説    教    申命記10章12〜13節  ヨハネ福音書6章70〜71

「ユダの姿、我らの姿」

2008・09・21(説教08381237)

 聖書に登場する人物の中で、イスカリオテのユダほど多くの謎に満ちた人間はいな
いでしょう。ユダの名は「裏切り者」の代名詞にもなっています。英語などでも「ユ
ダ」と言えばそれだけで「裏切り者」という意味にもなるのです。「あの人はユダのよ
うな人間だ」と言えば「あの人は信頼できない人間だ」という意味になるのです。

 もっとも、もしユダが「十二弟子」の一人でなかったなら、このような汚名を着せ
られることもなかったでしょう。ユダが「裏切り者」の代名詞になったのは、彼がま
さにキリストの「十二弟子」であり、キリストに「選ばれた人」であったにもかかわ
らず、キリストを「裏切った」ことによるのです。事実、今朝の御言葉・ヨハネ伝6
章71節には「このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとし
ていた」と記されています。主イエスに選ばれ、主イエスに愛され、主イエスと共に
ありながら、なお主イエスを「裏切った」。そこに「イスカリオテのユダ」の「罪」が
あると、ヨハネははっきりと語っています。

 外国人の名前には、聖書の人物名が多く用いられます。ピーターやジョン、ポール
やマリーなどがそうです(ドイツ語ではペーター、ヨハネス、パウル、マリーア)。し
かし、ユダという名のついた人は、おそらくどこにもいないでしょう。だいぶ以前、
わが国で自分の子を「悪魔」と名づけようとした親が社会問題になったことがありま
した。それと似た感覚が「ユダ」という名にはあるのです。そんな名を子供につける
なんて「とんでもない」「縁起でもない」という感覚です。これ一つを取っても「イス
カリオテのユダ」が、どんなに憎まれ、卑しめられ、恥とされた存在であるか、その
一端に触れうるのではないでしょうか。

 西洋絵画の題材として聖書の場面がよく用いられます。あるとき西洋美術の専門家
から、イスカリオテのユダの描きかたが時代によって変化してきたという話を聴いた
ことがあります。古い中世の時代の絵を観ると、ユダは実に醜く、はっきりと悪魔の
姿で描かれています。頭に角があったりする。少し時代が下って16世紀ぐらいにな
っても、他のキリストの弟子たちとは区別して、ひと目ユダだとわかる描きかたがさ
れています。

 ところが、レオナルド・ダ・ヴィンチが最初なのだそうですが、レオナルド・ダ・
ヴィンチは、あの有名な「最後の晩餐」という壁画で、それまでの絵とは全く違った
ユダの描きかたをしています。横長の画面に、キリストを中心に左右に6人ずつの弟
子がいます。その弟子たちはそれぞれ3人ずつ4つのグループになっています。その
4つのグループがそれぞれ「つぶやき」あっている場面です。そのどこにユダがいる
のか全く見当がつかないのです。

 そこで、レオナルド・ダ・ヴィンチはまことに大胆な問いをもって、この絵を描い
ているのです。それは「ユダはもしかしたら、あなたなのかもしれない」と気づかせ
る絵だということです。自分の外側にユダがいるのではなく、自分の中にこそユダが
いるのだということに、この絵は気づかせるのです。

 かつて、ドイツのマックス・ピカートという哲学者、敬虔なプロテスタントの信者
であった人ですが「われわれ自身の内なるヒトラー」という本を著しました。日本語
にも翻訳されています。あの悲惨な第二次世界大戦が終わり、敗戦国も戦勝国も国際
社会全体が戦争責任を巡ってせめぎ合う中で、ピカートは「いや、そうではない、わ
れわれの中にこそヒトラーは存在する。誰でもがヒトラーになる可能性を、すなわち
神に対する罪を持っているのだ」と語っているのです。その「罪」の問題の解決くし
て、新しい世界の平和の秩序を構築することはできないと訴えるのです。

 もともと「ユダ」という名前は「神を讃美しよう」という意味のヘブライ語で、そ
こに悪い意味など少しもありません。今朝の6章71節には「イスカリオテのシモン
の子ユダ」と、ユダの父親の名さえ記されています。「シモン」とは「神が聴きたもう
た」という意味ですから、おそらくユダはごく普通の敬虔なユダヤ人の家庭に生まれ
育った人なのです。「イスカリオテ」については諸説あります。「ケリオテの人」を意
味するという説と「スカル出身の人」と理解する説があります。この場合「ケリオテ」
という地名は具体的に不明ですから、もしこの呼び名を「スカル出身の人」と読むと
すれば、ユダは「十二弟子」の中でただ一人、サマリヤ出身の人だということになり
ます。この他にも「イスカリオテ」を「イーシュ・シッカリ」(熱心党の人)と読む説、
あるいはユダがマルタ、マリア、ラザロの兄弟だとする説もあります。

 いずれにせよ、今朝の御言葉において最も大切なことは、主イエス御自身がこのユ
ダについて語っておられる70節の御言葉です。「イエスは彼らに答えられた、『あな
たがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうち
のひとりは、悪魔である』」。そして続く71節の最初には「これは、イスカリオテの
シモンの子ユダをさして言われたのである」と記されています。そのあとで「このユ
ダは……イエスを裏切ろうとしていた」と続くのです。

 これは、まことに厳しい御言葉です。これ以上に厳しい言葉はないと言えるでしょ
う。主みずからここにはっきりと「イスカリオテのユダ」に対して「悪魔」という言
葉を用いておられる。それならば、まさにここにこそ私たちの「罪」の本当の姿が明
らかにされているのではないでしょうか。私たち人間にとって、自分の「罪」ほどわか
りにくいものはないのです。あなたの「罪」とは何かと問われて、明確な返事ができ
る人はいないのです。しかし、ここに主みずから「悪魔」という言葉を用いておられ
ることによって、私たちははじめて、みずからの「罪」の正体に直面するのです。

 この「悪魔」と訳された元々の言葉は「神に敵対する者」という意味の「サターナ
ー」というヘブライ語です。それは漠然とした「悪」や「弱さ」また「愚かさ」など
とは違います。主イエス・キリストが明確に、御自分の十字架によって私たちを贖い
出して下さった「罪の支配」であり「死の力」こそ「サターナー」(悪魔の支配)なの
です。つまり私たちの「罪」を主が「悪魔」と語っておられる本当の意味は、主イエ
スというおかたが、私たちを神の恵みの支配から引き離す「罪の支配」「死の力」(ま
さに「罪の支配」)から私たちを救うために、あの呪いの十字架にかかって下さったキ
リストであることを明確にしているのです。それならば、主がここで「イスカリオテ
のユダ」を「悪魔」と呼んでおられるのは、彼に匙を投げておられるのではありませ
ん。むしろその逆です。まさに御自分こそ「イスカリオテのユダ」に対しても「救い
主・キリスト」であられることを明らかにしておられるのです。

 なによりも主イエス御自身、あの荒野の四十日の試練において「悪魔よ退け」と「罪
の支配」に勝利して下さいました。ただ神の御言葉による真の自由と幸いと慰めとに、
十字架(教会)によって私たちを連ならせて下さったのです。だからこそ主イエスは
ここに、ユダに対して言われるのです「あなたは、私が弟子として選んだ者ではない
か。あなたは『罪の支配』にあなたの人生を委ねてはならない。そうする必要もない。
なぜなら私は、あなたの罪を贖うために来たからだ。私は、あなたのために十字架に
かかり、復活の生命を与えるために来たのだ。だから、私の恵みのもとに留まってい
なさい。信仰に堅く立ちなさい」。そのように主は、ユダに対して語っておられるので
す。

 だからこそ主は、ここで敢えて「悪魔」というまことに厳しい言葉をお用いになり
ました。ユダを(また弟子たち全員を)支配している「罪の支配」が何であるかを明
らかにされ、その救いが御自身にあることを告げておられるのです。私たちはただキ
リストによってのみ、みずからの「罪」を正しく知るのです。福音の光(キリストの
恵み)に照らされてのみ、みずからの「罪」の姿が見えるようになるのです。まず罪
の認識があって福音を信じるのではなく、福音を信じることにおいて罪の認識が生じ
るのです。

その「罪の支配」に対して、私たちは全く無力でしかありません。しかし主イエス・
キリストは私たちの身代わりとなられ、十字架におかかりになり、私たちを「罪の支
配」から解き放ち、これからのちは、御言葉と聖霊の恵みの御支配のもとに、喜び勇
んで主に仕えつつ生きる者として下さるのです。その恵みを、私たちは主の御手から
戴いているのです。それが私たちの教会です。

 イスカリオテのユダも、主イエスの御手から、弟子たる恵みと幸いを戴いていたの
です。それに立ち続けよと主は言われるのです。あなたの人生を「悪魔」(罪)の支配
に委ねてはならない。あなたとあなたの人生の全体を、私に委ねよと主は言われるの
です。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがた
を休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくび
きを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる
であろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 ユダヤにおいては二頭の家畜が一つの「くびき」を引きました。同じように主イエ
スはいま、イスカリオテのユダの「罪の支配」という重い「くびき」を(彼が決して
負うことのできない重い「くびき」を)担って下さるのです。そのとき、あなたの人
生を圧し潰すその「くびき」は、私がそれを共に担うことによって、軽やかな、負い
やすい「わたしのくびき」(キリストの祝福)となる。そのとき「あなたの魂に休みが
与えられる」と主は言われるのです。

 だからこそ、改めて気づきます。ユダは私たちの外にいる「誰か」のことではあり
ません。キリストを裏切ったユダは、まさに私たちの姿なのです。レオナルド・ダ・
ヴィンチの洞察のとおりです。自分の周囲を見回しうる私たちではないのです。「ああ、
あの人は怖ろしい罪を犯した。でも自分はそういうことはない」そうした思いで今朝
の御言葉を聴くことなど断じてできない私たちなのです。「悪魔」という言葉はまさに
私たち一人びとりに向けられています。その「悪魔」はあなたを圧し潰す。その重い
「くびき」はあなたを滅ぼす。しかし、私はまさにあなたをその「罪の支配」(くびき)
から解き放つため、あなたを神の恵みの支配のもとに生きる者とするために来たのだ
と、主は言われるのです。

 「もしユダに救いがなければ、この私にも救いはない」と語った人がいました。私
たちの「罪」はユダの「罪」と同じなのです。ユダの救いの問題は私たちの救いの問
題なのです。キリストを「裏切った」「罪」は、イスカリオテのユダも、他の弟子たち
も全く同じでした。ペテロなどは3度も主イエスを裏切りました。他の弟子たちもみ
な十字架を前にして、クモの子を散らすように逃げてしまったのです。キリストを「裏
切った」のです。私たちを神から引き離そうとする「罪の支配」は、全ての人間が持っ
ているのです。ユダの姿こそ、ほかならぬ私たちの姿なのです。

私たちは聖書が、ユダの悲劇的な最後を描いていることを知っています。ユダは救
われたのでしょうか、それとも滅びてしまったのでしょうか?…それは私たちの窺い
知るべき事柄ではありません。大切なこと(確かなこと)はただひとつです。それは、
主イエス・キリストはユダに対しても(ユダに対してこそ)「救い主」(キリスト)で
あられたという事実です。「罪のまし加わるところには恵みもまし加わった」のです。
「悪魔」の力より遥かに強い“救いの権威”をもって、主はユダに対しても「救い主」
であられたのです。

もちろん、ユダと他の弟子たちとには、主イエスに対する姿勢の違いはありました。
ペテロや他の弟子たちはみな、取り返しのつかない大きな「罪」の中から、ただキリ
ストの恵みに拠り頼みました。これを聖書では「悔改め」と言います。「悔改め」とは
「神に立ち返る」ことです。大きな「罪」の中で、キリストの悲しみの御手に自分を
明け渡したのです。神に立ち返ったのです。

 主を3度も裏切ったことを知ったペテロは、夜が更けるまで泣き続けました。彼が
その悲しみの中で思い続けたのはキリストの御言葉でした。ペテロは主の御言葉を思
い続け、主の恵みの御手に自分の全てを委ねたのでした。そこにペテロの「使徒」と
しての新しい歩みが始まりました。他の弟子たちも同じでした。神の前に誇りうるな
にものも持っていなかった彼らはただ、私たちを十字架によって「罪の支配」から贖
いたもうキリストの恵みを誇ったのです。キリストの恵みと憐れみのもとに立ち続け
たのです。

 ユダはしかし、自分の「罪」の解決を人間に求めてしまいました。自分が銀貨30枚
を受け取った祭司長たちのところに行き「わたしは罪のない人の血を売って罪を犯し
ました。どうしたらよいでしょうか?」と訴えたのです。彼らの答えは「そんなこと
はわれわれの知ったことか。自分で始末をするがよい」というものでした。

 ユダの魂も、ペテロの魂も、同じように砕けたのです。自分を保ちえなかったので
す。「罪の支配」のもとに自分を保ちうる人間はいません。ユダはその砕けた魂を人間
に向かって注ぎました。そこには救いも希望も喜びもなく、悲しみと絶望だけが残っ
たのです。みずからが重い罪の「くびき」を負い続けるほかなくなったのです。そし
てその「くびき」がユダの全存在を圧し潰したのです。

 しかし、そのユダに対しても、主イエスは最後まで「救い主」であり続けられた。
ユダのために(私たち全ての者のために)十字架を担われました。それならば、ペテ
ロの砕けし魂を受け止めて下さったように、主はユダの魂をも受け止めて下さったの
ではないでしょうか。「神の受けられるいけにえは砕けた魂。神よ、あなたは砕けた悔
いた心を、軽しめられません」。キリストの御手に注がれた私たちの魂(存在)は、キ
リストが新たにして下さいます。立ち上がらせて下さいます。その絶望に向う重い「く
びき」すらも、主は軽やかな「わたしのくびき」に変えて下さるのです。

 その「くびき」を負うとき、もはや私たちは「悪魔」の支配のもとにおらず、永遠
に変らないキリストの恵みの御支配が私たちと共にあるのです。そこに私たちは「キ
リストの内に自分を見出し」キリストの生命を戴き、贖われた僕として歩んでゆきま
す。そこにいま、全ての人が招かれているのです。