆく者として、 キリストの僕として、生きてゆく者とされているのです。