説    教    創世記3章8〜9節   ヨハネ福音書7章10〜13節

「汝は何処に居るや」

2008・10・05(説教08401239)  主イエス・キリストは、多くの人々に「あなたもエルサレムに行って、そこで自分 を公に現したらどうか」と勧められたとき、「わたしの時はまだきていない」とお答え になり、ガリラヤにとどまる道を選ばれました。それが7章9節までの御言葉の場面 です。  ところが、今朝の7章10節以下を見ますと「しかし兄弟たちが祭に行ったあとで、 イエスも人目に立たぬように、ひそかに行かれた」とあるのです。これはあまり体裁 の良い場面とは言えないように思えます。というのは、主イエスは一度は「行かない」 と決心されたエルサレムへの上京を、あとから「人目にたたぬように、ひそかに」行 くことにされたと読めるからです。主イエスほどのかたが、一度決心したことを翻さ れたと読めるからです。  しかし、それは私たちのはしたなき勘ぐりでして、事実はもちろんそうことではあ りません。何よりもここに「人目にたたぬように、ひそかに行かれた」とあるのは、 単に“人目を避けて”ということではなく“ただ神のみを見つめて”ということであ ります。  主イエスはいつも、父なる神の御心のみを行い、神の御言葉のみに従う歩みをなさ ったかたです。ですから、主がこの時期にエルサレムに行かれたのは、父なる神に礼 拝を献げるためであって、御自分を「世に現すため」などではないのです。だからこ そ、主は「ひそかに(エルサレムに)行かれた」のです。  それに加えて、主イエスはエルサレムにまで、御自分に関わる様々な噂が広まって いるのを知っておられました。もし人目につくような形でエルサレムに行けば、たち まち群衆が「待ってました」とばかりに主イエスを取り囲むでしょう。人々は主イエ スに、新しいイスラエルの「王」となるべきことを期待していたからです。  ローマ帝国の圧制から民衆を解放し、ダビデ時代の繁栄を再びユダヤにもたらして くれる力ある「王」が待望されていた時代でした。その「王」であるメシア(救い主) がエルサレムに入城することを、民衆は待ち焦がれていたのです。その「王」こそナ ザレのイエスであると人々は思っていました。主イエスを「十字架の主」ではなく「政 治的なメシア」として理解していたのです。エルサレムの人々は主イエスを、この世 の「王」に祭り上げようとしていたのです。  主イエスの「兄弟たち」が、主イエスにエルサレム行きを強く勧めたのも、まさに その機運に後押しされてのことでした。主イエスの弟子たちもまた、同じような期待 を抱いていたのです。だからこそ、主イエスが「王」の座に就かれるとき、いったい 誰が右大臣、左大臣に任命されるのか、それが弟子たちの間で争論の種になっていた ほどです。主イエスはこのような動きを強く誡められ、御自分がエルサレムに行くの は「人々によって十字架にかけられ、死んで葬られ、甦るためである」ことを繰返し 語られました。「わたしが世に来たのは、王になるためなどではなく、全ての人の罪の 贖いとして、十字架にかかるためである」とお教えになったのです。  しかし「仮庵の祭」の熱気に咽返るエルサレムの巷で、弟子たちも多くのユダヤ人 も、神の言葉を聴く耳を持ってはいませんでした。神のことを思わず、ただ人のこと のみを思っていた人々は、主イエスが「ひそかに」エルサレムに来られたという噂を 聞きつけるや否や、いち早く行動に出ました。私たちは神の御言葉を聴いて動くので はなく、人の噂を聞いて動くことがいかに多いことでしょうか。そこにも私たちの罪 の姿があります。神の言葉によっては動かないのに、口さがない人の噂によっては簡 単に動くのです。 まさにその私たちの姿が、今朝の11節以下にはっきりと示されています。「ユダヤ 人らは祭の時に、『あの人はどこにいるのか』と言って、イエスを捜していた。群衆の 中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、『あれはよい人だ』と 言い、他の人々は、『いや、あれは群衆を惑わしている』と言った。しかし、ユダヤ人 らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった」。  主イエスについて、エルサレムの人々は様々な「うわさ」を立てていました。毀誉 褒貶が入り乱れていました。しかし陰で謗り合うだけで「(誰も)イエスのことを公然 と口にする者はいなかった」のです。律法学者や祭司たちの仕打ちを恐れていたから です。神への畏れを失うとき、私たちは人を恐れる者になるのです。この「公然と」 というのは“神の御言葉に照らして、信仰によって”という意味です。だから「公然 と口にする者はいなかった」とは“神の御言葉に照らして、信仰によって”主イエス を見ていた者は「いなかった」ということなのです。神の言葉ではなく、人の噂で動 いていたのです。信仰によって主イエスを見ていなかったのです。  さて、今朝のこの11節以下の御言葉の中で、私たちが特に心をとめるべき御言葉 がもう一つあります。それは11節に「ユダヤ人らは祭の時に『あの人はどこにいる のか』と言って、イエスを捜していた」とあることです。これは一見もっともらしく 聞こえます。主イエスがエルサレムに来られたらしいという「うわさ」を聞いた「ユ ダヤ人ら」が、ではその主イエスはどこに居るのか“捜した”ということです。噂の 主(ぬし)に会ってみたいと願うのは、いつの時代にも変らぬ人情です。これは言い 換えるなら、私たちが主イエスを尋ね、私たちが主イエスを捜し求めることです。も っともらしく聞こえるというのは、まさにその点なのです。  およそ人類の歴史が始まって以来、どのような宗教や哲学も、それらはすべて、私 たちが神を、また真理を“捜し求める歩み”でした。いわば、私たちが「神」または 「真理」を尋ねて、それに出会うまでの道程のことを「宗教」または「哲学」と呼ん だのです。そこに例外はありません。たとえば、古代ギリシヤの哲人プラトンは「エ ロースの階段」ということを言いました。「エロース」というのは、真理を求める人間 の歩みです。真理を愛する愛のことです。  その愛(エロース)が、あたかも階段を一歩一歩昇るように、真理に向かって己を 高めてゆく。ごく限られた天才、また極限までの修行や学問を積んだ僅かな人のみが、 最終ステージまで行き着くことができる。その最終ステージのことを、プラトンは「イ デアの世界」と呼び、仏教では「悟り」と呼び、他の宗教では「解脱」また「成就」 また「救い」と呼び、哲学では「完成」「理想世界」「絶対無の境地」「永遠の道徳律」 「進化の最高段階」などと呼んできたのです。  しかし、それらはすべて私たちの側から、神を尋ね求めようとする歩みです。言い 換えれば、それが可能だ(できる)と考える自惚れの上に「エロースの階段」は成り 立っているのです。人間は、自分の意志や努力や修行によってより高いステージへと 上ってゆくことができるという前提です。もしその前提が崩れるなら「エロースの階 段」は成り立たないわけです。  聖書はまさしく、その大前提が「虚しいものだ」と宣言しているのです。私たち人 間はいかなる意味においても、自分の側から神に到達することなどできない存在だか らです。人間の側からまことの神に達する道はありえない。そこから“救いの物語” を始めているのが聖書です。そこに、聖書(キリスト教)と他の宗教や哲学との根本 的な違いがあるのです。  それでは、聖書はどのように、私たち人間の「救い」を捉えているのでしょうか。 それが最もよく現れているのが、今朝お読みした創世記の第3章です。いわゆる「失 楽園の物語」と呼ばれる箇所ですが「エデンの園」を「楽園」と訳すのは適当ではあ りません。むしろ、エデンの園においてアダムとエバが置かれていた状態というのは “神との完全な交わり”つまり人間にとって真の「救い」そのものの状態なのです。 神との完全な一致と平和です。人間が「あるべき場所にある」という状態です。神か ら離れないでいる祝福の状態です。  しかし、そうした「救い」そのものである状態から、罪を犯して、アダムとエバは 離れてしまうのです。それが、この創世記3章に記された事柄です。その「罪」とは、 神の言葉に叛いて、自分が神に成り代わろうとしたことです。「神のように善悪を知る 者」になろうとしたことです。神との交わりではなく、自分が世界の中心であろうと したこと、しかもそれを「救い」だと思い違えたことです。それが私たちの「罪」の 姿なのです。  まさにその罪を犯したとき、私たちはどのような行動に出たのか。どのような生き かたをする者になったのか。それが3章の8節に記されています。「園の中に主なる 神の歩まれる音を聞いた」とき、神が私たちに近づいて来られたとき「人とその妻と は主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」のでした。神の御顔を避ける者 になったのです。これは「人類始祖の物語」つまり“過去の神話”ではありません。 私たちの現在の姿を示す御言葉なのです。  だからこそ創世記の第3章は、私たちの「罪」を示すだけで終わっておらず、9節 を見ると、そこに神からの私たちに対するメッセージが響いています。すなわち「主 なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。私は神学校で(30 年以上前のことですが)左近淑という先生に旧約聖書神学を学びました。若くして天 に召された先生でしたが、世界最高の旧約学者の一人であったかたです。この左近先 生が、ある講義の中で「『あなたはどこにいるのか』この訳語はいけない。むしろ文語 訳の『汝は何処に居るや』これでなくては意味が通らない」と言われたことがありま した。親が自分の子供に「あなたは」と言うだろうか。「汝は」つまり口語で言うなら 「おまえは」「君は」と言うのが本当なのです。  「汝は何処に居るや?」。これは警察官が犯人を追及する言葉ではありません。親が 失われたわが子を捜し求める、血の出るような叫びであり、慈愛に満ちた神の私たち に対する今ここでのメッセージなのです。罪を犯して神との交わりから離れ、救いか ら落ちてしまった(救いを失ってしまった)私たちに、神は「汝は何処に居るや?」 と、私たちを必死に捜し求めて下さるのです。叛き続けるわが子を訪ね求める親のよ うに、もはや「子」と呼ばれるに値せぬ私たちを、神は慈父のごとき熾烈な愛をもっ て「汝は何処に居るや?」と呼びかけ続けていて下さるのです。  創世記が書かれた紀元前7世紀は、バビロン捕囚というの歴史的悲劇が起こった、 イスラエルの歴史において最も苦難に満ちた時代でした。もし神がおられるなら、な ぜこの世界にかくも筆舌に尽くしがたい苦しみや悲しみが起こるのか。人々は神の義 を疑い、この世界が呪われた世界であると感じ、歴史に絶望していた。まさにそのよ うな暗黒の時代にあって、イスラエルの民は「いや、そうではない、この世界は私た ちの罪によって、こんなに多くの破局に満ちた世界となったけれども、まさにこの荒 廃し、破れきった世界、そこに生きる私たち一人びとりに、主なる神は『汝は何処に 居るや』と呼びかけて下さっている、その神の御声によって、支えられ、保たれ、支 配されている歴史なのだ」と、声高く告白しているのが、この創世記なのです。  そして、私たちを、限りない愛をもって捜し求めて下さる神、私たちを救いへと導 こうとしておられる神は、御子イエス・キリストを惜しみなく、この罪の世界に与え て下さった神なのです。私たちに対して「汝は何処に居るや?」と呼びかけていて下 さる神は、まさにその呼びかけの愛において、御自身の御子をお与えになったのです。 私たちはあるべき所におらず、あるべきではない所に居る存在です。神の御言葉と聖 霊の支配する場所に居らず、罪の支配するところに生きている私たちです。空しき自 由の影を追い求め、根拠のない希望を抱き、頼りない慰めにみずからを委ね、滅び去 ってゆく者でしかありません。  そのような私たちに、主なる神は、御子イエス・キリストを(御自身を)与えて下 さいました。御子イエスは父なる神の御心のままに「失われた者を尋ね出して救うた めに」あのベツレヘムの馬小屋に人となられ、苦難の道を歩まれ、十字架を担われ、 私たちの罪の贖いとなって、御自分の生命を献げ尽くして下さったのてす。まさしく 「汝は何処に居るや?」と、私たち罪人を尋ね求めて下さった神の熾烈な愛が、御子 イエス・キリストの御生涯に形をとって現れているのです。この十字架のキリストに より、私たちは罪の贖いと赦しを戴いているのです。キリストは、罪と死の支配する 私たちの人生を、永遠の恵みの支配する人生に造り替えて下さるために、十字架に死 んで下さったのです。  もはやこの“十字架の主”が共におられるところ、罪と死の支配は、私たちに何の 力も持ちえません。今朝のヨハネ伝7章11節の御言葉で、ユダヤの民らは「あの人 はどこにいるのか」と主イエスを捜し求めていました。それは私たちの姿です。私た ちは最も大切なことを知らずにいます。それは彼ら自身こそ「汝は何処に居るや?」 と、主なる神に呼びかけられている存在だということです。私たちが主イエスを捜し 求めるところに私たちの「救い」があるのではなく、主イエスがまず私たちを捜し求 めて下さっている事実にこそ、私たちの永遠に変らぬ「救い」があるのです。その、 最も大切なことを、今朝の御言葉ははっきりと示しているのです。 神は私たちの「救い」のために、御子なるイエスをお与えになった。この十字架の キリストにおいて「汝は何処に居るや?」と、いまなお全人類に呼びかけていて下さ るのです。私たちはこの主の御声に「われここに立つ」「僕は聴く、主よ、語りたまえ」 と応えつつ、信仰の歩みを続けてゆく僕でありましょう。まことの教会は、神の言葉 のみが正しく語られ、正しく聴かれるところに立ち続けます。御言葉への従順の歩み においてこそ、真に健やかな、揺るぎなき群れを、私たちはここに建てて参りたいと 思います。「汝は何処に居るや」との御声に、主よ、私はあなたの教会に連なっていま す。あなたの贖いのもとを歩みますと、喜びと感謝をもって応えてゆく者でありたい と思います。 1 1