説    教     申命記32章1〜4節 ヨハネ福音書7章14〜18節

「神からの教え」

2008・10・05(説教08411240)  今朝、私たちは、ヨハネ伝7章14節以下の御言葉を与えられました。「仮庵の祭」で賑 わうユダヤのエルサレム神殿の中で、主イエス・キリストが突如説教をお始めになった場 面です。来月には待降節(アドヴェント)を迎えますが、まさに主の御言葉が私たち一人 びとりに「迫り来る」(アドヴェントの)場面が伝えられているのです。  しかも最初の14節を見ますと「祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始め られた」とあります。「仮庵の祭」は毎年7月15日から一週間、神の御前に献げられる大 切な礼拝でした。ですから「祭も半ばになってから」というのは、あと数日で祭が終わる という時に、主イエスは突如として「宮」(エルサレム神殿)に姿を現され、説教を始めら れたということなのです。主イエスは私たちの「終わり」をも「始まり」となさるおかた なのです。  ところが人々は15節にあるように、この突然の説教にたいへん「驚いた」のでした。 主イエスの説教が余りにも突然だったというだけではなく、お語りになる福音があまりに も素晴らしかったからです。ユダヤの律法学者たちは、まるで法律家のように聖書を“誡 めの言葉”として説いていました。しかし主イエスは「権威ある者」のごとくに聖書をお 教えになった。そこに決定的な違いがあったのです。  主イエスは、あたかも神ご自身がそこに現れて、親しく御言葉を語っておられるかのご とくに福音そのものを人々に語られたのです。だから、そこに現れたものは単なる言葉の 羅列ではなく、主なる神が聖霊によって今現わしておられる“救いの出来事”そのもので した。人々は神が今なしておられる“救いの出来事”の中に自分がいることを知らされま した。神の御言葉が生きた救いの力をもって「迫り来る」のを感じたのです。主が来臨し て下さったこと(アドヴェントの恵み)を感じたのです。  しかし、この「迫り来る」キリストの恵みの光においてこそ、私たちの不信仰もまた顕 わにされます。たとえば、同じ新約聖書のルカ伝4章16節以下には、主イエスの故郷ナ ザレの会堂における最初の説教の様子が記されています。主はそこでイザヤ書61章の言 葉を宣べ伝えつつ「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と言われまし た。ところがナザレの人々は、主イエスが語られた説教に驚きつつも、同時に「この人は ヨセフの子ではないか」「われわれは、その父も、母も、知っているではないか」と言い、 主イエスがただの無学な人であることを訝しみ、ついに御言葉を信じることをしませんで した。「迫り来る」主の御言葉を信ぜず、自分を頼みとしたのでした。  それと全く同じ反応が、このエルサレム神殿の中でも見られたのです。すなわち人々は 主イエスの説教に驚きつつも「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識 を持っているのか」と呟き合ったことです。学問などないはずのこの人に、どうしてこん なに素晴らしい聖書の説き明かしができるのかと怪しんだのです。主イエスはナザレの 人々に対して「よく、よく、言っておく。預言者は自分の郷里では敬われないものだ」と 言われました。ここでも主イエスは同じように、エルサレムの人々の不信仰をご指摘にな ります。それが16節以下の御言葉です。改めて18節まで読んでみましょう。  「そこでイエスは彼らに言われた、『わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつ かわされたかたの教である。神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたし の語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるで あろう。自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかた の栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない』」。  私たちはここに、改めて問われています。このエルサレムの人々の不信仰は過去のもの なのでしょうか?。まさしく私たち自身の姿ではありますまいか。私たちこそ「迫り来る」 主の御言葉に対して、自分を明け渡すことを頑なに拒んでいる者ではないのか。キリスト が今ここにいまし、私たちを訪れていて下さるのに、心の扉を頑なに閉ざしている私たち の姿があるのではないでしょうか。  主イエスは、はっきりと言われました「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたし をつかわされたかたの教である」。これはなにを意味するのでしょうか?。もし主イエスの 説教が主イエスにとって「自分の教」にすぎないのなら、その説教は「人の子」たるイエ ス一個人の「教え」に過ぎません。しかし主イエスの説教は「自分の教え」などではなく 「(わたしを)つかわされたかたの教え」なのです。  ここに、説教のわざの本質があります。主イエスでさえ御自分の栄光を求める説教をな さいませんでした。ましてや主イエスから御委託を受け、説教のわざへと遣わされている 私たち教会は、ただ「(わたしを)つかわされたかたの教え」のみを語る群れであらねばな りません。私たちは“キリストによる真の救い”のみを証する群れとされているのです。 おのれを語らず、ただ神の御業のみを宣べ伝える…それが説教の本質です。  すると、どうなるのでしょうか。主イエスの説教を聴く人々(私たち)に求められてい ることは何でしょうか。それは、主イエス・キリストを神が遣わされた“救い主”と信じ 告白することです。教会の説教も同じです。説教の言葉によって私たち全ての者が「イエ ス・キリスト・神の子・救い主」と信じ告白する者とされてゆくのです。  しかしエルサレムの人々は、主イエスの説教をただ“人間の言葉”として聴いていまし た。彼らはその内容に“感服”したものの、それを“信じる”ことはしませんでした。だ から「この人は学問をしたこともないのに、どうして…?」という「驚き」だけが残った のです。本来なら信仰の入口であるべきその「驚き」は、彼らにとって躓きでしかなかっ たのです。人々は自分たちの「祭」を終えて家路へと急ぎつつありました。私たちはどう でしょうか?…私たちの「祭」(礼拝)は“終わりつつある”のでしょうか?。そうではな く「宮で教え始められた」主イエスを信じ、従う私たちであらねばなりません。人間の真 の幸いはまことの神に立ち帰ることです。神の言葉によって新たにされ、主の教会に連な り、礼拝者として歩むことです。そこに“永遠の生命”があるのです。  去る6月に、私たちの教会でも説教をされた大阪の永井修牧師が天に召されました。森 小路教会の牧師を50年間も務められた先生です。この森小路教会はもともと大阪のある 教会を母教会として開拓伝道された伝道所でした。そこに永井牧師が赴任されたのが1950 年(昭和25年)のことです。当時25歳の永井牧師を迎えた森小路伝道所は着実に成長し、 約5年で母教会からの自給独立を果たしました。そうしたある日のこと、その母教会の信 徒が数名の長老と一緒に永井牧師を訪ねて来た。永井先生が「何事か」と思いますと、な んとその人たちは自分たちの教会のK牧師の悪口を言いに来たのでした。説教が堅すぎる。 面白くない。信徒が減っている。そして永井牧師に「K先生を辞任させてほしい」と頼み に来たというのです。永井牧師はこの訴えに激怒されました。 キリスト者として、教会に仕える牧師として、大先輩であるK先生がどんなに立派な牧 会をなさり、病弱の身でありながら説教に全身全霊を注がれ、信徒一人びとりに心を注い でおられたか、永井牧師は誰よりよく知っていたからです。普段は温厚な永井牧師もこの 時は激怒されました。「帰れ!」と怒鳴ったそうです。「帰れ!帰って長老全員を私のもと に連れてきなさい」。集まってきた長老全員に永井牧師は「自分はK先生より立派な牧者を 知らない」と言い、その立派な牧師を支えて、不平を言う長老や信徒を諌めるのが長老会 の務めではないか」と訴えたのです。それが契機となってその教会は主の御前に悔改め、 病身のK牧師を支えて心機一転歩みを始めることになりました。主の教会が守られたので す。その永井牧師の最後の言葉(祈り)を紹介します。今年の5月27日の祈りです。 「…神よ、病を得て知りました。あなたが全てを支配なさり、この私と共にいますこと を。いかなる病をもいやしたもう力と愛とをもたれるあなたが全てを支配したもうことを 感謝いたします。人は恐れに捕らわれ世界は争いに満ちていますが、誰もがただあなたに 立ち帰って平和を得ることを知りません。どうか、あなたの義が樹立し力あるものが弱き 者の弱さを担うようにさせてください。世界の教会と日本の教会が真にあなたに仕える道 を歩ませてください。わたしたちが伝統ある教会に連なることを許されていることを感謝 いたします。キリスト・イエスの名によって祈ります。アーメン」。 あの使徒パウロでさえ、コリント教会の一部の人々に「(パウロ先生の)手紙は重味があ って力強いが、会ってみると外見は弱々しく、話はつまらない」と批判されていたほどで す。逆に、このような人たちを満足させる説教とはどういうものでしょうか?。またそう した人たちが喜ぶような教会が“本当の教会”と言えるでしょうか?。キリストを主と告 白する教会の姿を改めて問われるのです。  今日の私たちにとってこそ大切なことです。キリストへの信仰を御言葉によって新たに させて戴き、主に従順な歩みを続ける私たちであらねばなりません。私たちの教会生活(信 仰生活)はいつのまにか自己中心のものに変質してはいないでしょうか?。改めて問われ ています。神の言葉をどのように聴いているか…ということです。毎週の説教を自分に「迫 り来る」主の御言葉として聴いているか?ということです。説教者の務めは「わたしをつ かわされたかたの教え」のみを語ることです。それを聴く会衆はその説教を『神からの教 え』(福音)としてキリストの救いの御業にあずかり、ただ神にのみ栄光を帰するのです。 そのとき教会は本当の伝道の教会へと成長してゆきます。  先日、イギリスのジョン・オーマンという神学者の著作を読んでいて、こういう言葉に 出会いました。オーマンは旧約聖書のホセア書について、特にホセアの「謙遜」という言 葉にふれて、こういうことを語っているのです。「謙遜と聞くと、ふつう私たちは道徳的な 誡めとしてしか理解しないであろう。しかしホセアはそのような意味で謙遜を語ってはい ない。ホセアにとって謙遜とは、律法の義によって既に満たされてしまっている自分の心 を、生ける神の御手に明け渡すことであり、それ以外に人間にとって、真実の謙遜はあり えないのである」。  そしてオーマンは、この「謙遜」のことを「積極的な謙遜」と呼んでいます。私たちの 謙遜は(幸いなことにそれが備わっていたとしても)「消極的な謙遜」にすぎません。人の ことは見ていても神を見てはいないのです。人の前では生きていても神の前では生きてい ないのです。積極的な謙遜は神の御手に自分を明け渡すことです。そこにパリサイ人の謙 遜と主イエスの謙遜の違いがあります。主イエスは真の謙遜を持っておられる。その「真 の謙遜」の向かうところにこそ、私たちのために担われたあの十字架がありました。すな わちピリピ書2章6節以下にあるキリストのお姿です。 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わ ず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様 は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順で あられた」。 私たちは今朝、まさしくこの十字架のキリストを信じ、このキリストが御自身の御身体 としてお建てになった主の教会に連なる者とされているのです。そこで私たちがキリスト を真実に自分の「主」救い主と信じ告白して教会に連なり礼拝者として生きるとき、そこ に繰広げられる人生の光景は大きく違ってくるのです。先ほどの永井牧師の祈りが私たち 自身の生活の祈りとなるのです。すなわち今朝の御言葉の17節に、主はこのように語ら れました。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの 教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」。  ここで主が言われる「神のみこころを行う」とはいったい何でしょうか?。それは同じ ヨハネ伝6章28節に明確な答えがあるのです「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわ ざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われ た、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」。「神のみこころを行う」と はまさしく「神のわざ」を行うことです。それならば、主イエスみずからここにはっきり と「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」と明らかな答えを示して下さ いました。「神がつかわされた者」とはキリスト御自身です。だから、今朝の御言葉におけ る「神のみこころを行う者」とは「キリストを信ずる者」のことです。つまり「キリスト を信ずる者」は「だれでも」主イエスの説教が『神からの教え』であることを知り、御言 葉によって建てられてゆくのです。キリストを信じて教会に連なる者は「だれでも」聖霊 によって『神からの教え』を受けつつ生きる、新しい人生を歩む者とされるのです。キリ ストを信ずる者は「だれでも」と約束されているのです。  その私たちに与えられている大きな祝福が、第一コリント書14章24節以下に告げられ ています。「全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら」そこに何 が起こるか、その慰めにいまここで与かっています。すなわち「彼の良心はみんなの者に 責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれて、その結果、ひれ伏して神 を拝み、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と(キリストの現臨と主権を)告白 するに至る」というのです。つまり私たちは、主の御身体に恵みによって連なる者として、 この世界が罪の支配する世界などではなく、神の御心が行われる世界であり、御言葉によ り万物が新たにされてゆくことを知らされているのです。 だから、もはや罪の重荷を自分で抱えている必要はない、キリストがあなた(私たち) のために十字架にかかって下さったからだ。自分を人生の中心とする審きからも、私たち は主によって自由な者とされているではないか。「真の謙遜」であられるキリストの御手に いつも支えられているではないか。主は生命を注いで、私たちのために限りない救いと慰 めと平安を与えて下さった。だから、私たちはどのような時にも「キリストの平安」に生 きる者とされているのです。全ての主の僕らと共に、キリストの現臨と主権の前に「ひれ 伏して神を拝む」者とされています。このような恵みを、勇気と希望と慰めとを、主の御 手より戴きつつ、どうか私たちは、いよいよ心を高く上げて、信仰の健やかな歩みを続け て参りたいと思います。